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マウンティングは、自己肯定感が生んでいる!?

こんにちは。
フォレスト出版編集部の森上です。

◎SNSによる誹謗中傷
◎パワハラ
◎歪んだ自己愛
◎正義をふりかざして怒る
◎人のSNS投稿に対して異常に反応する
◎他者へのマウンティング
◎無力感

これらの社会的課題に共通するものは何だと思いますか?

日本で随一のスポーツドクターにして、産業医の辻秀一先生は、近年、日本社会に蔓延する「自己肯定感」至上主義にあると指摘しています。

「自己肯定感」という言葉だけが一人歩きし、自己肯定感を上げることを善とする社会的圧力が、先のような課題を生んでいると警鐘を鳴らしています。

必要なのは、自己肯定感ではなく、自己存在感。

この2つは、似て非なるものであり、辻先生が提唱する、自分の心身を健康的に保つために重要なキーワードです。

そんな日本社会に蔓延する「自己肯定感」至上主義の脱却をすすめるべく、その警鐘とともに、その対処法をまとめた新刊『自己肯定感ハラスメント』が2月10日(Amazonは2月9日)に発売されます。

今回は、同書の中で「マウンティングと自己肯定感にどんな関係があるのか?」についても解説している同書の「第1章『自己肯定感』が私たちを苦しめている」全文公開します。

「自己肯定感」が私たちに強要していること

「自己を肯定する」とは、確かに聞こえのいい言葉です。
 ただ、そのため、肯定しなければならない、否定はダメなのだという概念が私たちを支配していきます。本来は自己のすべてを受け入れて、自分らしく生きましょうという意味かもしれませんが、肯定するために、比較したり、ポジティブなことを探したり、いい意味付けを見つけなければならなくなっています。
 その典型的な言葉が、「自己肯定感を高めるために成功体験を積め」というものです。そもそも自己肯定感という考えだから、高めたり上げたりしなければいけません。その根幹には、高低の概念が存在しているのです。
 では、どこまで高め続けたらいいのでしょうか?
 どこまで上げないといけないのでしょうか?
 自己肯定感の考えには、そうした矛盾を私たちに知らず知らずのうちにもたらしています。
 自己肯定感を高めるために、まずそれが高いのか低いのか、それが肯定するに値するものなのかを、まわりや社会と比較し続けなければなりません。
 例えば、オリンピックに出たとしても、金メダルを取れずに負けることは多々あります、例えば、東京大学に合格しても、もっと優秀な同級生はたくさんいます、たとえ3キロダイエットしたとしても、もっとスタイルのいい人はいくらでもいます。ツイッターでフォロワーが1万いたとしても、さらに上はとてつもなく存在します。
 自己を肯定するために、他者とあるいは世間の常識と、はたまた理想と比べ続けていかなければならないのです。外側にあるさまざまなものとの比較を強要しているとも言えます。
 オリンピックや東大、ダイエット、フォロワーの数で自己肯定感を持たなければならないことは、実は本当の自己と向き合い、それぞれが幸せに生きることとはまったく違うことだと言えます。

「自己肯定感を上げるために頑張る」という苦しみ

 より良い自分を目指して一生懸命に生きることはもちろんあっていいでしょうし、そうあるべきかもしれません。
 しかし、「自己肯定感を高めるために成功」と言うのなら、その妄想を求め続けるのはいかがなものでしょう?
 成功とは何ですか?
 試合に出ること? 上場すること? テレビに出ること? SNSで「いいね!」の数が多いこと? 有名になること?
「自己肯定するために成功」という、誰かがつくり出した尺度に当てはめながら生きていかなければならなくなります。そこにハマってしまった人には、自己肯定するために頑張らなければならず、そのためにかえって苦しくなり、さらに自己肯定感が下がっていくといった矛盾が生じています。
 もしくは、自己肯定感を上げるために自身にウソをついて、すべてをポジティブに考えていこうとしなければならなくなっているケースも見受けられます。
 それこそが、自己肯定感の呪縛です。
「私、自己肯定感高いんです!」「どんなこともポジティブに考えて、オレも社会も最高!」とうわべでは思いつつも、実は内心では苦しいと感じている人が増えています。
「肯定」という言葉の反対語に否定があるので、肯定感を保つために、否定してはいけない、すなわち、「すべてをポジティブに考えるのが自己肯定感への正解なのだ」と思い込んでしまうのです。
「成功が善、ポジティブが正」という思いが自己肯定感至上主義には存在します。本来はそんな発想ではなかったのかもしれませんが、私たちの脳は現代社会の中で自己肯定感をこのように捉え、それによってむしろ幸せどころか、苦しさを感じている人が決して少なくないのです。

