見出し画像

鎌倉は本当に「武士の都」か―いまに伝わる王朝の足跡を訪ねて 神奈川県鎌倉市

はじめに

画像1
鶴岡八幡宮・三の鳥居

 平成24年(2012)1月。神奈川県と横浜市、鎌倉市、逗子市は「武家の古都・鎌倉」として、ユネスコの諮問機関であるイコモスに、世界遺産の登録推薦書を提出した。ところが、世界遺産登録とはならなかった。

 ここでいう「武家の古都」とは、すでに世界遺産となった京都や平泉との差別化を意識した結果の産物であろう。むろん、それは決して現代におけるこじつけなどではなく、鎌倉の有する歴史的特性に従ったものといって間違いない。鎌倉は、源頼朝によって初めて幕府が開かれた地であり、同時に以後700年ものあいだ存続した武家政権の幕開けの舞台となった地である。正真正銘、「武家の都」にほかならない―。

 しかしながら、そのような鎌倉であっても、必ずしも武家一色で彩られているわけではないのではないか。筆者はそう思いたった。およそ一定の空間に、何百年にもわたって同じ特徴が検出されるとは考えにくい。

 そこで、本邦においてその空間に介入する可能性が高いものとしては、皇室の存在が考えられよう。武家の権力者は、平家、源氏、北条、足利、織田、豊臣、徳川といった順で移ろいできたが、この間に一貫して存在してきたのが天皇家である。つまり、「武家の都」たる鎌倉であっても、なんらかの「皇室成分」というべきものが、検出できるかもしれないのだ。

 今回は、そのような「武家の都・鎌倉」に伝わる“王朝の足跡”を訪ねる旅である。まずは親王将軍の住んだ若宮大路御所の旧蹟に行き、つぎに勅額が伝わる3つの寺院に向かう。さいごは鎌倉で死した2人の皇族の墓に参って、本稿を締めたいと思う。

① 親王将軍の鎌倉下向―若宮大路御所旧蹟

画像2
若宮大路御所旧蹟

 鎌倉における権威の象徴は、源氏3代将軍、摂家将軍、親王将軍といった順で変化した。源氏3代将軍はいうまでもない。摂家将軍は4代藤原頼経・5代頼嗣、親王将軍は6代宗尊親王・7代惟康親王・8代久明親王・9代守邦親王である。

 なんといっても、鎌倉幕府の将軍職において後期に親王が任命されているのは特筆すべき点である。鎌倉が武家の権力のみで成り立っていたわけではなく、天皇家の権威が求められていた事実を理解できよう。

画像3

 とくにそれは、若宮大路御所の誕生経緯にみることができる。若宮大路御所とは、鎌倉に存在した将軍御所のひとつだ。頼朝時代の大倉御所、泰時によって建造された宇都宮辻子御所に続く3番目の御所であった。

 この若宮大路御所は従来の2つの御所と異なり、宗尊親王の鎌倉下向にあわせて新造された。これは、摂家将軍の終焉と親王将軍のもとでの新政治の開始を体現するものだったという。

画像18
82代・後鳥羽天皇

 たしかに、3代将軍実朝の死後まで時代をさかのぼれば、はじめ北条氏側は新たな将軍候補として親王を想定し、その下向を朝廷に要請していた。しかし、それは82代後鳥羽上皇によって断られてしまう。上皇は幕府方に対し「イカニ将軍ニコノ日本国二ニ分ル事ヲバシヲカンゾ」といったらしい。幕府嫌いであった後鳥羽上皇の性格がうかがえる一言である。

 つまり、はじめから幕府は親王将軍の擁立を願っていたのであり、その意味で摂家将軍は中継ぎにすぎなかった。承久の乱で勝利し後鳥羽上皇を隠岐島に流してようやく、鎌倉ではかねてよりの願いだった親王将軍、すなわち88代後嵯峨天皇の皇子・宗尊親王を迎えるに至ったのである。

