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承久の乱より800年 今こそ、佐渡へ―順徳天皇火葬塚と皇子女3人の墓をめぐる 新潟県佐渡市

 かつてここ佐渡島に、よくいえば「遷幸」、悪くいえば「流刑」に処された天皇がいた。その天皇は「文学の天皇」とも称され、「帝王学の教科書」と評される『禁秘抄』や和歌論『八雲御抄』を著した。

 しかし、同時に荒ぶる「ますらを」の気象を備えていた天皇は、やがて尊敬する父とともに自らの果たさんとする「正義」に突き進んでいく。夢破れてのち、最後は島に築かれた、朽ち果てつつある御所のなかで、わずかに半生を過ごした京を思いながら死んでいった。その人は、84代順徳天皇である。

 本noteは、今夏の佐渡島への旅行において、「真野御陵」と称される順徳天皇火葬塚をはじめ、その皇子女にあたる慶子女王・忠子女王・千歳宮の各墓をめぐった事実を記録したものである。

はじめに 佐渡島とは何か

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佐渡島(Wikipediaより)

 「佐渡島」には「さどしま」や「さどがしま」など、様々な読み方があるようだ。ここでは簡略に「さど」と呼称していこうと思う。したがって、今までは「佐渡島」と記してきたが、ここからは「佐渡」と表記していく。この指すところは「佐渡島」である点に変更はない。

 第一に佐渡の基礎データを列挙していこう(以下「佐渡観光ナビ」より)。佐渡は新潟県佐渡市に所在する島である。島の周囲は一周約280キロメートル、面積は東京23区の1.4倍という非常に広大な島だ。また、島の全域が新潟県佐渡市となっており、佐渡すなわち佐渡市といえる。人口は56000万人で、島にしてはやはり大きな規模を有している。

 位置的には、新潟県の本土が三日月であれば、佐渡はそれと対をなす太陽といえようか、新潟県本土を照らすようにして、佐渡は日本海側最大の島として浮かんでいる。

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五畿七道制による令制国(Wikipediaより)

 先に佐渡=佐渡市であることに触れた。佐渡は全域を佐渡市に委ねており、島すなわち市なのである。しかし、これは現代になって設定された行政区分といえる。その昔、佐渡は「佐渡国」という、律令制のもとに国府が置かれた一つの「国」であった。国府といえば、とある天皇を思い出す人がいるかもしれない。奈良時代のころ、聖武天皇によって進められた全「国」における国府の設置は、国分寺の建立とともに、ここ旧「佐渡国」でも進められた。

 聖武天皇の代、佐渡は「遠流(おんる)」の地に定められた(近藤勘治郎『越後佐渡に於ける順徳天皇御聖蹟誌』新潟県教育委員会、昭和17年、86頁)。日本海の荒波に加えて、本土からも適度に離れた立地は、罪人を閉じ込めておくことに効果を発揮するー。そう考えられたのであろう。明治期に至るまで、佐渡には数々の罪人が帆船に揺られながら、佐渡にて罰を受けるために罪を背負ってきたのである。

 その一人に、順徳天皇がいた。佐渡に流された人のうち、おそらくもっとも高貴な出自を有していた人物である。天皇はその後も20年間にわたって佐渡に生き、最後も佐渡で死した。その高貴な出自、そして「悲劇的」とも称される経緯が相まって、順徳天皇は佐渡を象徴する「主」となっていく。

 今回の旅ではこの順徳天皇と佐渡で生まれた皇子女に焦点を当てて、島に残る天皇の遺蹟をめぐっていきたい。

1「島の主」順徳天皇にあう

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佐渡汽船「ときわ丸」より望む佐渡

 両津港には島を訪れた人々を歓迎するために、笛や太鼓で曲を奏でる地元の子どもたちが駆けつけていた…などという、私の「島」へのイメージは当然現実にあるわけもなく、船から降りると、この時期にしては涼しい風で我に帰った。この三日間、計画的に回らねば。船酔いから復帰したばかりの身体には幾分かこたえたが、早速停留所につけていたバスに乗車した。目的地は「真野御陵入口」である。

