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アンラーンすべきは集団主義。それに馴染むと、定年時に外に出ることが難しくなる

定年時に必要となるアンラーンのやり方について、3回続けて説明したので、ここからは何をアンラーンするか、その内容の話に移ることにする。

今回は、アンラーニングで最初に認識すべき現在地である日本企業の「集団主義」の正体について述べる。そして、次回以降にアンラーニングすべき集団主義の本質が「安心社会」であること、そしてアンラーニングの行き先である「信頼社会」のイメージについて述べる予定である。

中高年がそれまでの会社を離れてビジネスを続ける時の、日本とアメリカの違い

定年後もビジネスを続けようとした場合、一番大事なことは何だろうか?その最優先事項が何かで、その人のその後の生き方が変わると言って多言でない。

ここで筆者が強調したいのは、「どうすれば効率良くビジネスを続けられるか?」という点である。(効率性の要素には取引コストと機会コストの2つがあることについては、次回以降で詳述する。)

「そんな分かり切ったことを考えて、どうするのか?」という人は、それまでの社会のアンラーンが進んでいない。良い条件の再就職先が見つからない場合に、すごすごと引退してしまうのが、この類の人たちである。

このことを理解するには、試しに簡単な思考実験をしてみれば良い。話を極端にして、(それまでと同一を含む)企業への再就職ではなく独立することを考えてみれば良いのだ。

筆者の大学の同級生のうちで、定年後に独立した人はほんの一握りしかいない。定年後子会社などに天下りしても、そこで再度定年を迎えるとそのまま引退してしまう。

これと対照的なのが、筆者が所属していたIBMで90年代前半に行われてリストラで起こったことである。IBM の従業員は,1992年から1994年にかけて30 万1542人から21万9839人まで減った。

これだけ短期間で大量のリストラ下でのリストラされた人間の再就職は容易なことではないだろう。彼らはどうしているのだろうと思っていたら、筆者の知っている同僚の多くがフリーランスのコンサルタントとして活動を始めていて、非常に驚いたものだった。(因みに、リストラ前のIBMはアメリカには珍しい終身雇用に似た雇用形態で知られていた。)

(97年頃に日本のクレジットカード会社のコンサルティングをした時には、アメリカの事情に詳しい元IBM同僚の独立コンサルタントと契約して情報提供をしてもらったが、クライアントにはその情報の豊富さに驚かれたものだった。逆に言うと、そのように知識豊富な人でもリストラ対象となっていた。)

その後、2001年にダニエル・ピンクの「フリーエージェント社会の到来」が出版された。それを読んで、世の中がどこか変わりつつあることを予感させられたものだった。

このように、アメリカでは30年以上前に中高年が独立して働き続ける例が見られる。これに対し、日本では2020年に出た「統計で考える働き方の未来」という本で、今頃になってやっと「高齢フリーランスが活路に」と説き始めている。

要するに、定年後の働き方として独立も含めた方が、はるかに新たな仕事を見つけ易い(機会コストが低い)のである。

ところが、日本では(若い人は別にして)未だに中高年は雇われることにこだわり続けているようである。その理由は、「独立してビジネスを続けるオプションは不安だから、効率性を無視して捨てる」ということにあるように思える。

ここに、長年勤務した会社を離れたときのビジネスの続け方についての社会の捉え方の差がありそうである。なぜこのような社会構造の差が生じるのかは、定年退職者にとっては重大関心事だろう。

定年を機会にアンラーンすべきは、日本企業の集団主義

一言で言えば、日本の会社を定年になった人が、独立をしてでも働き続けようとしない理由は、慣れ親しんだ社会から「外に出るのが怖い」と言うことに尽きるようだ。

そのことには、ある程度共感できる。でも、なぜそんなに怖いのだろう。そして、逆にアメリカ人はなぜ独立してでも働き続けようとするのだろう?

