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スピリチュアルを語るリスク

聖地のフィールドワークや瞑想などを研究実践しているので仕方ないのだが、神秘体験や超自然的について人から尋ねられることが増えてきた。講演でもそうだし、個人的に聞かれることも多く、返答に困ることもある。いつも感じるのだが、スピリチュアルについては伝え方がとても難しい。普段は迂闊に"不思議な現象"については語らないようにしている。

特に聞く準備が整っていない人や、理性的に物事を考えるのが難しい人には語ることを避けるようにしている。だから個別に語りかけるわけではなく文章という形で示すのはとても難しいと感じる。とはいえ大事なテーマになのでこれまでの宗教学者の鎌田東二先生と対話した「ヒューマンスケールを超えて」を上梓したり、ことあるごとに心や精神のあり方については語ってきた。しかし神秘的に見える出来事については語るのは難しい。

というのは一つ前の記事で桜と会話したエピソードを実験的に上げてみたものの、人によっては逆に“響き過ぎてしまう”場合があるからだ。こうした話は多分に感覚的で感情的な側面や、主観的あるいは思い込みを元に会話が進んで行きがちだ。だからもし聞き手が理性的に聞けないような気配があった場合は、途中でこちらから語ることをやめた方がいい場合がある。

特に直接誰かと話す時や、その相手をある思考や認識まで掘り下げれるように導きたい場合は慎重になる。顔を突き合わせての会話でも一見理性的に見える人でも、少し踏み込むとそうではないことが多いので、なかなか見極めが難しい。そんな時には逆にこちらが話を聞きながら、相手がどういう妄想を持っているのかを分析するモードに入らないといけないことになる。

それに最近スピリチュアルなことに関心を持つ人が急速に増えているので、慎重に語らないとリスクも増えることになる。そのリスクとは、客観的なエビデンスを示せないことを語ることで懐疑的に見られるリスク以上に、響き過ぎてしまって妄想を掻き立ててしまうリスクの方が大きい。むしろ妄想に満ちてどうしようもないこの社会では、後者の危険性の方が高くなっているように思える。

もちろん僕自身が明確に知っていることを答える場合もあれば、推測が中心でクリアに知らないため答えられないこともある。だが知ってはいるが敢えて答えないという判断が多くの場合は必要になる。その場合はさらに二つケースが想定される。それは答えても意味がない場合、そして答えることで相手がより混乱する場合だ。

答えても意味がない前者のケースは、相手が理解できないと判断する場合がほとんどだ。それは相手の認識のプロセスが初期段階で深まっていないこともあれば、ある知覚を得ていなかったり、ある経験を経ていないことが多い。共有する認識や知覚、経験がない状態では、相手はまだ聞く準備ができていないので答えることに意味がないと判断できる。

だが、それ以上に厄介なのは相手が既に強固な答えを持っている場合だ。その場合はこちらが明確に答えを示しているにも関わらず、相手には全く答えに聞こえていないことが多い。僕が提示した答えは尋ねた本人が知りたい答えではないため、自分が知りたい答えが返ってくるまで何度も同じ質問を繰り返す。しかしいくら答え方を変えても、その時の僕から欲しい答えが得られることはないので、認識が深まっていかない。それが分かっている時には答えても意味がないので、答えないようにしている。

自分の思い込みが強いと、それにそぐわない答えは答えに見えない。真理を知りたいとは口にするが、自分が好ましくないことならばそれは真理ではないと思い込んでしまうからだ。それこそが非常にまなざしを曇らせてしまうので、真理を見えなくする。だが、自分にとって不都合かどうかに関わらず真理は真理だ。それは誰かにとっての真理ではなく、万人に当てはまるから真理と呼べるのだ。まるでカタログの中から好きなモノを選ぶように、自分の好みの真理を選びたいと考えていても、真理というのはそういうものではない。

真理には多くの場合は、人が受け入れたくないものも含まれているし、そう簡単には受け入れられないものも含まれている。だから都合よく自分の好みのことだけを聞きたがる人にはありのままの心理は見えないし、語ってもつまらないものとして響くだろう。多くの人は神秘然としたものを真理と思いたがるのだ。