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佐渡に広がる水田・新潟交通佐渡バスより

 バスの車窓に映し出された景色には意外なものがあった。見渡すかぎり、こめ、コメ、米。島というだけで、漁業が盛んだと思っていた私は、眼前に広がる鮮やかな緑色の風景に驚いた。しばらくバスに揺れていたが、進めば進むほど、バスが田園風景を切り開いていく。ここは本当に島なのか。本土の内陸部にいる心地さえした。

 まだ着きそうにはないので、先に今から訪れる「島の主」こと順徳天皇について、多少解説を加えておこうと思う。

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順徳天皇・第84代天皇とされる(Wikipediaより)

 順徳天皇と聞いて、何を思い浮かべるだろうか。おそらく、まず想起されるのは承久の乱ではないかと思う。鎌倉幕府を開いた源頼朝が死去するや、後に続いた源氏将軍はわずか三代で途切れてしまった。今や関東を支配していたのは、鎌倉幕府第二代執権・北条義時とその子孫たちであった。かねてより朝廷に権力を取り戻そうと企てていた後鳥羽天皇は、息子である順徳天皇と共謀して、ついに北条義時征伐に乗り出した。しかし、朝廷軍はあっけなく敗北し、首謀者である後鳥羽天皇は現在の島根県隠岐島に、共謀した順徳天皇は佐渡に配流された(この時点で、二人はそれぞれ「本院」と「新院」と称される上皇の身分にあったが、便宜上「天皇」と記していくことにご了承いただきたい)。

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北条義時・鎌倉幕府第二代執権(Wikipediaより)

 従来、順徳天皇といえば「父親と一緒に幕府を倒そうとしたものの、佐渡に流された哀れな天皇」という、大まかなイメージで語られてきたように感じる。私自身、思えば佐渡に流されたあと、順徳天皇がどのような生涯を歩んでいったのか、皆目見当がつかなかった。今回、私が佐渡に訪れた理由には、以上のようなステレオタイプというべき順徳天皇の人物像を、更新するためでもあった。

 すっかり眠ってしまったらしい。気がつくと、バスは先ほどまでいた両津湾とは正反対に位置する真野湾まで来ていた。Google マップを確認すると、小さな青い点がじりじりと「真野御陵入口」に近づいていた。

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佐渡歴史伝説館・カラクリ人形が佐渡歴史を語る

 到着するや、私はまず佐渡歴史資料館に訪れた。ここでは佐渡に配流された三人の人物を中心に島の歴史を学ぶことができる。三人とはすなわち、順徳天皇・日蓮・世阿弥である。ここではじめて世阿弥や日蓮も佐渡島に流されていた事実を知った。はっきりいって、私の関心は順徳天皇にしか向かなかったが、ここで繰り広げられる三人と島の関係史を綴った「人形劇」は工夫に富んでいて面白かった。詳細ついては、現地を訪れて体験していただくほかない。

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順徳天皇火葬塚「真野御陵」・参道

 いよいよ、順徳天皇が火葬された地という、「真野御陵」に向けて歩いていく。そう意気込んだのはよかったが、なるほど確かに遠い。塗装された道であるため、歩きにくいことはないが、炎天下には多少きついかもしれない。そうはいっても、バスはこない。とりあえず、「真野御陵」を目指しながら、私はもう一度、心の中で順徳天皇を振り返ることにした。

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後鳥羽天皇・順徳天皇の父(Wikipediaより)

 この日、「ももしき(朝廷)」という、やんごとなき家系に生まれた皇子に、「守成(もりなり)」という諱がつけられた。父後鳥羽天皇の諱は「尊成(たかひら)」であったので、それに因んで命名されたのだろう。

 「守成」ことのちの順徳天皇は、兄土御門天皇の異母弟として建久八年(1197)に誕生した。三歳で皇太弟となると、その十年後には十三歳という若さで践祚した。このとき、兄である土御門天皇は父後鳥羽天皇によって譲位を促されている。この経緯をみるに、後鳥羽天皇が諱に自身と同じ「成」を共通させた順徳天皇を、特別にかわいがっていたであろうことは想像がつく。土御門天皇の諱「為仁(ためひと)」には見ての通り、父と共通する「成」の字は含まれていなかった。

