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もし神さまがいるのなら (短編)


*このお話は作り話であり、実在の団体や人物とはなんら関係がありません*



 《 If God ever exists 》

 喫茶店の奥には庭がある。壁に閉ざされた狭い空間で、ガラス越しに眺めていると、降ってもいない雨の感じがした。目の前に座っている彼は、今しがた伝票を手に去っていったひとから、ゆっくり尖った視線を戻すと言った。

 「母さんは宗教にハマってるんだよね」
 
 宗教、宗教ねえ。すっと心が殻に戻っていく感覚がした。あのひとの目はなんだか柔らかで、吸い込まれてしまいそうな気がしたけど。

 「神さま神さまってうるさいし、部屋中に聖書の変な文句を貼り付けるし、日曜はなにがなんでも教会に行くし。マジでおかしいよ、あのひと」
 「マサルも教会に行ったことある?」
 「まさか。オレはそういうの嫌いだから」

 そう言って彼はもう何度目かに、長すぎる前髪を触った。ずっと切りたいと思ってた。わたしは美容師をしてるから。マサルは駅前のカラオケでバイトしながら、サッカークラブの追っかけをしてる。口を開けば、昔そこのユースに入っていた自慢ばかり。結構イケメンだけど、自意識過剰の男は嫌い。この界隈ではそういうのばっかりしか会わないんだけど。

 彼の母親というひとに、偶然会った。働き者の手と、やさしい目をした中年の婦人だった。わたしが県外から越してきたばかりだと知って、じゃあリンゴ珈琲をご馳走するわ、と喫茶店に誘われた。彼は尻込みしていたけど、わたしはなんだか彼女に付いていきたい気分がした。彼に辟易していたからかもしれない。

 彼女はにこにこしていて、自分のことも、息子のこともほとんど語らなかった。ただその微笑みを呼び水のように、なぜかわたしは自分の人生を、滔々とマサルのお母さんに語っていた。

 ……兄と仲が悪いこと、本当は写真家になりたかったけど、霞じゃないものを食える職を手に付けろと言われて、渋々美容師になったこと、それでも写真は諦められなくて、いまも撮り続けていること、兄がのさばる実家から離れたくて、何となくいいなと思ったこの街に来たこと。

 そう、そうなの、とマサルのお母さんはやさしくわたしの目を見つめていた。リンゴ珈琲の入ったおしゃれなマグに顔を埋めながら、わたしは母を思い出してすこし泣きかけた。一人暮らしが初めてで、知らない街が不安だからかもしれない。マサルみたいな男と付き合ってしまうくらいには、わたしも不安定なのかもしれない。

 「わたしの知り合いにも、写真家さんがいるのよ」

 彼女はキルトでできたバッグから旧式なスマホを取り出すと、わたしに差し出した。鷲尾灯っていうひとなんだけど、とアンティークみたいな茶色いテーブルの上に、青みがかった色彩のホームページが開かれる。

 わたしも彼女を知っていた。Instagramもフォローしている。透きとおるような感覚の、とっても知的なひとだった。海だとか、光だとかが溢れてる。洗練されていて、なんだか高いところを泳いでいるようなひとだった。まさか、マサルのお母さんの知り合いだったなんて。

 「灯さんも喜ぶと思うわ。彼女、この街で個展を開いたことがあるの。その頃から作品もだいぶ変わって来ているけど」

 小さい頃考えていた程度には、世界ってもしかしたら狭いのかもしれない。なんだか手探りでどこかへたどり着けそうなくらいには。わたしはマサルのお母さんとLINEを交換した。この街に来て初めて、時々感じていた、あの水の流れにふれた気がした。マサルは期待外れだったけど、流れはやっぱりどこかに繋がっていた。

 「魂は付き合う社会を選ぶ、そして扉を閉じてしまう」という詩を、中学の頃、大好きだった英語の先生が教えてくれた。だけど川の上流へ目を向けさせてくれるひとと出会うのは、とても難しい。憧れの写真家さんは、マサルのお母さんと繋がっていて、マサルのお母さんは、神さまみたいにやさしい目をしてた。

 お母さんが立ってからも、ぼんやりとしていたわたしに、きっとマサルはイラついたんだと思う。だから宗教にハマってるとか言ったんだ。ほんとうにそうなんだろうか。わたしが心の示す方へ、水の流れてくる方へ辿っていくのなら、宗教とかカルトとかに捕まってしまうのかな? わたしのお母さんがいてくれればいいのに、そうしたら教えてくれたのに。

 マサルとわたしは、喫茶店を出たあと、近くのケーキ屋さんで小さなシュークリームをたくさん買った。街のまんなかを流れる川の、葦の生える河原に降りて、透明な水を眺めながらぱくついた。最後の一口を頬張って、口元についたパウダーシュガーを丹念に払ってから、わたしはマサルを川に流した。これ以上付き合ってられなかったんだもの。頭の悪い男は嫌い。わたしだって良くはないけど、もっと高いところへ泳いで行こうという気もない奴と一緒にいたら、わたしまで引き摺り下ろされちゃいそうだったから。

 アパートに帰る途中、青いアルプスの山が夕日に輝いてみえた。まだ山の名前は覚えてない。人間の手など届かなそうな、天辺がピラミッドみたいな形の山。初めてこの街に来たときに、あんなに高くて、大きなものがあることにびっくりした。それでいてこんなに近い。もし神さまがいるのなら、きっとあの山みたいなのかも。わたしの心の中に、ほんのわずかに存在する透明な水は、きっとあんな山から流れてるんじゃないかと思うから。


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