それは、アメリカ社会の方が独立することに対する心理的な障壁(怖さ)が低いからである。そして、その障壁の本質は日本企業の「集団主義」にある。

日本人の個人ひとりひとりが個人主義か集団主義かは別にして、以下に示すような意味で伝統的な日本企業が集団主義のもとで運営されてきたことについて、識者の意見は一致するようである。

  • 伝統的な日本企業は、仕事の成果より従業員のロイヤリティ(忠誠心)を評価する傾向があります。ロイヤリティは組織に対する帰属意識のことで、どちらかと言うと終身雇用制度に引きずられた概念です。自由な転職がないという前提なら、忠実な従業員のほうがいいと言う発想です。このガラパゴス的な労働慣行が行われている原因は、三つの前提条件で説明できます。すなわち、「キャッチアップ型工場モデル」「人口増加」「高度成長」です。(出口治明、「”働き方”の教科書」)

  • 戦後日本経済の発展は「日本株式会社」とも言われる、日本社会の集団主義特徴に支えられてきたことは誰も否定することができない事実です。会社全体の成長のためには、残業も日曜出勤もいとわない。その代わりに会社も終身雇用制度と年功序列制度でしっかりと社員を守る。(山岸俊男、「日本の”安心”はなぜ、消えたのか」)

いずれの場合も、自分が所属する企業集団の価値観や文化を理解し、それに対し忠誠を尽くせば、生活上の安心はしっかり保証されるというわけである。その逆に、仕事はできるが会社の価値観を蔑ろにするタイプの人は、疎んじられる傾向にある。

この集団主義に慣れ親しんでしまうと「外に出るのが怖くなる」のであり、かつそれが良しとされているのである。

筆者は、大学院新卒後9年間を経て、33歳で外資系に転職した。その際、退職の2週間前くらいになって会社の常務に呼ばれた。

何事かと思って、それまで一度も足を踏み入れたことのない上の階の役員室に出向いたら、「君のようなクールな人間に辞められるとは、ショックだ。一体何があったのだ?」と言われた。

同じ会社に9年も居続け、プロジェクトもリードする管理職見習いのような側に回っていたので、もはや集団主義に十分に馴染んだはずの安全牌だと思われていたらしい。

「長い間同じ釜の飯を食べていて、価値観も共通しているし気心も知れている。よもや予想外のことはしないだろう。」これが当時の(多分今でも)日本企業が持つ集団主義社会(安全社会)の考え方である。

筆者は、この考え方が嫌だったので30代半ばで外資系に転職したのであるが、定年まで日本企業で勤め上げた人たちには、多分この考え方がそれほど苦にならなかったのであろう。

ただ、その苦にならなかった分だけその社会に(過剰)適応していたことになる。その分、そこから離れることが難しくなる。そして、離れることが難しいのは、集団主義が主体的なキャリア形成の習慣をつけることを阻むからである。

個人主義者から見た、集団主義が要求するキャリア形成上の代償

筆者は、自分の専門キャリアを磨くことを職業上の第一の目的にする個人主義者である。その筆者が経験して日本企業の集団主義に馴染めなくなった事例を、以下に示そう。(もちろん以下のような不満は一切顔に出していなかったので、常務にショックだと言われたのだが。。。)

定年間際になるまで日本企業を勤め上げた人は、是非反面教師として読んでいただきたい。

  • 大学ではOR(オペレーションズ・リサーチ)の専攻だった。就職時に、指導教官に紹介してもらい、同じ学科から先輩が3年続けて入っていたある会社のある課に訪問した。当時としては数少ない、ORの仕事ができる職場だったからである。牧歌的な時代だったので「おお来たか!」と歓迎され、そのまま飲みに行き正式な入社試験もなしに就職が決まった。

  • 当然、その課に配属されるものと思い込んでいたら、新人教育終了後配属されたのは隣の課で、最初の仕事は当時の通産省の委託を受けた環境アセスメントの仕事だった。配属の理由は、毎年同じ大学から同じ課への配属を続けるのはいかがなものかという意見があったからとのことだった。当時はその言葉を知る由もないが、典型的なメンバーシップ制の発想である。これではゼネラリストにはなれても自分で分野を選んで主体的に専門的なスキルを磨くことはできないと、入社1年目にしていつかは退職すると決心した。

  • 退職の決心はしたが、大学出たての新人では実力もないし当時は新人の転職は不平分子として扱われるので、そのままでは雇ってくれるようなところはない。何とか実力をつけようと、当時発展しかけていたコンピュータ・サイエンスの勉強を始めた。これなら競争相手が少ないので、勝ち目があると考えたからである。3年ほど勉強を続けていると、運よくソフトウェア産業を振興する通産省の補助金を基にした研究プロジェクトのコンペに出会うことができた。筆者が中心となってプロポーザルを書いて、それに勝つことができた。