 そして、それを象徴する出来事が、若宮大路御所の新造だったのだ。以後、幕府滅亡までの81年間、鎌倉においては親王将軍、またの名を鎌倉将軍宮が、この若宮大路御所に居住したのである。

② 天皇による勅額の下賜―建長寺・円覚寺・光明寺

画像4
建長寺・天下門

 宸筆とは、天皇の直筆による書を指す。それが収められたものが勅額である。皇室とゆかりのある寺社に対して贈られたため、その多くは京都にあるといってよい。ところが、みやこより遠く離れたここ鎌倉においても、3つの寺院に勅額が伝わっている。

 建長寺は、開山は宋の禅僧・蘭渓道隆、開基は5代執権・北条時頼による建立である。寺号はときの元号「建長」から採られた。肝心の勅額はといえば、それは山門にかかっている。この勅額を下したのは89代後深草天皇であった。

 では、なぜ後深草天皇だったのか。その秘密は、建長寺の造営の目的に隠されている。

画像5
建長寺・山門

 建長寺の建立の目的は、後嵯峨上皇の万歳を祈願するためであった。むろん、それのみならず、将軍や重臣の千秋、天下の泰平に加えて北条一門の冥福が祈られたが、ここで上皇の万歳祈願が第一になされたのは、禅宗の有する国家主義的性格が要因だという。たしかに禅宗寺院にはよく「今上皇帝聖寿万歳」と刻まれた位牌が祀られている。

画像16

 しかしながら、この勅額が、後深草天皇によるものである点には注意したい。同天皇は後嵯峨天皇の皇子である。つまり、後深草天皇は父・後嵯峨上皇のために自ら筆をとって「建長興国禅寺」を書したということだ。これが、鎌倉幕府の要請であったろう点はいうまでもない。

 では、なぜ鎌倉幕府は後深草天皇に勅額の下賜を奏請したのだろうか。その意味を探るうえでは、さらに建長寺の祈りの対象である後嵯峨上皇の即位経緯をふりかえる必要がある

四条天皇については上記参照

 87代四条天皇の突然の崩御は、朝廷はむろん鎌倉幕府にとっても青天の霹靂というべき事態であった。幼い天皇には皇子もなく、皇位は傍系によって継がれざるを得ない状況となる。そこで次期天皇の候補となったのが、さきの承久の乱に際して佐渡島に流されていた84代順徳天皇の皇子・忠成王と、同乱に際して自ら阿波に遷った83代土御門天皇の皇子・邦仁王であった。

画像19
88代・後嵯峨天皇

 このとき、鎌倉幕府は土御門上皇の皇子・邦仁王を時期天皇として選択する。ところが、実のところ、朝廷側の意思は順徳天皇の皇子・忠成王にあった。

 しかし、鎌倉幕府としては、後鳥羽上皇と同様に積極的な倒幕意思をみせた順徳上皇の皇子を天皇とするわけにはいかない。もしそうすれば、天皇の父たる順徳上皇を佐渡から戻さざるを得ないからだ。こうして邦仁王は、親王宣下と立太子を経ずして即位する。後嵯峨天皇である。

順徳天皇については上記参照

 以上のように、後嵯峨天皇においては、鎌倉幕府の強い意思によって即位した経緯が存在する。これはつまり、鎌倉幕府にとって後嵯峨天皇の存在とその正統性を守ることは、幕府の面子に関わることであった。そのため、ときの執権・北条時頼は、上皇となった後嵯峨天皇の万歳を祈願するために建長寺を建立したのではないだろうか。

 そこに禅宗の有する国家主義的思想があったとしても、第一にはこれによる理由が大きかったと考える。こうして後深草天皇による勅額も、父の万歳を祈願するためという、幕府の強い意思のもとで鎌倉に贈られたのだと思う。

 しかし、こうした後深草天皇による父への祈りもかいなく、後嵯峨天皇は後深草天皇を差し置いて、のちにもうひとりの皇子である恒仁親王(90代亀山天皇)を即位させるのだから、これもまた皮肉な話である。