もう一つの、答えることによって相手がより混乱するケースだが、こちらの方がより難しい。思い込みが強いことと大きく関係しているのだが、この場合は概して妄想が強い。知識や情報で頭の中に妄想がパンパンに詰まっていて、すでにイメージでいっぱいだ。だから最初から自分知っていることに当てはめてこちらの話を聞こうとするので、妄想がさらに膨らんで余計に混乱していく。聞きたい知識や情報を聞きたいように聞いて、勝手に自分の中でストーリーが組み立てられていく傾向がある。

その場合に神秘然としたことを語ってしまうと妄想の火種に油を注ぐことになる。それは最終的にとんでもない妄想へと育ってしまう。妄想している本人も、自分の頭の中でイメージしていることが、「事実」なのか、「考察」なのか、「妄想」なのか、「願望」なのかの区別がつかないのだ。その場合にこちらから何かを示すことは、相手を余計に混乱に陥れるだけだ。その場合は一切、神秘的なことやスピリチュアルなことを語ってはいけないのだろう。その人のまなざしを余計に曇らせてしまうことになるからだ。

そもそも神秘的なものは求めるようなものではない。ましては自分の救済に都合よく使うようなものではない。神秘的なものを求める人の多くは、何か外の存在や出来事が自分を救済してくれることを待ち望んでいる場合が多い。それは状況が変わって欲しい、誰か助けて欲しいと望み、自分を自分で助けることを怠る態度へとつながりやすい。だから新しい神秘や真実を求めて、自分の好みに合う真理と出会うまで彷徨い歩くことになる。そこで出会いたいものの多くは自分を甘やかして、正当化してくれるものであり、そういうものに落ち着いてしまう。それでは問題の本質から遠ざかるばかりのように思える。

自分が苦しい状況は自分が生み出していることがほとんどだ。外からやってくる神秘的な出来事は、自分に気づくきっかけになったとしても、その状況を解決はしてくれないのだ。だが妄想で頭の中がいっぱいになっていると、何かが自分を救済してくれると思ってしまう。それは苦しみを生み出している自分という原因に気づけないどころか、自分が苦しんでいることにすら気付けない。

自分の問題を外注すれば解決してくれるような感覚を抱き、その外注先を神秘的な神仏に変えただけの価値観。そういう物質主義的な感覚を引き摺ったまま、スピリチュアリズムに傾倒していく人々が、この社会では確実に増えている。金やモノが自分を救ってくれなければ、今度は神秘的な存在が自分を救ってくれるという構図に変わっただけで、その構図そのものを改めようとはしないのだ。そんなまなざしの人であれば、神秘的なことを語っても意味がないし、それへ神秘的なものには見えない。

神秘というものというのは、本当はありふれていてどこにでもある。だが、日々起こる神秘を見つめる我々のまなざしが曇っているので、それを見ることができないだけだ。何も特殊な場に赴き特殊な経験をしなくても、そこにある神秘は普通の理性と感性でも感受できるものもある。それは超自然ではなく自然なのだ。そして本当に理性的な人は、そんな日常の理性を超えた出来事や自分の知覚で感受出来ないことがあることを、そのまま受け入れることができる。

だが一方で、特に今世紀に入り、教えとしての宗教が機能しなくなるのとパラレルに、神秘的なことだけがフォーカスされる状況が高まっている状況には不安を覚える。不思議な現象や神秘的なことに対する「情報」や「知識」だけが急速に増えていて、それを信じてしまう素地が十分に整えられている。そして、それはすぐに救済ビジネスになってしまう。そんな状況がますます深刻化している中で、スピリチュアルに翻弄されている人は相当な数いるのではないだろうか。

確かに20世紀の啓蒙的な科学や機械論的な科学では説明できないようなことが、この数十年で明るみに共有され始め、それを受け入れる科学者が増えたこともある。その一方で、科学的な懐疑の歯止めが外れたことで、これまで以上に混乱する状況が生まれた側面もある。だからいつかこの先、このスピリチュアルや神秘的なものに対するまなざしを巡る諸問題については、僕自身も整理せねばならないような気がしている。

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