 ある人は順徳天皇を指して「文学の天皇」と称した(山田詩乃武『順徳天皇』PHPエディターズ・グループ、2021、3頁)。天皇は有職故実に長けており、例えばその集大成といえる『禁秘抄』は、宮中儀式を総括したものであった。十三歳で天皇に即位しながら、宮中の諸儀式を注意深く観察していたのだろうか。二十歳で、後世に天皇家における「帝王学の教科書」と称される「大作」を著したのだから、その才能は並大抵のものではなかっただろう。「文学の天皇」とは、なるほど的を得た表現だと感じる。

 「文学の天皇」としての性格を持つ一方で、順徳天皇は兄の土御門天皇とは異なり、血気盛んな気象の持ち主に育っていた。これには後鳥羽天皇から一線を画した「愛情」が捧げられた順徳天皇の生い立ちも影響しているだろう。しかし、それは本当に「愛情」だったか、それとも「洗脳」だったか―。順徳天皇自身、父の語る「理想」に疑問を抱いた瞬間もあったかもしれない。ところが、そのような迷いは順徳天皇を囲った人物らによってかき消されていく。例えば、順徳天皇にとって外祖父である藤原範季は、かつて源義経を支持した経緯があり、幕府には反抗的な姿勢を貫いた人物であった(笠原英彦『歴代天皇総覧』中央新書、2018、212頁)。

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神奈川県鎌倉市・かつて鎌倉幕府がおかれた

 藤原定家など一流歌人との交流や、宮中書儀式をまとめた『禁秘抄』の完成を経た二十五歳の年。「文学の天皇」こと順徳天皇は、父より関東征伐の計画を聞くや賛成の意を示し、父とともに共闘を決意した。その啖呵を切ったのが、息子である懐成親王への譲位であった。親王はのちに鎌倉幕府によって廃位されてしまう、仲恭天皇その人である。当時は廃位後、「九条廃帝」と称された。今に至るまで破られない、在位期間およそ70日という、歴代で最も短い治世をおくった天皇である(笠原、前掲書、213頁)。

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恋が浦・順徳天皇が上陸した地とされる

 息子への譲位を皮切りに、幕府と対峙するため上皇となった後鳥羽天皇と順徳天皇であったが、結果は見るに無残な惨敗となった。無念の思い、そして幕府への謀反という「罪」を背負った順徳天皇は、わずかな従者をつれて、佐渡の恋が浦に着岸したとされる。この地には現在、順徳天皇が後鳥羽天皇を思い詠んだ歌や、皇太子時代の昭和天皇が訪れた際に詠んだ歌などを刻んだ石碑が設置されている。

いざさらば磯打つ波にこと問はむ沖のかなたには何事かある―順徳天皇 

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恋が浦

 一方で、近藤勘治郎編『越後佐渡に於ける順徳天皇御聖蹟誌』(新潟県教育委員会、昭和17年)では、順徳天皇の佐渡着岸地について、恋が浦とともに佐渡の松ヶ崎を紹介している。どうやら、順徳天皇の着岸地点には諸説あるようだ。同書では本土から佐渡まで、もっとも安全な航路を選択すれば松ヶ崎に至ることを指摘し、一旦は必ず松ヶ崎に着岸したであろうと推測している。しかし、松ヶ崎には順徳天皇が入居した寺院などが見られないために、その後は磯伝いに国府から近い恋が浦に着岸したと付記している。

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恋が浦に設置された石碑群

 順徳天皇は二十五歳で流罪に処されて以降、崩御するまでのおよそ二十二年間を佐渡において過ごした。したがって、一箇所に住み続けるようなこともなく、順徳天皇は佐渡を転々としていたようだ。配流後すぐに行宮としてあてられたのは佐渡の国分寺であった。先に聖武天皇によって全「国」に国分寺が設置されたと述べたが、まさにその国分寺である。順徳天皇が入居した際には未だ七重塔がそびえ立っており、現下の夏草が茂らんばかりの様子とはまったく異なっていたようだ。塔は順徳天皇の崩後、正安3年(1301)に焼失している(山田、前掲書、85頁)。