画像20
8代執権・北条時宗

 つぎに、建長寺と同じ北鎌倉に所在する円覚寺へ行ってみよう。円覚寺は開山に無学祖元、開基に8代執権・北条時宗をおく、建長寺に次ぐ鎌倉における禅宗の巨刹である。正式名称は「瑞鹿山円覚興聖禅寺」。時宗は元寇における両軍の戦死者の冥福を祈るため、すでに存在した建長寺に次ぐ大寺院の建立を思い立ったのだという。

 この当時、鎌倉にいた宋人・無学祖元は中国への帰郷を考えていたが、円覚寺の建立はこれを思いとどませる口実でもあったらしい。時宗の熱烈な無学祖元に対する思いが伝わってくる。

 なにはともあれ、勅額はどこにあるのか。なんと、ここ円覚寺においては、勅額はひとつにとどまらない。3人の天皇による勅額が、円覚寺に伝わっているのである。

画像6
円覚寺・総門

 まずは1つ目。横須賀線の線路が境内を貫くという、世にも珍しい参道を経て最初に出会うのが、円覚寺の総門である。ここには、103代後土御門天皇による宸筆と伝わる勅額「瑞鹿山」が掲げられている。

 後土御門天皇の治世は、応仁の乱が起こるなど、まさに乱世の時代であった。そのような時節に、遠い鎌倉の禅寺に勅額を贈ったということである。

 2つ目は、建長寺のばあいと同様に山門にかかっている。勅額には、92代伏見上皇による宸筆をもって「円覚興聖禅寺」と書されている。これは、延慶元(1308)年において円覚寺が定額寺の待遇を賜った際、同寺に贈られたものであった。

画像16
円覚寺・山門

 定額寺とは、朝廷より太政官符をもって官寺のあつかいを受ける寺院を指す。つまりこのとき円覚寺は、北条氏の私的寺院から国家の公的寺院になったのである。伏見上皇による勅額はこれを祝す意味合いもあったのであろう。

 あるいは、官寺の待遇はときの9代執権・北条貞時による要請であったため、やはりここにおいても幕府の強い意向が働いたのかもしれない。ちなみに、このとき建長寺も円覚寺とともに官寺となっている。

 さいごに3つ目の勅額である。それは、山門を過ぎてさらに奥にたたずむ仏殿にかかっている。この「大光明宝殿」と書された勅額は、北朝4代後光厳天皇による宸筆だ。勅額が円覚寺に下賜された詳細な経緯は不明だが、建武3年に足利尊氏は円覚寺の元寇以来の当知行地を安堵しており、またその弟・直義も建武4年に寺領安堵の御教書を出している点から、とある可能性が想起され得る。

画像21
北朝4代・後光厳天皇

 後光厳天皇の即位当時、北朝の上皇、天皇、皇族たちは南朝方に拉致されており、都に残っている皇位を継承し得る皇族は彌仁親王(後光厳天皇)だけであった。そこで、尊氏は南朝に対抗すべく親王の祖母・広義門院を治天の君とし、彼女による院宣のもとで親王を即位させたのである。

 つまり、足利氏による円覚寺への対応と、同氏による後光厳天皇の擁立―。こういった関係が、円覚寺における後光厳天皇の勅額の存在について説明してくれるのかもしれない。

 さて、円覚寺だけでかなりの紙量を要してしまった。ひとまず、今いる北鎌倉から抜け出して、今度は材木座方面に向かうこととしよう。この地にも、とある天皇による勅額が伝わっている。

画像8
光明寺・山門

 光明寺の開基は4代執権・北条常時である。同寺は中世末期に後土御門天皇の勅願寺となり、また江戸時代には徳川家康が定めた関東十八檀林において首座の寺格が与えられるなど、繁栄を極めた。

 光明寺はまた、鎌倉においてもっとも大きな山門を有することでも有名だ。さきにみてきた建長寺と円覚寺とにおける山門をも凌ぐというのだから、相当なものである。そして、まさにこの山門に勅額が掲げられている。

