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このゴシェンの地にて

 毎晩、ヴラディクのために祈る。

 ヴラディクの家族はチェコに逃れたが、彼はウクライナに留まらざるを得なかった。ヴラディクはまだうら若い青年だ。いまはウクライナ軍の兵士として戦っている。

 わたしはヴラディクに会ったことがない。ときどき教会に来てくれるチェコ人のMさんから、聞き知っただけ。ヴラディクの家族は、チェコのMさんの教会に通っているそうだ。

 ヴラディクはわたしにとって、ウクライナとの接点になっている。ヴラディクのために祈りながら、またその背後にいるひとびとのことをも思う。広いロシアを挟んで、彼らは隣国である。この戦争を他人事にしないために、ヴラディクのために祈り続ける。

 そう言えば、最近アメリカの田舎のドライブ動画を見ることがあるのだが、あの国はまるで第三世界になり下がっている。インフラが途絶え、廃墟が連なり、ゴミが散乱していて、犯罪が蔓延する忘れ去られた田舎の町々。

 わたしはアラバマ州の片隅を、第二の故郷のように思っているのだが、あそこって貧しかったんだなあ、といまさらに思い知った。わたしのアラバマの教会の周りは、奇跡的に活気のあるコミュニティだけれども、どうやって暮らしているのかしら、というようなゴミに埋もれたトレーラーハウスも見ていたのに。

 日本も、いつかああなってしまうのかしら。

 *

 この国が貧しくなっていくのを、日々見つめさせられているらしい。わたしたちの世代は、享受することしか知らない。共同体のために奉仕するという概念は欠如している。

 『終わりの日には、不法がはびこるので、多くのひとの愛が冷める』と聖書は言うが、まさにいまそれを見ている。

 これが終わり、というのが救いだ。神を信じていなくたって、この世界に持続的な未来が見いだせるとは思えない。えすでぃーじーずなんて、すてきなまやかしではないのか。

 ロシアから、ウクライナから、フランスの暴動から、香港から、台湾から、この国の安全保障から、目を反らしていられるというのか。まるで1930年代のような平和だ、いまわたしたちが享受しているのは。

 まるで憂鬱な預言者のようなことばかり、書き連ねている。憂鬱な預言者の末路は知っているのに。エレミヤは、泥水の貯まった井戸に投げ落とされたんじゃなかったか。あの穴の底で、エレミヤは世にも美しい言葉を綴ったのだ。なんてうつくしいのだろう、彼が書いた哀歌は。

 神はエレミヤに仰った、『彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す』と。

 わたしも同じことを、神に求める。現実から目を背けることをせず、選挙にも行く。けれどこの世界の趨勢を変えることはできない。

 わたしはこの世界の片隅で、キリストの灯火を点せるように、日々闘う。けれどもその闘いは、周りの世界を変えるためではなくて、自分を変えるためなのだ。キリストは、ユダヤをローマから独立させるためではなく、ひとびとに永遠の命を与えるためにやってきたひとである。わたしが自我を砕いて神に服従すればするほど、灯火はいよよ輝く。

 *

 この不安定な時代に、わたしはゴシェンの恵みを求める。ゴシェンとは、出エジプト記で、奴隷になっていたユダヤ人たちが住んでいた、エジプトの一地方のことである。

 モーゼの杖を通して、エジプトに十の災いが下された。けれどそのうちのあるものは、ゴシェンの地には下らなかった。エジプト全土が暗闇に覆われていたときも、ゴシェンには光があった。ユダヤ人たちは、神によって守られていたのだ。

 この暗闇に覆われた時代に、わたしは光を知っている。個人的に。わたしは光と生きている。イエス・キリストとともに。

 戦場にいるヴラディクも、共産主義の中国にいる兄弟姉妹も、日本にいるわたしも、そうして守られている。

 もはやゴシェンは特定の土地ではない。わたしがいま住んでいる、この場所の名前は、イエス・キリスト

 


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