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泉涌寺―歴代天皇が眠る皇室の「御寺-みてら-」 京都市東山区

はじめに 東山三十六峰月輪山に向けて

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泉涌寺へと続く参道 

 私はあえて、その「御寺(みてら)」に向かうとき、東福寺駅より歩いていくことが好きだ。ここで降りれば、東山三十六峰月輪山に至る傾斜の感覚を、長く感じられるからである。ふと後ろを振り返ると、意外に登ってきたらしい。午後の日差しを浴びた京都タワーが遠くに見えた。

 ここまで歩いてきてやっと、「泉山御陵参道」と書かれた石標と出会う。ちなみに、目前に横たわる大きな道は、バス路線が通う京都府道143号線である。左に進めば祇園方面に至り、右へ向かえば再び東福寺駅に戻ることとなる。私が進むべき道は、正面真っ直ぐ、「泉山御陵参道」である。

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 この辺りまで来れば、「御寺」はいよいよ間近…などと侮ってはいけない。少々控えめな総門にいとも可愛らしげに書かれた「御寺 泉涌寺」という文字を見て安心すべからず、という意味だ。

 これから侵入する世界は、確かに「御寺」が支配する「御寺」の空間である。両脇に並ぶ塔頭寺院や専属の幼稚園などがそれを物語っているといえよう。しかし、奥に控える「主」までたどり着くには、まだ少々歩かねばならない。この木立のトンネルで覆われた道に注ぐ木漏れ日を全身に浴びながら、参拝者は皆一様にして、心と体を清浄とさせていくのである。

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泉涌寺・三門

 いよいよ三門が見えてきた。これまた控えめに「御寺 泉涌寺」と記された木版が掲げられている。しかし、その「御寺」が持つ意味は、果てしなく尊く、また重い伝統と歴史が含まれている。

 さて、ここまで泉涌寺を「御寺」と称し、また泉涌寺自身が所々でそれを自称しているが、いったい「御寺(みてら)」とはどういう意味なのであろうか。京都には他に、仁和寺が「御室(おむろ)」と称されるなど、この「御」という字が大変重要な意味で使用されている。仁和寺といえば、59代宇多天皇により創建された、皇室と非常に関わりの深い寺である。そう、泉涌寺における「御」も、まさに皇室との縁故を示す意味で称されているものなのである。

 今回は泉涌寺と皇室の関係について追っていきたい。それには前近代から現代に至るまで、泉涌寺の苦労と皇室の慈悲が結んだ、非常に奥深い歴史が存在している。まずは現代の泉涌寺に注目し、それから時代を遡って泉涌寺の歩んだ歴史を見ていこう。最後には再び現代の泉涌寺に戻ってくることで、本稿を締めたいと思う。

1 秋篠宮文仁親王の活動

 この日、秋篠宮文仁親王と紀子妃には、京都市内にお成りとなっていた。他でもない「御寺泉涌寺を護る会」が主催する、「御寺泉涌寺を護る会創立50周年記念総会」に出席するためである。文仁親王には、その総裁職にあった。

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故三笠宮崇仁親王(Wikipediaより)

 ところで、この「御寺泉涌寺を護る会」とはどのような組織なのであろうか。皇室における皇位継承順位第一位の皇族が総裁職を務めるぐらいであるから、相当に権威の高い組織なのであろうことは想像がつく。

 「御寺泉涌寺を護る会」が発足したのは今からちょうど55年前、昭和41年(1966年)のときである。後述するが、泉涌寺は鎌倉時代の一部天皇と江戸時代のすべての天皇が埋葬された場所であった。そのような、皇室の菩提寺といえる泉涌寺を護りたいという、志を同じくする人々によって結成された組織が、「御寺泉涌寺を護る会」である。はじめは故三笠宮崇仁親王に同会の総裁職を仰ぎ、当時の三井銀行故佐藤喜一郎を会長として発足された。文仁親王は大叔父であった三笠宮崇仁親王のあとを継いで、平成8年に総裁へ就任されている。