画像16

 勅額の主は102代後花園天皇。先帝の101代称光天皇が嗣子なくして崩御したため、急遽伏見宮家より即位した天皇であった。そのような経歴を有する後花園天皇によって、鎌倉の光明寺に勅額が下賜される。ときに永享8(1436)年であった。

 その経緯に関する詳細な情報は不明だが、ここにおいても比較的に正統性に乏しい天皇が勅額を下賜している点に注目される。

画像22
102代・後花園天皇

 そう、さきにみてきた後深草天皇と後光厳天皇は、前者は朝廷の意思に反して即位した後嵯峨天皇を父とし、後者は異例といえる女院宣下と神器不在という境遇で即位した。伏見上皇と後土御門天皇のばあいも、前者は両統迭立下において持明院統が大覚寺統と争っていた時代であり、後者は応仁の乱に代表される乱世の時代であった。

 つまり、天皇による勅額の下賜とは、外的要因によるものだけではなく、天皇あるいは上皇が自ら進んでおこなった行為としても理解できるのではないかと思う。王朝側は、勅額に一定の価値があることを自認し、それを自己王統への正統性の付与や朝廷権威の回復に利用した、という可能性も考えられまいか。

 少なくとも鎌倉の寺院における勅額は、武家からの求めに応じた意味もありながら、朝廷側の積極的な姿勢の結果として現在に伝わっているのであろう。

③ 鎌倉に散った後醍醐天皇の皇子女―護良親王墓・用堂女王墓

画像10
護良親王墓・参道入口

 かつて放送されたNHK大河ドラマ『太平記』では、堤大二郎演じる後醍醐天皇皇子・護良親王が、個人的には強く印象に残っている。

 北条氏打倒に燃え、その達成の後には足利尊氏を次なる「北条」として警戒し、一貫して父帝の新政に尽くさんとする姿には、同時に関東に対する蔑視も描かれていたと思う。とくにそれは、親王の「右を見ても、左を見ても東夷(あずまえびす)」といった台詞によくあらわれている。

画像23
後醍醐天皇皇子・護良親王

 史実の護良親王も、おおかたこのような感想を抱いていたのではないだろうか。だとすれば、晩年に父・後醍醐天皇に対する謀反を疑われ、それにより鎌倉に護送されたのは、親王にとって屈辱というほかなかったであろう。彼のもっとも嫌うところであった「東夷」の本拠地に来てしまったのだから。

 そうして護良親王は、鎌倉の地において最期を迎える。中先代の乱の勃発時、北条の残党方に親王が推戴されるのを憂慮した足利直義が、家来の淵辺義博に命じて護良親王を殺害したのである。親王は首を刎ねられて絶命した。

画像17
護良親王墓

 ここで、なんとも興味深い伝説が存在する。首を刎ねられるまさにそのとき、親王は刀の先端を食いちぎり、首を刎ねられたあとも刃先を口に含んで離さなかったのだという。

 親王の行動に驚いた淵辺は藪に首を捨ててその場をあとにしたが、一連の惨劇を近くでみていた親王の世話をしていた女性が、動転しながらも首を拾い上げたらしい。その後、理智光寺の住職によって親王の首は埋葬されたのだという。

 同寺は明治期に廃寺となったが、今も護良親王は旧境内の一角にそびえる山の頂上に、宝篋印塔の墓形をもって葬られていると伝わる。

画像24

 また、墓は宮内庁による治定を受けており、書陵部多摩陵区の管轄下にある。ところが、2019年の台風11号による被害がひどく、現在(2022年6月29日)に至っても参道の通行止めが解除されていない。一刻も早い復旧を祈るばかりである。

画像12
東慶寺・山門

 もうひとり後醍醐天皇の子のうち、鎌倉で生涯を終えた人がいる。同天皇の皇女・用堂女王である。女王は兄にあたる護良親王が鎌倉で悲劇の最期を遂げたと知り、その鎌倉において兄の菩提を弔うべく出家した。そこで用堂女王を迎えたのが、8代執権北条時宗の妻・覚山尼によって創建された東慶寺であった。

