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【かくれ繊細さん】非HSPを目指すから苦しくなる。繊細な感受性を活かそう!

前回の記事では、HSS型HSPのかくれ繊細さんがもつ、【はみだした感受性】についてお伝えしました。

はみだした感受性をもつかくれ繊細さんたちは、その人と違う自分を隠そう、直そうとしてしまう傾向があります。

それが、他でもない、かくれ繊細さんの生きづらさを生み出しているのです。

今回は、そうした「はみだした感受性」との付き合い方、扱い方について『その生きづらさ、「かくれ繊細さん」かもしれません』(時田ひさ子 著)より抜粋してご紹介します。

「はみ出した感受性」を非繊細さんは理解できない

「はみ出した感受性」を非繊細さんは理解できないから、かくれ繊細さんは非繊細さんに理解してもらえません。どのくらい理解してもらえていないかというと、非繊細さんたちは、かくれ繊細さんたちが持ち合わせているある感覚そのものの存在自体を知らない、というレベルです。

 たとえば、20年前はみんなWi-Fiという電波の存在を知りませんでしたよね。テレビやラジオのための電波が飛んでいることは、目には見えないけれどもテレビやラジオという受信機で確かめられますが、携帯電話の電波などというものは知りませんでした。そんな時代に、Wi-Fiの電波について一生懸命説明している人がいるとしましょう。あなただったら、その説明を聞いてどう言うでしょうか。きっと「そういう電波があるのかもしれないけれど、見たことないからよくわからない」とか「わかってあげたいけど、確かめられないからピンとこないな」と言うしかないのではないでしょうか。
 これと同じことが、かくれ繊細さんのはみ出した感受性を、非繊細さんが理解できないときに起こっています。かくれ繊細さんが、心の奥底のことを話しても、非繊細さんは「わからない」「ピンとこない」ようなのです。

 非繊細さんたちは、自分の感覚のほかに「もっとなにかがある」とは思っていません。存在自体を知らない状態です。
 知らないから理解しようがない、のです。そして、この理解されないはみ出した部分についてかくれ繊細さんが話してもピンとこないのです。なぜって、非繊細さんにとっては未知のもの、存在していないものだから。そのことについて真剣に、熱っぽく話すあなたに対して、ピンとこないのです。ピンとこないから答えようがなくて、「考えすぎだよ」と言うんでしょうね。ほんとにわからないってことなんだと思います。

 先に挙げた図で言えば、左右両端のはみ出した部分が、非繊細さんに理解されないし、非繊細さんにはない部分です。
 繊細さんと非繊細さんについてあまりよくわかっていない頃は、「片方にだけはみ出しているのかな」と思っていたのですが、かくれ繊細さんたちに伴走しているうちに、両端にはみ出しているようだということがわかってきて驚きました。

非繊細さんに合わせようとするから苦しくなる

 繊細さんは、そのはみ出した部分をどうしているかというと、話してもわかってもらえないので、両端のはみ出した部分を見せずに、非繊細さんと同じ長さの感受性だけで生きているように見せかけています。
 あんまり強く感じていないように見せているんですね。
 話してもわかってもらえないばかりか、はみ出した両端を見せてしまうと、怪しまれたり、怖がられたり、距離を置かれたり、人としてどうなのかと批判されたりするからです。

 かくれ繊細さんは、「人としてどうなの」ということにとりわけ敏感です。
「人のことなんて放っておけばいい」とか「自分が得するには……」などの利己的なことや、「メンドクサイから体調悪いことにしちゃおう」というちゃっかりしたことや、「『変わってる』って思われたくないから、ほんとは違うけど『うん』って言っておけばいいや」などの実態よりもよく思われようとすること、などを思いついては、打ち消すということを無意識に繰り返して、普通の人と同じようにしていると思います。
 こんなふうに思いついちゃった、なんてことを、あえて言わないですよね?
 だって、「人としてどうなの」と言われますから。
 だから、非繊細さんと同じにしようとして、非繊細さんの感覚と同じだけの分しかないように、自分の「悪すぎる感覚」や「善すぎる感覚」の強くて深いはみ出し部分は封印して生活していると思います。

 たとえば、あなたは自分だけが気づいたことを、即座に口に出すでしょうか。もし、人より先に気づいたとしても、きっとまずあなたがやることは、「自分の感じ方がおかしくないかを確認する」のではないでしょうか。一番最初に「気づいた」と言い出さず、周囲の人たちが気づいていないかどうか様子を探り、そのグループでどのレベルの発言をしたらいいかを観察しながら、そっと会話に入っていくようにしていませんか?
 または、人に優しくしすぎるとお人よしと馬鹿にされたり注意されたりするかもしれないので、適度に冷たく対応したり、とか。
 テレビのタレントさんを見てちょっと違和感を感じたとき、同じように感じている人がいるかどうかをSNSで確認してみたり。
 これらのことは、「自分の感じ方がみんなと同じなのか」を確認する作業。つまり、「自分、はみ出していないかな?」「目立ちすぎていないかな?」とチェックしているのです。

 これらの「先にわかる」「共感できる」感覚を封印して、非繊細さんに合わせようとすることで、みんなと同じようにしようとします。そうすることで、周囲から浮かないように、気づきすぎる自分を隠してうまくやってきたのです。

 ですが、このみんなと同じようにすることに慣れすぎてしまい、本当は自分ではみ出した感覚を無理やり封印していることに気づかないままだと、今度はどんどん苦しくなってしまいます。外面を装い続け、周りに合わせ続けることで、自分が本当に感じ取っていることがわからなくなってしまいます。自分は本当はなにをしたいのかがわからなくなってしまうのです。