 このように、現下皇室との関わりが非常に深い泉涌寺であるが、皇室の「御寺」にまで至る過程や、それを経て直面した明治維新という時代に、翻弄されてきた歴史があることも事実である。泉涌寺の「御寺」の地位の獲得や、後に泉涌寺を襲った皇室の「神道化」など、次にはその知られざる過去に迫っていきたい。

2 泉涌寺と皇室の出会い

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泉涌寺・深く沈んでいく下り坂

 過去へとタイムスリップする前に、今一度歩を進ませておこう。三門に入る前から、わかるであろうが、ここ泉涌寺ではまず、参拝者は急激に下降した坂を下っていくこととなる。玉砂利を踏み締めていく感触は、先ほどまで「登るために」使用していた足には、幾分か刺激を与えることになるであろう。今まで登ってきた意味は何だったのか!と叫びたくなるが、これも仏の科した試練なのかもしれない。

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泉涌寺・山の影にのまれた伽藍 

 私は今まさに、泉涌寺という「海」に飛び込んでいる。否、それは「飛び込む」というより、ゆっくりと入水していく感覚に近い。周囲の山影が伽藍をぐったりと飲み込んでおり、私の全身はそれで満たされた「海」にだんだんと沈んでいっている。いつの間にか、先ほどまでは目線と同じ高さにあったはずの仏殿を見上げていた。ここではじめて、泉涌寺にかけられていた魔法から、意識がはっきりとしてくるのである。

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月輪陵/後月輪陵・鎌倉時代の一部天皇と江戸時代の天皇すべてが眠る

 一通り、仏様に挨拶を済ませたら、泉涌寺のなかでも奥の方に足を向けて歩いていこう。天智天皇から昭和天皇に至るまで、歴代天皇の位牌を祀った施設である霊命殿に門前から挨拶を済ませたならば、その右脇にある細い道を進んでみて欲しい。すぐ開けた空間に出るが、そこには鎌倉時代の一部天皇と江戸時代のすべての天皇が眠る、月輪陵/後月輪陵が存在している。

 これは隠されるようにして存在しているため、多くの参拝者は見逃しがちなのではないだろうか。泉涌寺をもっとも格式高くさせている根源にして、数ある天皇陵のうちもっとも多くの天皇が眠るこの黄泉の世界を前にすれば、言葉はもう出ない。美しく敷かれた白砂の先には、荘厳な唐門と透垣で仕切られた陵と、迫りくる東山三十六峰月輪山の緑がある。

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泉涌寺月輪陵/後月輪陵・ぎっしりと書かれた歴代天皇、皇族たち

 なぜ泉涌寺にはこれほどの天皇と皇妃が眠る陵墓が築かれたのであろうか。寺院が天皇陵を有すること自体は何も珍しい現象ではない。陵寺と呼ばれる、亡くなった天皇の菩提を弔うために造営された寺院は数多く存在しているからである。しかし、ここ泉涌寺にはあまりにも多くの天皇と皇妃が眠っている。そのように至ったきっかけは何だったのか。

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九条道家・鎌倉時代中期に摂政を務めた(Wikipediaより)

 実をいえば、天皇の陵所となる以前に、天皇の葬送を担当したことに、泉涌寺の大きな発展のきっかけを見出すことができる。

 鎌倉時代中期、五摂家の一つとして名高い九条家に生まれた九条道家は、泉涌寺からも程近い東福寺を建てた人物として知られる。そう、先ほど私が下車した東福寺駅の東福寺である。なるほど東福寺といえば九条家の墓所が存在し、同家に生まれた貞明皇后の多数の行啓があった寺院でもある。

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東福寺・通天橋を望む

 その「九条家の東福寺」を建てた道家は、泉涌寺を創建した俊芿律師に深く帰依していた。さらに道家は時の天皇であった後堀河天皇の中宮に自身の娘を娶らせた。その間に生まれた天皇こそ、泉涌寺に葬られた初めての天皇こと、四条天皇であった(村井康彦「京の天皇陵「御寺」への道程」上村貞郎・芳賀徹『新版古寺巡礼 京都|27 泉涌寺』淡交社、2008)。