 誰よりも慕い尊敬していた父の消息はどうだろうか。順徳天皇は佐渡に配流されてのちも、遠く離れた隠岐の後鳥羽天皇との交信を怠らなかった。隠岐に至るまで後鳥羽天皇に扈従していった池蔵人清範は、京に召し返されたとき、順徳天皇が日頃より崇拝していた近江の日吉神社に詣でて、後鳥羽天皇の密旨を神明に奉告した。その後、清範は佐渡にわたり、順徳天皇と謁見している。このとき、彼は順徳天皇に向けて、隠岐における「御父」後鳥羽天皇の様子を語ったのであろうと山田氏は推測している(同、前掲書、88頁)。

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黒木御所跡

 佐渡での生活も長くなってきたころ、順徳天皇は島における三つ目の行在所であった黒木御所を住まいとしていた。黒木御所の「黒木」とは丸木や皮付きの木材で造営されたからだという(山田、前掲、107頁)。

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黒木御所跡・木柵で囲まれている

 ここは現在、御所の跡地とされる部分を石段で固め木柵を囲った、一種の陵墓のようなかたちで整備されている。往年には農園の中にあり荒廃が進む一方であったが、これを見かねた有志らが跡地に柵をめぐらすなど整備したらしい(近藤、前掲書、102頁)。

 ちなみに、百人一首の一つにも数えられている、

百敷や古き軒端を忍ぶにもなお余りある昔なりけり―順徳天皇

という、順徳天皇を代表するこの歌は、ここ黒木御所にて読まれたのではなく、ひとつ前の御所であった八幡で読まれたとされている(近藤、前掲書、102頁)。

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鴨川・順徳天皇が過ごした京都に流れる

 「ももしきの…」の歌にみられるように、常に順徳天皇が抱いた思いは、京への還幸であった。とある日、敬愛する父後鳥羽天皇が隠岐で死したという知らせが佐渡に届いた。それを聞いた順徳天皇は悲嘆にくれたという。先述したように、二人は佐渡と隠岐という遠い地を憚らず、相互に書状や歌などを送り合っていた(山田、前掲書、140頁)。後鳥羽天皇にとって、順徳天皇は誰よりも愛すべき息子であり、また順徳天皇にとっても父後鳥羽天皇は誰よりも尊敬に値する父親であったのだ。

 そのような二人を、死は容赦なく引き裂いた。しかしこの後、佐渡にきて以来、順徳天皇にとってはこの上のないチャンスが回ってきた。京において幼い四条天皇が不慮の事故で死んだというのだ。四条天皇には後嗣はなく、時期天皇が誰になるか注目が集まっていた。ここで、京に健在であった順徳天皇の皇子・忠成王が、朝廷より強く推挙されることとなった。ときの摂政・九条道家は順徳天皇皇后立子の弟であり、天皇と道家は和歌のやりとりを交わすなど、非常に親密な関係にあった。両者が交わした歌にこのようなものがある。

ながらへてたとえば末にかへるともうきはこの世の都なりけり―順徳天皇
いとへども猶ながらへて世の中にうきをしらでや春をまつべき―九条道家

 順徳天皇の還幸への期待に対して、道家が激励と戒めをみせる雅なる歌のやりとりであった(山田、前掲書、141頁〜142頁)。

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後嵯峨天皇・忠成王を破って即位(Wikipediaより)

 しかし、順徳天皇が望んだ春は来なかった。幕府は反幕府心が強い順徳天皇を警戒し、比較的に穏便な性格で承久の乱にも加担しなかった土御門天皇に好感を抱いていたからだ。その結果、土御門天皇皇子・邦仁親王が即位した。後嵯峨天皇である。後鳥羽天皇よりの「成」の家系は途絶え、皇統は「仁」の勝利に終わったのである。現在の皇族の諱に「仁」が継承されているのは、このときに原因を見出すことも可能ではないだろうか。もし、ここで忠成王が即位していれば、皇室に継承された通字は「成」に変わっていたかもしれない。