 東慶寺といえば、監督:原田眞人/主演:大泉洋による『駆け込み女と駆け出し男』(2015)を思い出す人も多いのではないだろうか。同作品は東慶寺の「駆け込み寺」としての歴史に着目した映画で、原案は井上ひさしによる小説『東慶寺花だより』である。

画像25

 江戸時代、東慶寺において3年間修行すれば夫との縁切りが可能とされたため、同寺は「駆け込み寺」と呼ばれるようになり、さまざまな事情を抱えた女性たちが集まった。そこに小説家として“駆け出し”中の男(演:大泉洋)が東慶寺に居候しながら、ワケアリ女性たちとものがたりを展開していく。台詞回しなど、実に見応えのある映画であったと思う。

画像13
用堂女王墓・参道入口

 少々話がそれたが、つまるところ東慶寺の繁栄は、後醍醐天皇の皇女が東慶寺5世・用堂尼として入寺したことにはじまったのである。以降、東慶寺は「松ヶ岡御所」と称されたが、これも天皇の娘、すなわち皇女の入寺した歴史に由来する。

 ちなみに、近世には秀頼の娘も20世天秀尼として入寺している。これは徳川家康による特別の計らいであったため、東慶寺は「権現様お墨付き」尼寺院としてますます権威を高めたようだ。

画像14
用堂女王墓

 さて、肝心の用堂女王が眠る場所はどこか。本堂の前を過ぎて一般墓地の入口付近に長い石段がある。そこを登り切れば、後醍醐天皇皇女にして東慶寺5世・用堂女王の墓と出会う。

 女王の墓は歴代東慶寺住職の墓が並んでいる場所とは異なり、鎌倉式のやぐらのなかに造られている。これも天皇の血をひく人に与えられし特権といえようか。しかしながら、東慶寺の寺格を高めた功績は計り知れないものがある。同時における特権は当然のものといえよう。

 ところで、京都から東京に遷都してよりいまだ百十数年。ゆえに、天皇や皇族の葬られる陵墓が、京都や奈良に多いという点はどうしようもない。その意味において2人の墓は、関東にいながら皇室の陵墓を訪ねることができる点で、貴重な存在なのである。

おわりに

画像25
高徳院・鎌倉大仏

 いかがであっただろうか。以上のとおり「武家の都・鎌倉」においては、数多の皇室関連文化財や史跡が存在することがわかった。むろん、これらの例をもって「武家の都は間違いだ!」などというつもりはない。

 しかしながら、このわずかな例の存在を認知することも大切だと感じる。日本の武家政権は伝統的な王朝権威を否定せず、既存の秩序に収まったまま頼朝開幕より徳川幕府滅亡に至る700年のときを過ごした。このような事実からも、「武家の都・鎌倉」に伝わる王朝の足跡をたどる意義があるものといえよう。

 今回は、筆者の力量不足により前近代における事例のみをあつかったが、鎌倉には依然として近代皇室ゆかりの場所も存在する。また少し足を伸ばして葉山町まで含めれば、さらに皇室と鎌倉界隈との深い関係もみえてくる。つぎは、それらについても迫っていきたいと思う。


参考文献・ウェブサイト・事典類

・鎌倉市史編纂委員会編(1959)『鎌倉市史 社寺編』吉川弘文館
・松尾剛次(1993)『中世都市鎌倉の風景』吉川弘文館
・細川重男(2011)『北条氏と鎌倉幕府』講談社
・神谷道倫(2012)『鎌倉史跡散策(上)』かまくら春秋社
・山折哲雄監修/槙野修著(2013)『鎌倉の寺社122を歩く』PHP研究所

・「過去の「武家の古都・鎌倉」に関する概要」(神奈川県公式ホームページ)

・『鎌倉の寺 小事典』(2001)かまくら春秋社
・米田雄介監修/井筒清次編著(2018)『天皇家全系図』河出書房新社
・皇室事典編集委員会編(2019)『皇室事典 令和版』角川書店

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?