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四条天皇・幼くして崩御(Wikipediaより)

 四条天皇といえば、ご存知の方も多いだろうが、なんとも不幸な死を遂げている。滑石粉を撒き女官を転ばして遊んでいたところ、自身がそれに引っかかって転倒し、そのまま帰らぬ人となったようである。四条天皇は父後堀河天皇のあとを二歳で襲い、この事件によって十二歳で崩御した。当然、天皇となるべき息子はいない。

 当時、四条天皇の死は「とんでもない」ことであって、これは詳述すると長くなるので割愛するが、とにかく「とんでもないこと」であった。鎌倉幕府によって皇位継承が左右された時代である。まずは関東に向けて時期天皇を誰とするかを伺い、あれやこれやと揉める中、天皇の遺体の損傷は激しくなっていった。それは見るに耐えない白骨化した姿だったという(久水俊和『中世天皇葬礼史』戎光祥選書ソレイユ、2020、52頁。以下も同書を主に参考)。

 この状況下で天皇の葬儀を担当すべき寺院が必要とされていた。すでに朝廷による葬送の文化は衰退し、この時代には僧侶、特に禅僧などが葬儀を担当する状況になっていたらしい。顕密僧などの「高級僧侶」は死穢を避け、追善供養になってやっと「お出まし」があったようだ。このとき、九条道家と泉涌寺との関係性に効果が発揮された。前述したように、四条天皇は九条道家の娘と後堀河天皇の間に生まれた子どもであった。道家にとって四条天皇は、自身の言うことに首肯を繰り返してくれる「可愛らしい」孫であったが、その子ははかなくも散ってしまった。そこで道家と俊芿の深い師弟関係によって、泉涌寺に葬送を依頼したとされている(前掲、上村貞郎・芳賀徹、2008)。

 当時の泉涌寺について、久水俊和氏は「“売り出し中”」という表現を用いている(前掲、2019、60頁)。四条天皇崩御によって引き起こされた「とんでもないこと」については、先に割愛すると述べたが、ここで少しその内容について、久水氏の著書の記述にしたがって簡潔に記す。要するに、四条天皇には幼い上に皇子が存在しなかったため、皇位継承に問題が発生したのである。そして、四条天皇の系統(後高倉院の系統)が断絶したということは、他でもないその皇統の傍流化を意味している。すでに新しき天皇家の「祖」となった、邦仁王こと後嵯峨天皇に注目は集まっており、旧時代の皇統は忘れ去られていく一方であった。

 そのような状況に手を差し伸べた寺院が、「“売り出し中”」の泉涌寺であった。当時、泉涌寺は俊芿によって再興された律宗寺院であったが、それと時の天皇に自身の娘を嫁がせて、皇子を生ませた道家という強力なスポンサーが相まって、これを契機に「御寺」への地位を駆け上がっていくことになる。また、四条天皇は幼い頃に、泉涌寺を復興させた俊芿であることを自称し、俊芿の生まれ変わりと信じられていた。そのような伝説的経緯もあって、泉涌寺はより一層と「御寺」の風格を帯びていくようになる。

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般舟三昧院陵・同院は衰退し今は後花園天皇分骨等などを納めた塔が残る(宮内庁管轄)

 しかし、泉涌寺の「御寺」の地位を脅かしていく存在があった。般舟三昧院である。同院は戦国時代の後土御門天皇によって創建された。すでに鎌倉時代中期に崩御した四条天皇より時代は下り、両統迭立を経て南北朝の合体も相成った時代である。教科書的記述のみに沿えば、この時代は南北朝という嵐が去り、戦国という新たなる乱世に直面せんとしたようにみえるが、天皇家内部においては、いまだに嵐は去っていなかった。北朝内部で分裂していた後光厳天皇に始まる「後光厳流」と、その兄である崇光天皇より始まる「崇光流」、すなわち伏見宮家の二派は、それぞれ菩提寺とする泉涌寺と般若三昧院を背後に据えて、死後の世界を弔う場面で対立を激化させていた。