 順徳天皇にとって、今回こそついに還幸の夢は水泡に帰してしまった。近藤氏編による前掲書に引用されている『平戸記』によれば、「存命太無益(存命太だ益なし)」とうたった天皇は、絶食をしながら、その三日後に焼き石を腫れ物にあてて自害を図ろうとしたようである(近藤、前掲書、139頁)。その数日後に順徳天皇は崩御した。四十六歳、二十二年前に佐渡に流れ着いたときと同じ、秋のころであった。

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順徳天皇火葬塚前・ロータリー

 やっとの思いで、ここまで来た。周りとは明らかに異なる植生がみえる。あれは赤松であろうか。その下に視線を落とせば、みなれた石柵があった。間違いない、あれこそ「真野御陵」こと順徳天皇火葬塚である。

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 順徳天皇火葬塚・参道

 広いロータリーを通過して、年季の入った木造の建物内にいた女性に会釈しつつ、心躍る気持ちを抑えるようにして、「真野御陵」の正面拝所へと向かう。やがて砂利道に入ると、右に曲がった先に一般拝所があった。塚本体へは木柵で侵入を防止しており、その先は白い玉砂利が鳥居へと誘うように敷かれていた。拝所より五メートルほど先に設置された鳥居は木製とみられる柵が付随したものであり、すぐ向こう側が火葬塚であることを物語っている。一見、一般拝所と火葬塚とは離れているように感じるが、意外に「それ」までには近いのかもしれない。

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順徳天皇火葬塚・一般拝所

 この「真野御陵」は「陵」と称されているものの、実際は順徳天皇を火葬した「火葬塚」、つまりは火葬場の跡地である。他に火葬塚と呼ばれるものは京都市内に多く点在しており、例えば近衛天皇火葬塚や後冷泉天皇火葬塚などは、宮内庁によって京都市紫野に治定されている。

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順徳天皇火葬塚に設置された案内板

 では順徳天皇には別に「陵」が存在することになるが、それはどこにあるのだろうか。順徳天皇は佐渡で没するやここ真野山で荼毘に付されると、侍臣・藤原康光によって日本海を渡り、京都大原にまで遺骨が運搬されたと伝えられている。同地には大原陵という宮内庁管理の陵があり、ここで同じく隠岐より京都へ無言の還幸を果たした父後鳥羽天皇とともに眠っているとされる。

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京都市大原陵・後鳥羽天皇と順徳天皇が眠るとされる 

 当時、順徳天皇の遺骨は法華堂に奉安されたようだが、今に法華堂は残っていない。南北朝の動乱や応仁の乱を経て、消失してしまったようである。(近藤、前掲書、169頁〜170頁)。

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「真野御陵」と刻された石標

 確かに「真野御陵」は火葬塚であった。しかし、長年にわたって陵と同格な扱いを受けており、またかつて火葬塚は順徳天皇最初の行在所であった国分寺末寺・真輪寺の管理下に置かれるなど、丁重な管理がなされてきたようだ。中世には竹垣のみで火葬塚の所在を示すなど再び荒れ果てたが、江戸時代に至って佐渡奉行曽根五郎兵衛により大規模な修繕が加えられ、周囲に土台が築かれて新たに門を建てたという(近藤、前掲書、160頁〜168頁)。

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真野宮・順徳天皇を祀る

 真輪寺においては、明治時代まで「真野御陵」を守護する寺院として機能してきたものの、神仏分離令を受けて真野宮へと改称し、本堂を清めたのちに仮遷宮を行なった。住職もまた服飾して神官となり、以後は神道をもって祭祀することになったという(山田、前掲書、174頁)。

 このように、「真野御陵」は火葬塚でありながら手厚い保護のもと、御陵の性格を維持し続けてきた。それには公的な援助に支えられた経緯もあろうが、何より、島民による崇拝の念に大きな要因をみることができよう。近藤氏編の前掲書で引用されている田中美清『佐渡志』には、火葬塚近くに門松を立てて奉仕していたという近隣百姓の存在がみられる。離島という、中央政権からの援助を受け取りづらいなかで、地元住民らによって保存されてきた「真野御陵」については、今後さらに検討していきたい所存である。陵墓と地域住民との関係性をみることは、陵墓の保存状態や周辺の歴史に関わる大事であると感じる。

