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二世ではなくて

 宗教二世ということばが、世間を騒がせた。

 問題自体は、今に始まった話ではない。思い出すのは、司馬遼太郎の「ひとびとの足音」である。正岡子規の養子、忠三郎の実母が、まあなんというか毒親で、宗教で子どもたちの人生を害した。それは天理教だったけれど、どこでだってあり得る話だ。

 人間が頭だの感情だの、心以外の場所で神を捉えるとき、宗教が生まれる。

 わたしはクリスチャン二世と言うのだろう。父方では曾祖父の代からだから、四世かもしれない。日曜学校育ちで、幼いころから教会に通っている。

 わたしが案外素直に育ったのは、母が賢くて、押し付けることのないひとだからかもしれない。母は娘に強要するのではなく、どちらかといえばその背中で語っていた。

 母とイエスさまが親しいこと、イエスさまについて語るときの母が、溌剌として美しかったこと、母を支えているのがイエスさまであること。母の語るイエスさまは生きた、本物だった。だからこのひとはこんなに強くてかっこいいんだなあ、と子ども心に感じていた。

 (お母さま、読んでますか。コメダ珈琲のジェリコを奢ってくださってもいいですよ。いや、母は読まないと思うけど)

 それから母は、イエス・キリストの名前で洗礼を受けるために、小学生のわたしをアメリカまで引っ張って行ったので、そこでもわたしはキリストを信じるひとたちの影響を受けることになったのだった。

 放浪のアブラハムみたいなうちの母は、仏教の一般家庭に生まれて、カトリックからプロテスタントから色々なところを転々としてきて、いまに至っている。わたしはそのたびに引き摺りまわされてきたが、でも母がそのたびに、もっと純粋な真理に近づいているらしいことを、その背中を眺めながら感じていた。

 母は決して押し付けなかったが、あるときこう言った。

 「神さまに孫はいないのよ」

 それは衝撃だった。こんなに神を愛しているひとの娘なら、何か恩恵があるのではないかと甘えていたから。

 それからもう十年以上が経って、わたしは自分と神さまのあいだに、母を、誰をも挟まないことを学んだし、いま母が神を捨てようと、わたしは捨てることない、と信じている。

 いまのわたしははっきりと言える。わたしと神さまの関係は、ふたりきりのものなのだと。キリストはわたしのなかから流れる、生きた水の井戸。主の喜びは、わたしの力。わたしは日々、キリストと生きている。二世なんかじゃない。

 わたしのなかに生きているキリストが、本物であることは、わたしが知っている。そうでなかったら、とうに離れている。この水が、心にも良い水だと分かったからこそ、わたしはキリストを選んだ。強要されたことはない。

 光と影があるように、本物があれば、偽物もでてくる。それに惑わされずに育てたのは、ほんとうに恵まれていた。大して迷いもせずに、キリストに人生を捧げられたのは、ただ恵みでしかない。

 どうか、神さま、いまわたしに小判鮫みたいにトイレまで付きまとってくるこの子にも、同じ恵みを与えてくださいますように。いつまでも寝てくれないこの子に、わたしが背中で語ることが出来ますように。


 


 


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