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般舟三昧院陵・正面 

 泉涌寺を信仰する後光厳流にとって、応仁の乱がもたらした災禍には痛いものがあった。ここで、乱後に創建された般若三昧院による巻き返しが図られていく。しかし、崇光流によって信仰された般若三昧院の支援勢力は、結局のところ「天皇家」になり損ねた伏見宮家であった。後土御門天皇は伏見宮家から天皇位を継承した後花園天皇の息子であるため、父の実家に配慮して般若三昧院を建立させたのであろうが、これが余計に悪影響をもたらしたのかもしれない。

 後柏原天皇の葬礼において、泉涌寺と般若三昧院の対立はさらに浮き彫りにされた。今まで、応仁の乱により多大な被害を受けた泉涌寺では、主な儀式を悔しくも般若三昧院に譲らざる得ない状況が続いていた。しかし、今度に行われる中陰仏事は泉涌寺にとって絶対に譲れない事案となった。ときの後奈良天皇は、今回は般若三昧院で行い、次回は泉涌寺に担当とさせるような意味を含む回答を差し向け、ことはいったんおさまったが、これは般若三昧院の「御寺」としての地位が盤石になっていた事実を示す例だといわれている(久水俊和、前掲書、2019、127頁)。

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泉涌寺/霊明殿・天智天皇から昭和天皇まで歴代天皇の位牌を祀る

 その後も泉涌寺と般若三昧院という二つの「御寺」は、朝廷の凶事や追善供養のたびに自身の立場を有利にせんとして立ち回りを続けていたが、結果的には、今に泉涌寺が「御寺」の地位を独占しているように、泉涌寺に軍配が上がった。四条天皇以来に後陽成天皇の父である陽光院太上天皇が死去すると、泉涌寺に陵所が営まれた。それまで葬儀は泉涌寺で行われ、遺骨は京都府伏見区に所在する深草北陵に納められていたが、泉涌寺はここに至って遺体をも自身のテリトリーにおさめることに成功したのである。以後、江戸時代には、天皇や皇妃らは先にみた唐門の中に石塔が築かれ、土葬されていくことが慣例になった。

 この点で、久水氏は興味深い指摘をされている。曰く、後光明天皇より始まる土葬の制度は、それまで指摘されてきた『朱子家礼』に基づく儒教式葬儀の影響というよりは、天皇家仏事におけるこれまでの般若三昧院などとの争いを視野に入れた、遺体の独占のためだというのである(久水寿一、前掲書、2019、188頁)。確かに、火葬にすれば骨はいくらでも分けることができる。これによって争いが起きるのであれば、土葬にすることで遺体を分散させない方法がとられたという意味である。江戸時代の泉涌寺における葬礼に際して、火葬に擬した形式的な火葬儀を行なっていたことなどを鑑みれば、この指摘は大変に示唆に富むものと思える。

3 泉涌寺の危機

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後月輪東山陵/後月輪東北陵・孝明天皇と英照皇太后が眠る

 ここまで、前近代における泉涌寺の歩みを振り返ってきた。泉涌寺はそれを再興させた俊芿、俊芿に師事し東福寺創建をも成し遂げた九条道家、その道家を祖父に持つ四条天皇という三人の関係性がきっかけとなって「御寺」の地位へと登っていった。しかし、後土御門天皇による伏見宮家への配慮を受けて創建された般舟三昧院の登場によって、「御寺」の座は争われることになる。最終的に、泉涌寺は遺体を土葬することによって天皇家からの「独占」を獲得し、同時に天皇家からの支持も得られた泉涌寺が、今に「御寺」を名乗っていることがわかった。

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孝明天皇・泉涌寺に「諸寺之上席」を勅許(Wikipediaより)

