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Vol.4 こうして私は統合失調症になった。

14年に渡る長い病歴を綴ってきましたが、今日が最大の山場です。これまでの軌跡については、以下のリンクをご参照ください。

新卒採用で入った会社に15年務めて、一週間の夏休みを使って海外旅行に出かけたのは、2010年にカリフォルニアサーフトリップに続けて二度目でした。左遷により100万円の減俸を受けていたので、20数万円の旅費の他、アウトドアアイテムは必要最低限のものだけを購入したり、友人からギアを借りて臨みました。

旅先のパプアニューギニアは未開の土地でした。サーフィンパラダイスとも言え、サーフヴィレッジからは良い波がたくさん押し寄せているのを目の当たりにしました。
「未開の地」というと、私の記憶は大学四年生の卒業ボランティア旅行でフィリピンのピナツボ火山で陸の孤島となった山に住むアエタ民族とともに植林ボランティアをするというツアーに参加したことまで戻ります。
今回のツアーはその時から約20年以上経っていても、同等の未開加減で、空港のあるポートモレスビーから陸路でトラックの荷台にガタンゴトンと揺れながら、知り合ったばかりの同じ旅人と会話をしながら海辺へと移動したのでした。
今、思えば時差はたったの1時間ですが、成田からの夜便に乗り込んでから久しぶりの海外で、飛行機内で興奮して一睡もしないまま、日中はトラックに揺られ、寝られず、到着したら、海に入ってサーフィンという少しハードスケジュールでした。そのため、私は先に海から上がり、サーフヴィレッジで休んでいました。

デジタル腕時計が壊れた事で気づく、現代人の脆さ。


その夜、不眠に陥りました。電気の通っていない村の奥地。漆黒の闇の中、デジタル腕時計が壊れて時間が分からず、また興奮もあり、何度も目が覚めて結局、別室のソファで寝ました。本当はマラリアに警戒しなくてはいけない地域なのですが、どうにもこうにも寝られず、苦肉の策でした。

また、翌日だったと思いますが、生理になってしまいました。未開の地で生理になっても、トイレには汚物入れがなく、非常に困りました。海にも入れず、持ってきた生理用品では足りなくて、たった一人の女性参加者だった女の子に譲ってもらったりしました。

私は自分が困っているのに、人に助けてもらうようにお願いがうまくできませんでした。
汚れたシーツを代えてあげようか、といってくれるホストマザーがいても、大丈夫といったり、素直じゃなかったのです。そして、恥ずかしがり屋で強情貼りでした。
そんな私は、みんながSUPをしている間も、サーフヴィレッジのソファに、横になって過ごしていました。食べ物も果物ばかりを食べ、次第に衰弱していきました。
ある時、民族のおまじないのようなものをされ、つばを吹きかけられたことがあり、テレビで見る世界がそのまま本当の世界として起きていました。まさしくツアーのコンセプト通り、ゲームなどの世界とは違い現実を知るアドベンチャートリップでした。私は持病をセルフコントロールできず、多大なるご迷惑をかけてしまいましたが、ツアー参加者同士で作り上げていく、素晴らしい企画です。

村人にもずいぶんと心配をかけました。皆がSUPや釣りをやってる時に、ヴィレッジでは、うちわで仰いでもらっていました。そうして5日間程経ち、別のリゾート地へと移動する日がやってきました。私は最初はとぼとぼとと歩いていたのですが、村人が車椅子を用意してくれ、されるがままに、乗ってしまったのでした。それからは、旅人メンバーには多大なるご迷惑をおかけすることになりました。
車椅子は一度乗ってしまうとそれに慣れてしまうのか、どこに行くにも誰かの手が必要で、居心地が悪いのに、やめられない、不思議な感覚でした。重い体重の私を押すのは至難な業だったと思います。本当に申し訳なかったと思います。
 リゾート地での一泊も私は皆と別行動。夜ご飯のみを共にし、また、一人の部屋に寝ました。時間はあっという間に過ぎ去り、空港にも車椅子で連れて行ってもらい、空港の検査に落ち、私は皆と一緒に帰れなくなりました。この頃の記憶は、現実逃避した人のような、夢遊病者のようなもので、あいまいになっていました。断片的に覚えているのは、「いい加減にしてくれよ。」と男友達に言われたことと、生理が終わらなくて困っていたこと、ツアーコンダクターの方がホテルで付きっ切りになってくださったこと、そして眠ったふりをしても、眠れずにいて、布団がとても重く感じられたこと、トイレにドアを閉めずに入り、ツアーコンダクターに「トイレのドアは閉めましょう」と言われた事などでした。

海外にまで父に迎えにきてもらった。


結局、ツアーコンダクターの方は確か1日遅れで帰り、代わりに来てくれたのがまたしても父でした。父の声がしたのはわかってもうまく反応できない、そんな症状が続きました。父がアイスクリームを食べさせてくれたことも覚えているし、ホテルの洗面所で私の水着などを洗ってくれていたのも理解していました。1週間に1便しか成田との直行便がないので、次の直行便まで体調を整えて、飛行機に乗り込むつもりでしたはずが、みるみるうちに衰弱し、結果的には9日間もP病院に入院することになってしまいました。病名はカタトニア(神経遮断性悪性症候群)。神経が衰弱しきって、意思決定不可。歩行すらままならない状態が続き、気が付いたら病院の個室にいて、毎朝目が覚めると看護士が交代で看病してくれ、たまに父の声が聞こえて来て、それが夢の中での出来事として記憶されていました。