2 順徳天皇と3人の皇子女

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佐渡の田園風景

 真野御陵をあとにして、私は順徳天皇が佐渡で儲けた三人の皇子女の墓へ向かっていた。一時間に一本という、離島の観光地にしては割合に多く通るバスであるため、さほど時間を気にしないでいられる点は便利であった。ただし、普通であればレンタカーでめぐるのが一般的であるため、くれぐれも私のようにバスや徒歩で陵墓をめぐるのは避けるべきである。

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慶子女王墓・遠くに大佐渡連山を望む

 「宮川」で降りれば、慶子女王墓までは徒歩でわずかだ。青々と育った稲の先に高く連なる大佐渡連山という、素晴らしいロケーションの中に慶子女王は眠っていた。墓だけがポツンとして水田に姿を表しており、中央に生える松が墓標の代わりを果たしている。墓は全体的に近年になって新しく整備された雰囲気がある。それに加えて、地元の方々による丁重な管理が行き届いているのであろう。

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慶子女王墓に設置された案内板

 慶子女王は、順徳天皇が佐渡で儲けた最初の子であった。無論、順徳天皇は佐渡に配流されるまでに、京において多数の皇子女を設けている。

 順徳天皇にはすべて合わせて七男四女に恵まれたが、慶子女王はそのうちの三女にあたり、四女である忠子女王、末男の千歳宮と母親を同じくしている。順徳天皇が佐渡で娶ったという女性が母親とされているが、現在にまで詳細な生母の記録は残されていない。

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慶子女王墓・正面

 慶子女王は嘉禄元年(1225)に生まれ、弘安九年(1286)に没した。享年は62歳。誕生するや、地頭本間治郎兵衛に預けられた。墓も所在する宮川の地に長く住み、とくに同地にある慶宮寺を在所としたらしい。順徳天皇は幾度か慶子女王のもとを訪ねており、和歌のやりとりを交わしたようだ(山田、前掲書、130頁〜131頁)。

河の瀬に秋をや残す紅葉はのうすき色なる山吹の花―順徳天皇
松あれば佐渡ヶ島なる辛崎もしかすがにこそ見まほしくけれ―慶子女王

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忠子女王墓・二宮神社の境内にある 

 次に忠子女王である。忠子女王墓は佐渡は長木に創建された二宮神社の境内に存在している。墓は全体的に劣化しており、石柵には蔓が絡まり荒れ放題となっている雑草が兆域を覆っていた。慶子女王の清潔感とは真反対に存在していよう。

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忠子女王墓・参道 

 それでも、人の手が加えられているのは容易に把握することができる。墓へと至る細い道はしっかりと踏み固められていた。夏の蝉時雨降り注ぐ杜の中にあるからか、この雰囲気は至高である。

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二宮神社境内におかれた石碑 

 忠子女王墓がある二宮神社に設置された石碑によれば、女王は順徳天皇が佐渡で儲けた二番目の娘であり、誕生は貞永元年(1232)とされている。慶子女王が生まれてからおよそ七年後のことであった。幕府によって佐渡の上野ヶ原に在所が設けられると、守屋勇四郎春虎が女王の養育係にあたった。また、忠子女王は宮川に住んでいた姉慶子女王のもとによく通ったようで、

またも見ん賤が五百機織橋の織りな忘れそ山吹の花―忠子女王

と詠んでいる。順徳天皇も、慶子女王のもとを訪ねて詠んだ歌に「山吹の花」を入れていたが、「山吹」は慶子女王の周辺を指す言葉であった(近藤、前掲書、120頁)。一人の父親と二人の姉妹は、同じ「山吹」を歌に込めながら、心を通い合わせていたのであろう。ところが、姉慶子女王が還暦を迎えるほどに長寿だった反面、忠子女王は十八歳という若さでこの世を去っている。順徳天皇の「悲劇」の崩御から七年後のことであった。