 もはや江戸時代において、「御寺」の品格を傷つける存在は皆無に等しかった。長く上皇の地位にあった後水尾天皇は泉涌寺に深く帰依し、その態度に全力で答える形で、徳川四代将軍家綱は泉涌寺に全面的な支援を実行した。すでに天正期には紫宸殿の拝領による海会堂の建立、御所の御文庫の拝領による舎利殿の再建が達成されていた。舎利殿については寛永19年(1642)9月15日付けの明正天皇の綸旨が残されており、その建設年代がほぼ判明している(安藤信策「泉涌寺の歴史 伽藍の美と雅」、前掲書、上村貞郎・芳賀徹、2008)。さらに江戸時代も終わり頃、慶応元年(1865)には孝明天皇より「諸寺之上席」の許可が下った(大三輪龍哉「泉涌寺の文化財」前掲書、上村貞郎・芳賀徹、2008)。泉涌寺の栄華、ここに極まれりといえよう。

 しかし、慶応年間より以前から、日本は諸外国との接点を持つ機会が増えていた。それによって引き起こされた明治維新という一大革命は、結果的にそれまでの天皇のスタイルと大きくかけ離れた状況を生み出していくことになる(井上亮『天皇と葬儀』新潮選書、2013。以下は同書に拠る)。それは、天皇が信仰する宗教においても同じことがいえる。現下の皇室を見てわかるように、この時代に至って皇室の完全な「神道化」が図られたのだ。それまで泉涌寺において仏式で行われていた天皇の葬礼は、古代への「復古」という形で神道式に実施された。

 例えば、慶應2年(1866)に崩御した孝明天皇の葬儀は、泉涌寺において執り行われた。それは従来通り、僧侶による奉送ではあったが、一部に過ぎなかった。京都守護職松平容保や将軍徳川慶喜、老中などが供奉するなか、泉涌寺に到着した霊柩に、もはや泉涌寺の入る隙間はなかった。その後は山陵において「復古」的な儀礼を執り行い埋葬された。孝明天皇が生きていれば、明治維新はなかったかもしれない。その意味では、天皇はその最後に至って、維新を象徴する「復古」的な儀礼の誇示のために利用されたといえよう。ちなみに、その後に行われた追善供養においても、孝明天皇の場合は神式で執り行われており、ますます泉涌寺の立場は薄くなっていった。

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英照皇太后・孝明天皇女御。泉涌寺にて神葬される(Wikipediaより)

 孝明天皇の次に、その女御であった英照皇太后が崩御した。明治30年1月の頃である。すでに有栖川宮熾仁親王と北白川宮能久親王が薨去しており、国葬による葬送儀礼が執り行われていたが、「崩御」と称される皇太后の死に、明治政府は初めて直面した。このとき、再び泉涌寺が舞台として葬儀が執り行われることとなった。皇太后の遺体は列車で京都に運ばれ、そこから泉涌寺に向けて葬列が出発している。孝明天皇の葬儀のときは形だけではあったが、僧侶の参席が許される場面もあった。しかし、今回は一切の関与が許されず、泉涌寺の僧侶はただ自身のテリトリーで展開される「復古」的な神道葬儀を眺めていることしかできなかった。泉涌寺の僧侶にとって、いともおかしな光景であったに違いない。英照皇太后は孝明天皇と同じく泉涌寺の裏山に巨大な山陵が築かれて埋葬された。

 このように、泉涌寺はかつて勝ち取った「御寺」という地位から、遠く離れていく現状を強いられていた。それは儀礼の主体性の喪失に代表されることは無論、朝廷や将軍家からの支援が近代化によって停止されてしまったことも大きな要因となっていた。しかし、戦前には宮内省から国費を元にした財政支援や天皇家内廷よりのご下賜金があったため、儀礼の主体性は喪失されたものの、寺院の存続には問題のない状態が続いた。