後から父に聞いた話では、重症すぎるので、オーストラリアに飛んで医療体制がしっかりした中で回復を待った方が良い、とまでアドバイスされるも、断ったそうです。

直行便がある日の朝、私はI appreciate you all.と言えるようになり、感謝の言葉を述べました。それから、朝食に野菜スープが出て来て、美味しさのあまり、ゴクゴクと飲んだことを覚えています。それまでは、管だらけで、口から物を食べることなど数日ぶりだったと思います。

平成26年(2014)7月19日、パプアニューギニアから帰国。飛行機内では紙おむつを履いていたがのですが、おねしょしたのを覚えています。薬の作用でしょう。姉、兄、両親の皆が成田まで迎えに来てくれ、どこへ連れて行くべきか、となり、パプアニューギニアへの旅行許可を出してくれたH病院のA医師を訪ねました。夜でしたが、中に入れ、そのままトイレ付きの個室に入院となりました。病室内は5センチくらいの段差があるマットレスが敷かれてあるだけでした。その段差を自力で起き上がってトイレに行く筋力すら衰えていました。

入院生活は夜になると不気味でした。隣の部屋の人がトイレで起きると、こちらも目が覚め、また夜中に歌を歌う人がいたりしました。

数日後、唐突に心理テストを受けさせられました。「内閣総理大臣を5人挙げよ」とか「算数を解け」とか。私は全然できず、IQ80と四年制大学を卒業している人は出さないほどの低い数値だったそうです。その後、院長先生に呼び出され、どうしてこうなったか、自分の病気がどういうものなのかわかるか、と聞かれ、「分からない」と答えました。その後診断名は双極性障害に変わりました。

父に後から聞いた話では、私のような人間は海外渡航してはいけないとのこと。そう、パプアニューギニアでお世話になった医師に言われたそうです。しかしながら、H病院のA医師は海外旅行をOKし、帰国後はそれまでの統合失調症から双極性障害へと変更し、薬の副作用で腕が振るえるようになったと症状を訴えるとパーキンソン病の疑いがある、と診断してきました。私はショックの連続であると同時に、疑心暗鬼にもなりました。

保護入院から任意入院、そしてデイケアへ。

7月19日にH病院に保護入院となって、個室で過ごしたのは1週間くらいだったと記憶しています。夢の中と妄想が入り混じって、コインを飲んだ、と発言したのを覚えています。そして、お腹が痛いと面会に来ていた父に訴えましたが、看護師の対応はとても迅速とは言えないものでした。父がたまりかねて、救急車はまだですか?と言ってくれて別の内科のある病院に運んでもらい、診てもらったところ、膀胱に尿が溜まっているけれど、うまくおしっことして排泄されずにいました。その時に対応してくれた看護師が「まだ出る!」と驚いていたのを覚えています。瓶がいっぱいになっていました。また、車椅子で食事室に連れて行かれて食事をする際も、頭からしか汗がでないくらいブワーッと額に汗が噴き出して止まらない状況が続きました。今思えば、水分不足による脱水症状もあったかと思います。

保護入院の部屋は初めて入院したF病院よりもこじんまりとしていて、施錠がかけられたドアに小さな小窓があり、深夜問わず監視下におかれていました。ある日、経過が良くなったためか、任意入院病棟に移されました。そこは2~3名同室で、部屋は患者間のトラブルがある度にすぐに変更されました。私は入院による共同生活に慣れて来て、A医師にいつまで入院は続きますか?と目安を伺ったところ、「3カ月くらい」と返答されました。会社には1週間の夏休み明けから不在が続いていたので、そんな流暢なことを言われては困ると思いましたが、結局、二回目の休職と傷病手当金を受給して会社を休むことになりました。

9月5日、同じ病院内のプログラム、デイケアに通うことを条件に退院が決まりました。デイケアは午前中から午後15時ごろまで平日に通所して、グループリーダーのスタッフの元、毎朝、ラジオ体操に始まり、ミーティングでランチの献立を決めて商店街に買い出しに行き、ランチをみんなで作ったり、自学する時間にあてたり、統合失調症や双極性障害についての勉強プログラムに参加したり、医師との診察を意識したトレーニングなど多種多様な社会生活を築くためのレッスンを重ねる日々が数カ月続きました。デイケアは和気あいあいとした学校のような雰囲気で、前向きに取り組めました。

一方、わだかまりとして残っていたのは、2つ。パプアニューギニアの人々に謝礼したい気持ちと、当時、婚活で知り合って何度かデートを重ねていた彼に、音信不通になってしまったことを謝罪したい気持ちでした。

パプアニューギニアのサーフビレッジのホストマザーと子供たち宛には日本茶と桜色のTシャツを数枚プレゼントしました。そうしたら、数か月後、ツアーコンダクターの方から連絡があり、プレゼントを預かっているとのことで、郵送して頂きました。中身はビビットな色調でパプアニューギニアらしい手編みのバッグが二つとお手紙が入っていました。

さらに、彼の方もメールで連絡をしたところ、折り返しの電話があり、箱根へドライブに連れて行ってもらえることになりました。そこで、あれこれ何があったかは詮索されることなく、仙石原のすすき草原を観てデートして帰ってきました。帰りの車中、手を握ってくれ、「ああ、許してくれたのだな」と思いました。


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