「自己肯定感」がハラスメントを生んでいる

 自己肯定感の妄想が激しくなれば、ハラスメントやいじめ、誹謗中傷やヘイト主義さえをも生み出していくのではないかと私は恐れています。
 つまり、自己を肯定していこうという考えは、他者への否定によって満たされるというリスクがあるからです。
 上司がパワハラをするのも、上司が自己肯定感を維持あるいは高めるために、地位への肯定感がそうさせるのだと言えるでしょう。「偉い、偉くない」とか、「地位が高い、高くない」は、自己肯定感の考えにとっては大事な情報になります。
 一方、自己存在感という概念であれば、上司も部下も、社会的地位もまったく関係のない発想が生まれます。
 強者と弱者、メジャーとマイナー、正義と不義などの対立構造を、肯定至上主義が生み出しているのではないでしょうか?
 強者は弱者を支配することで、自己肯定感を満たします。メジャーはマイナーを乗っ取ることで、自己肯定感を満たします、正義は不義を否定して、自己肯定感を満たそうとするのです。
 自己肯定感への執着が、一方で否定の世の中を生み出し、自己劣等感を多々生み出しているように思うのです。
 私は、自己肯定感をみんなで高めようとしている世の中に、疑問を感じざるをえません。「自己肯定感を高めなければならない」「自己肯定感が低いなんてダメなんだ」「自己肯定感を上げることが正義だ」という風潮で、個々の人々、私たちの幸せ感は増したのでしょうか?
 私にはどうしてもそうは思えません。無意識な自己肯定感向上へのバイアスが自身はもちろん、まわりや社会を苦しめることになってしまっていると声を大にして言いたいのです。これこそが自己肯定感ハラスメントの社会なのです。

SNSでの誹謗中傷の背景にあるもの

 最近はSNSが通常・日常のメディアになってきたために、個人の自己発信がしやすくなり、そのことに関してはとてもいいことだと思います。ただ、反面、自己肯定感を高めようとするあまり、正義という鉈(なた)を無作為に振りかざしている現象も少なくありません。
 正義という名の誹謗中傷の背景には、自己肯定感至上主義があるのではないかと考えています。
 もちろん、社会のこうした現象は、一概にそれだけの問題とは言えないかもしれませんが、後ほど詳しく触れる人間の認知的な脳の暴走を助長する考えに、自己肯定感至上主義があるのです。肯定や否定、高めるや上げる、優劣の発想、これらから離れた考えが、今こそ必要だと思います。
 その1つこそが、「自己存在感」という考えです。外部に振り回されることなく、自身の〝ある〞に目を向けて生きることは、それぞれの存在に価値があり、自分を信じて互いに認め合い、リスペクトし合えるようになります。それは結局のところ、今求められているダイバーシティ&インクルージョン(D&I)という、平和な社会を実現することにもつながると私は確信します。

マウンティングは、自己肯定感維持のため

 先日、あるレストランで食事をしていたところ、すぐ隣の席に男女2人ずつの4人グループが座って話し続けていました。彼らの無意識の自己肯定感維持暴走によって引き起されるマウンティング的な発想に基づいた会話は、私を苦しくさせました。
 これがよく言う「マウンティング」なんだと思いました。自分の優位性を周囲に示そうとする行為です。
 明らかに4人のうち2人は高学歴で有名企業に勤めていることが会話からわかりましたが、それによりつくられてきた自己肯定感維持のために、自分たちの優位性を示そうとしているのです。つまり、そうではない劣位の相手に無意識のマウンティングをしているのです。
 彼らは、子どものころから培われていきた無意識の自身の自己肯定感を維持するために、ずっとマウンティングし続ける人生を歩むのでしょう。
 勉強でもスポーツでも仕事でも、全力を尽くして何かを得ていくことに、何ら否定するわけではありません。むしろ大切なことでしょう。
 しかし、それによって得られるものは自己肯定感であってはなりません。それによって自身が苦しくなるからです。得る結果も、そのためのプロセスも、すべてはただ唯一無二の「自分の存在」を自らが知って感じるためのはずだからです。