 本当は、わかっているのです。自分の中で感じていることが「はみ出した部分」に該当することだから、隠さざるを得ないだけで、あなたがなにかを感じていることはわかっているのですが、そこから先、自分がなにを感じ取っているかを「知る」ことをやめてしまう癖がついてしまうため、自分が「本当はなにを感じているのか」がわからなくなるという事態に陥ってしまっているだけなのです。

はみ出した部分を抑圧すると生まれる苦しみ

 本当に感じ取っている感覚は、表に出さないようにしてしまいます。世間にばれないようにぎゅうううっと押し殺しているのです。急な来客で見せたくないものを無理やり押し入れに押し込むようにして。

 本当の感覚を押し殺しながら、必死です。
「自分が変だから、普通にならなきゃならないのよ」と、はみ出し部分を否定し、変えようと頑張ります。
 それはもう必死に、「変えよう」としてしまうのです。「性格を変えたい!」とする行動は、このはみ出し部分の押し殺しを図ろうとしているということです。
 自分の感覚が間違っていないか、チラリと周りを見てひたすらチェック。
「自分、はみ出していないか? チェック」です。
 このとき、軸は他人です。他人の行い、他人の価値観、他人の常識から外れていないだろうか、とひたすらチェックします。
 もしその範疇から外れていたら、急速に範囲内に自分の言動を戻しながら、今度は、自分の外れた行いを誰かに見られていなかったかどうか? をそっと見回し確認するのです。

 このチェック行動に覚えがありますか?

 私は子育て中、ひたすらこれを繰り返していました。自分の子育てに自信がないうえに、子育ての常識がわからないので、他人軸チェックをひたすら繰り返して「子育ての常識」を習得していきました。
 当時、子連れの外出は恐怖で、疲れ方もひどかったです。ずっと他人軸を観察しているうえに楽しんでいるふりもしなければならないので、すごくエネルギーを使うからです。
 そのようにして、他人軸を自分にインストールしていきました。そう、これってまったく「自分軸なんてない」状態です。はみ出した部分をなくすことなんてできないとは知らなかったので、「普通に見せよう!」ともがいていたら、自分軸などどこかに行ってしまいました。

 このように、かくれ繊細さんは、自分軸を捨てて、他人軸を取り込んで、頑張って変わろうとします。ほんとに必死に他人軸を取り込んでいきますよね。
 でも、この方法はまったくの間違いではないのです。他人軸は、世間の常識ですから知っておくに越したことはないし、世間の常識がわかっている方が圧倒的に生きやすいからです。

 ですが、もう一度お伝えしますが、もともと持っているものですから、はみ出し部分をなくすことはできないのです。ただただ、隠蔽し続けて苦しくなるだけです。
 そして、はみ出した感受性を抑圧し、そぎ落とそうとして、非繊細さんと同じように生きよう、性格を変えよう(もっと楽観的に生きよう、とか、ポジティブに考えられるようになろう、など)としたときに生まれるのは、「できない」という自己否定です。

 かくれ繊細さんの場合は、何度頑張っても、ポジティブで楽観的な物事のとらえ方、感じ方をするようになることはありません。もともと持っているあなたのネガティブな部分(表の左側のはみ出した部分)をないことにしようとして得られるのは、周囲の人から受けのよい「みんなと同じふりのうまい自分」と、「本音は違う。自分は変われない」という自己否定感だけです。
 これでは、かくれ繊細さんは、どこまでいっても本当の自己肯定ができるようにはなりません。

 その構造を知らないまま、「自分の感じ方が違うから直そう」「自分はみんなと違うから同じになろう」としてしまいます。はみ出した感受性を持って生まれてきた以上、はみ出した部分をなきものにすることは無理です。

 がっかりさせてしまいましたか?
 私も、そのことに気づいたときは心底がっかりしました。
 でも、安心してください。一般的な方法論とは異なりますが、かくれ繊細さんが生きやすくなる方法はあります。

 はみ出した部分を持っている人ができる最大限は、そのはみ出した部分を「これも自分の一部だ」と受け入れることだけです。これができると、自分を知ることができます。ひいては、自己を完全に肯定することにつながります。そして、待望の「ぶれない自分」がやってきます。これぞ、自分軸です。

 ちなみに、ですが、自分がはみ出してないか、ひたすらチェックしてしまう度合いは、みな同じではなく、生まれ育った環境、成育環境によって異なります。親や周囲の大人に、「あなたの繊細さは才能である」と、繊細さを肯定されて育ったかくれ繊細さんは、他人軸のチェックはあまりしていません。認めてもらえる環境であれば、そこで他人と比べることなく、自らの特異な才能・能力を認めて伸ばしていきます。もし認めてもらえなければ、自発的に独自の才能・能力を否定し、他人軸を獲得しに走ります。よって、自分の才能を肯定してもらえる環境に育った繊細さんが自己肯定できる可能性は格段に上がります。

 これは、繊細さんがお子さんを育てるときに覚えておいていただきたいことです。自己否定をしているかくれ繊細さんが子育てをするとき、自分の特性を自覚しつつ、お子さんの繊細さを肯定していってあげられると、かくれ繊細さんが才能をのびのびと発揮する時代が思ったよりも早くやってくるかもしれません。

※本稿は『その生きづらさ、「かくれ繊細さん」かもしれません』(時田ひさ子 著)より抜粋したものです
※イラスト/カシワイ

(編集部 杉浦)

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