  • そのプロジェクトには海外の研究機関への出張予算がついていた。1年目は尊敬する先輩が出張したので納得したが、2年目にはプロポーザルへの貢献が少ない別の先輩が出張したので、その時には納得できなくなった。プロジェクトを主管している課の課長の判断では、筆者は「若すぎる」とのことだと聞いた。発注側の担当者が憤慨して圧力をかけてくれたので3年目には出張できたが、日本企業では仕事の成果ではなく序列がものを言うのだと、ここでも退職の意を強くした。

  • 通産省の補助金プロジェクトだけでは食えないので、大手メーカーの下請けのソフトウェア開発なども行なった。あるとき、メーカーが展示会に出すデモ・プログラムを開発し、メーカー側担当者にその出来栄えを誉められた。それだけだったら良かったのだが、メーカー担当者が欲を出し、追加のちょっとした開発を要望された。事前の約束範囲外だったので首を縦に降らなかったら、それまでニコニコしていたのが突然怒鳴り出した。日本では、発注者と下請けは契約関係ではなく身分関係にあるようだった。これではプロとしての見積りスキルなどを到底磨けないと、これも嫌だった。

  • メーカーの仕事をしていた30歳ごろは、とにかく猛烈に忙しかった。そのことには問題は感じなかったが、仕事をあまりしていそうにない人との処遇に差がないことには我慢できなかった。上述のメーカーに上司と出向いた帰りの電車の中で、上司に「処遇をよくするかもう少し暇にしてくれるかどちらかにしてほしい」と1時間文句を言い続けたたら、最後に上司から「実は君の給料は同僚より100円だけ高い」と言われた。これとは別に、「35歳で課長になるかならないかで差が顕在化したら、その差はもう取り戻せない」と聞いていたことも併せて、直接の仕事ではなく人間性などで裏で評価を決めている感じが嫌だった。その後33歳で外資に転職し、当初はそれほどでもなかったが実力が証明できたらしく2-3年後の給料は段違いに上がった。やはり、フィードバックは早い方が、やりがいも出るしやり直しもできるので良い。

これが、個人主義者から見た集団主義と個人主義のキャリア形成に関する違いである。いずれも、評価を仕事の結果中心で直接的に決めるかそれ以外の要素を考慮して裏で決めるかの違いである。

以上のことに反発して個人を業績で評価する外資に異動して以降、筆者にとって(業績を求めるプレッシャーは遥かに強いが)このような不快な出来事は全く起こっていない。

定年時には集団主義に馴染んだ分だけ損していることを理解すべきである

日本企業について全体として言えることとして、会社が決めたルールや上司の判断基準で、当人に何の相談もなく物事が決まることが多いようである。評価にも仕事の成果だけでない要素(年齢など)が入り込む。

逆に言えば、その分だけ社員個人は自分で判断することをしなくて済み、ある意味では楽である。

さらに、そのルールや判断基準が明示されない。だから、本人が受けたフィードバックを参考に成長の工夫をすることが難しい。ただし、本人にとくにやりたいことがなければ、このことは何の障害とも受け取られないようである。

要するに、集団主義では当事者の選択や交渉の余地が少ない。その分だけ、大筋を「誰か」が決めている。筆者はそれが嫌だったが、そのことが苦にならない人も多く、それが定年まで勤め上げられる理由なのかもしれない。

ただし、そのことには当然代償がある。個人が主体的にキャリア形成上の決断をする機会はどんどん失われているのである。

定年になって初めてそのことに気づくと、主体的な訓練ができていない分だけ外に出るのが怖くなるという訳である。

定年時の大問題は、それまで自分の外側で物事を決めていた「誰か」が突如いなくなることである。銀行のような行き先の多い業種での会社に勧められた天下りでもない限り、定年後の行き先は「誰か」ではなく「自分」が決めるしかない。

その時には、俄かにでも個人主義者にならざるを得ないのである。ここにきて、キャリアを主体的に形成する訓練を行って来なかったら、そのツケを払うことになるのである。

どうだろうか?日本企業で無事定年を迎えた人たちは、個人主義者の筆者が反発したことが嫌でなかった(辛抱できた)分だけ、集団主義に馴染んでいたはずである。

集団主義に馴染んで主体的にキャリアを決める機会を失った分だけ、俄か個人主義者として「外に出る」ことが苦手になっているのではないだろうか?

この後は、集団主義の本質の「安心社会」を認識すべきこと、そうすればその対極が「信頼社会」であることを認識でき、「安心」を離れ「信頼」を構築する方法について考えられるようになることを説明していくことにする。


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