「ただ自分であればいい」という発想

 しかしながら、学校教育、家庭教育、社会教育もすべては比較と評価の中にあり、肯定至上主義への道を歩んでいくように仕向けられています。
 比較されているから苦しいのに、比較しながら肯定感を高めていかなければならないのです。
 私も競争の世界で戦いながら、そこそこ勝ち抜いて自己肯定感を高め、維持してきたほうでしたが、「はじめに」で述べたように、その苦しさを30歳のときに「パッチ・アダムス」によって気づかされ、解放されました。

▼「はじめに」はこちらの記事で読めます

 幸いというべきでしょうか、私の両親は、私に自己肯定感を高めるための教育は一切なく、誰かと比べることも、成功を強要されることもありませんでした。「ただ自分であればいい」と言われて育ちました。「勉強しろ」とも「するな」とも言われず、スポーツで「勝て」とも「負けていい」とも、「医者になれ」とも「なるな」とも言われた覚えはありません。
 ただ見守られて応援されていたという実感だけは強く残っています。
 その後も、私は自分で決めて勉強もスポーツも仕事も全力でやってきましたが、ふと気づくと、社会の自己肯定感至上主義の中で溺れそうになっていました。超優秀なドクターたちの中で、日々患者さんが亡くなっていく現実の中で、自己肯定感を維持できなくなっていたのです。
 そんなとき、「パッチ」のおかげで、自分自身を見つめる機会を得られたのです。その気づきは、小さいころからの両親の育て方のおかげも十分にあると思います。

自己肯定感に執着しない、マウンティング不要な生き方

 自己肯定感など外界によってつくられるものではなく、私自身が自分の中にあるものを見つめてみたのです。そうすると、私はスポーツが上手か得意かではなく、本当に好きなのだと気づきました。スポーツのことなら夜中でも休みでも苦にならない自分がいるとわかったのです。
 テストで100点を取るよりも、バスケットボールで活躍したり、優勝するよりも、患者さんを治すことよりも、ワクワクするものが自身の中にあったのです。
 代々医者の家系でもあり、父の習慣的な言葉も「世のため人のためが自分のため」であり、小さいころから聞かされていたこともあるのか、社会や人のために生きるのは、自己犠牲ではなく、心地良いものだと無意識に体感していたのでしょう。
 そこで、私はスポーツドクターとなって応用スポーツ心理学を基にして、心をサポートし、社会と人のQOLに役立つ人生を歩むことにしたのです。
 こう述べるとカッコよく聞こえますが、実際には語り尽くせないほどのいろいろな苦労や失敗や事件が起こりましたが、妻をはじめ娘たちの理解と支えもあり、今に至ります。
 以来、私の人生は自己肯定感の世界でもがいているよりも、「自己存在感」を大切に生きることで、明らかに自然体な自分でいられるようになったのです。
 こうした自己肯定感に執着しない、マウンティング不要な生き方は、実は誰にでもできます。脳の使い方、すなわち考え方やモノの見方を違う視点で持つようにすればいいのです。
 それを第4章の自己存在感の持ち方で詳しく述べています。誰もが自己存在感のある生き方を育んでいくことができます。

社会的課題は、自己肯定感への妄信が生み出している

 今、社会に蔓延している社会的課題は、経済格差、健康障害、環境問題など、世界中にはびこっています。それを感じていない人は、まずいないでしょう。
 私は「自己肯定感への妄信」がこれらを引き起こす一因にもなっているのではないかと推察しています。
 自己肯定感は、ヒエラルキー思考に他なりません。自己肯定感の源は、ピラミッド構造が背景にあります。つまり、上下や優劣で支配される構造が、利権や金銭を求め、効率化や自分中心主義を招いて、格差や対立を生み出しています。
 スポーツもそうですが、社会構造上、役割の違いは皆にあり、それにより社会は機能しています。しかし、「自己肯定感への妄信」は、社会を歪んだものへと誘います。
 自己肯定感の従来の意味は、「すべての自己を肯定し受け入れる」という意味なのでしょうが、肯定するために、どうしても比較や評価に囚われる認知的な脳が働いてしまい、気づけば、社会課題をも生み出してしまっているのです。
 マンガやドラマの「半沢直樹」のような企業構造が、社会や世界全体にも見え隠れしています。「半沢直樹」は、自己存在感をエネルギーの源泉として生き抜いている主人公で、社会の仕組みに臆することなく、私たちにメッセージを発してくれています。私たちが感じる社会の不条理の背景には、自己肯定感への追求がもたらした人類の暴走があります。
 一方、自然界では、例えば、調和を重んじ、それぞれの命に自己存在感はあるものの、自己肯定のために成功体験を積み重ねようというような欲求や欲望はありません。
 そう、「人間の脳の暴走の代表こそが、自己肯定感信仰なのだ」と私はお伝えしたいのです。