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象徴天皇が住まう、皇居

 問題は新憲法が制定された戦後にあった。天皇の大喪の礼でさえ、国民主権との兼ね合いの中で鳥居など「宗教的」と見られるものがすべて撤去された状況からも察せられるように、宮内庁が国費を投じて特定の寺院を援助することは不可能となってしまったのである。わずかに天皇家内廷よりの私費であるご下賜金が唯一のよりどころとなるなか、皇室の「御寺」の維持を図るために結成された組織こそ、先に述べた「泉涌寺を護る会」であった。このようにして、本記事は冒頭に繋がるのである。

4 それでも祈り続けるー現代の泉涌寺

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泉涌寺/勅使門・天皇や皇族、勅使の訪問の時にのみ開けられる

 泉涌寺へと続く坂道には、今かいまかと待ちわびる人々の群れがあった。それは新しく即位した天皇を迎える群衆の波である。その波の中心を、天皇と皇后が乗車した車はゆっくりと進んでいった。


 この日、泉涌寺では新たに即位した天皇による、「親謁の儀」が行われた。かつて定められた「登極令」は、新天皇即位に伴い実施される儀礼を定めたものであるが、ここには「即位礼及大嘗祭後神武天皇山陵並前帝四代の山陵に親謁の儀」という項目がある。令和に即位した当今天皇は、上皇が存命であることから、昭和天皇より遡ること4代目にあたる孝明天皇陵へ「親謁」するために、泉涌寺に行幸したのである。

 新たな天皇と皇后を迎える人々のなかに、泉涌寺で修行する僧侶の人々の姿があった。かつては天皇の葬礼を引き受け、般舟三昧院との争いを経ながら、江戸時代には「諸寺之上席」の栄華に浴したものの、明治維新後には厳しい財政状況に陥り、なおかつそれまでの専売特許であった葬送儀礼の主宰者としての姿も失われてしまった、その「泉涌寺」に生きる人々である。しかし、そのような試練を経ながら、皇室の私費より下されたご下賜金と歴代天皇の思いやりや、皇族をはじめとする泉涌寺を護りたいという人々らの熱心な活動によって、今まさに皇室の「御寺」の風格は維持されている。無論、それに加えて、泉涌寺で日々暮らし、仏の道をおさめる泉涌寺の僧侶の人々によって、泉涌寺は「御寺」たり得ている。彼らは新たな天皇と皇后を、ここ泉涌寺に迎えるにあたって、どのような思いをいだいたのであろうか。

 泉涌寺はこれからも、千秋万歳にわたって皇室との縁故を深め、守られなければならない寺院であろう。それは第一に、東山三十六峰月輪山の麓に鎮まる、皇室の黄泉の世界を守ることに始まる。そこで、我々にすぐにでも実行可能なものといえば、泉涌寺への陵墓参りである。多数の天皇や皇妃と出会える泉涌寺に、ぜひ足を向けてみて欲しい。そのときは、東福寺駅より歩くことをお勧めする。

参考文献・ウェブサイト

芳賀徹「御寺の風格」(上村貞郎・芳賀徹『新版古寺巡礼 京都|27 泉涌寺』、淡交社、2008、6頁〜16頁)
安藤信策「泉涌寺の歴史 伽藍の美と雅」(同上、94頁〜103頁)
村井康彦「京の天皇陵「御寺」への道程」(同上、104頁〜111頁)
大三輪龍哉「泉涌寺の文化財」(同上、129頁〜136頁)
久水俊和『中世天皇葬礼史』(戎光祥選書ソレイユ、2020)
井上亮『天皇と葬儀』(新潮選書、2013)
原武史/吉田裕『岩波天皇・皇室辞典』(岩波書店、2005年、64頁〜68頁、藤田覚「泉涌寺」)
米田雄介 監修/井筒清次 編著『天皇家全系図』(河出書房新社、2018)
皇室事典編集委員会編『皇室事典 令和版』(角川書店、2019、484頁、小田部雄次「明治の皇室典範と皇室令」)

真言宗泉涌寺派総本山 御寺 泉涌寺(2021年9月10日閲覧)
宮内庁 秋篠宮家(同上)
日テレNEWS 24 2019年11月27日「両陛下 孝明天皇陵で「親謁の儀」に」(同上)

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