世界や人類が「自己肯定感への妄信」の限界に気づき始めている

 グラミン銀行の創設者で2006年ノーベル平和賞受賞者であるムハマド・ユヌス博士は、「3つのゼロ」のために立ち上がった社会起業家の1人です。彼の目指す3つのゼロは、私が申し上げている社会課題に他なりません。
 そのすべての原因は、自己肯定感至上主義です。自己肯定感を満たすために成功体験を刻み続けなければならず、気づけば社会はヒエラルキー構造になり、格差が生み出されていきました。
 そこで、ユヌス博士がこの社会課題解決のために必要だとおっしゃっていることが、「ユヌス・ソーシャル・ビジネスの7原則」に垣間見られます。

①ユヌス・ソーシャル・ビジネスの目的は、利益の最大化ではなく、貧困、教育、環境等の社会問題を解決すること。
②経済的な持続可能性を実現すること。
③投資家は投資額までは回収し、それを上回る配当は受けないこと。
④投資の元本回収以降に生じた利益は、社員の福利厚生の充実やさらなるソーシャル・ビジネス、自社に再投資されること。
⑤ジェンダーと環境へ配慮すること。
⑥雇用する社員にとってよい労働環境を保つこと。
⑦楽しみながら。

 この7原則は、直接、自己存在感を醸成するものではありませんが、次章で述べる認知的な自己肯定感の暴走から離れたビジネスのあり方の1つを説いているように思います。ひいては、この考えは一人ひとりの自己存在感に基づく生き方と社会構造につながっていくためのヒントかもしれません。
 ようやく世界全体で取り組み始めたSDGsに見る17の社会課題も、すべては認知脳による自己肯定感への人類の暴走が生んだものだと思います。
 社会、特にビジネスの世界では、自己肯定感による構造で動いているために生じた社会課題の数々なのでしょう。今の資本主義経済は、「儲けたい」「偉くなりたい」「うまくいきたい」という自己肯定感への欲求を基盤に成り立っています。一方で、このような自己肯定感への妄信の限界を、少しずつ世界や社会が、そして人類が感じ始めているのではないでしょうか?
 自己肯定感の勝者たる先進国が社会課題により疲弊し、後進国への優位性を誇示しているのが今の社会と言ってもいいでしょう。

【著者プロフィール】
辻󠄀 秀一(つじ・しゅういち)

スポーツドクター。産業医。株式会社エミネクロス代表取締役。
1961年東京都生まれ。北海道大学医学部卒業。慶應義塾大学スポーツ医学研究センターでスポーツ医学を学ぶ。1999年、QOL向上のための活動実践の場として、株式会社エミネクロスを設立。応用スポーツ心理学をベースに、個人や組織の活動やパフォーマンスを最適・最大化する心の状態「Flow」を生み出すため、独自理論「辻メソッド」で非認知スキルのメンタルトレーニングを展開。子どものごきげんマインドを育む「ごきげん授業」を日本のトップアスリートと展開する「Dialogue Sports研究所」の代表理事を務める。著書に『スラムダンク勝利学』『ゾーンに入る技術』『禅脳思考』『自分を「ごきげん」にする方法』他多数。

今回ご紹介した2月10日(Amazonは2月9日)発売の新刊『自己肯定感ハラスメント』では、著者・辻秀一先生がスポーツドクターの視点から、自己肯定感ハラスメントからどのように脱出し、どのように対処していけば自分の心の健康を守ることができるのかについて丁寧に解説いただきました。興味のある方はチェックしてみてください。

▼『自己肯定感ハラスメント』の目次はこちらで公開中



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