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千歳宮墓へ向かう道

 最後に、末男にして佐渡で生まれ、佐渡で死した唯一の男子である、千歳宮の墓へと参る。宮川の慶子女王墓から歩いて行ける距離である。バスを利用してもいいが、佐渡の清水で満たされた稲の草原の中を歩いて行くほう楽しいだろう。運が良ければトキに出会えるかもしれない。ここで初めて、佐渡を扱う記事でありながら、トキなる言葉を発したと思う。本記事は陵墓を主題としたものである。今後にトキは一切出てこないので、卒時ながらご了承いただきたい。

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千歳宮墓・参道

 しばらく歩けば、広い道沿いに「順徳上皇第三皇子の墓」という案内版と出会う。そのすぐ下には、参拝者を導く石橋が側溝に架かっていた。小さな石橋でありながら、なかなか重厚な造りとみえる。

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千歳宮墓 

 安心して十分に体重をかけて渡り先に進んでみると、いつもの見慣れた鳥居と石柵があった。石壇の上に石柵で兆域を囲い、鳥居であしらったいつもの陵墓の風景である…。そう思ったのは束の間。よくみると、墓に設置された二対の灯篭のうち、片方の灯籠は無残にも砕け落ちていた。加えて、かつては黄金に輝いていたであろう菊紋は錆びてその花弁を枯らしていた。

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砕け落ちた灯籠

 しかし、どうやらインターネット上にあげられている写真を見る限り、以前までは墓前に雑草が茫茫とする状況だったようである。今は千歳宮墓へ行手を阻む雑草は存在せず、心地よく墓前に進むことができる。千歳宮墓は依然として手入れが施されていた存在であった。灯籠と菊紋については宮内庁に申し付ける他ないであろう。

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菊紋が剥がれた鉄門

 千歳宮に関する情報は皆無に近いが、わずかに情報が残されている。嘉禎三年(1237)に誕生し、建長六年(1254)に薨じたようで、諡号は成島王とされる(山田、前掲書、135頁)。慶子女王十二歳、忠子女王五歳のおりであった。また、千歳宮が詠んだとされる和歌が一首伝わっている。

塚の名の梅や筑紫の種ならば木間に花の猶こもるらむ―千歳宮

 こうして、それぞれ6年ほどの間隔を経ながら、順徳天皇の皇子女は産まれていた。先述したように、三人の生母は不明とされている。佐渡への配流の際、順徳天皇に扈従した女房のうちの誰かとする説や、佐渡の現地女性とする説など諸説あるが、その詳細は謎に包まれている。

 聖武天皇によって「遠流」の地と定められて以降、明治期に流罪が廃止されるまで、数多の人々が佐渡に罪を背負ってやってきた。それを毎日のように迎えていたであろう住民にとって、「ミカド」なる存在を佐渡に迎えたことは初めてのことであり、驚きを隠せなかったに違いない。順徳天皇とその皇子女が有した特殊性は、やがて島民らによるそれらへの信仰へと繋がっていく。

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二宮神社・忠子女王が玉嶋姫大明神として祀られる

 順徳天皇自身が佐渡で残した「聖蹟」は無論のこと、佐渡で生まれた皇子女にあたっても、島民らからは貴種なる存在として信仰されていった。すなわち、3人の皇子女それぞれに神社が創建され、島の神として崇められたのである。

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二宮神社・本殿

 慶子女王の場合、在所としていた宮川の地に一宮神社(佐渡市宮川)が創建され「嶋照姫大明神」として、忠子女王の場合、現在の佐和田地区に二宮神社(同市二宮)が創建され「玉嶋姫大明神」として、千歳宮の場合、同じく三宮神社(同市三宮)が創建され「親王大明神」として、今に至るまで祀られている(山田、前掲、130頁〜135頁

おわりに

 私は再び、佐渡汽船「ときわ丸」に乗船していた。帰りこそはジェットフォイルを活用して一気に新潟港まで駆け抜けようかと考えたが、そこは学生の身分にあった選択をしたのだった。帰りも二時間半の船旅を満喫することにしよう。船酔いはもう怖くない。

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雄大なる佐渡の自然

 人は佐渡という、日本海に悠然として浮かぶこの巨大な島に、何を求めてくるのだろう。トキやたらい舟、ジオパーク、そして金山―。数多ある観光地のなかで、順徳天皇火葬塚「真野御陵」をはじめとする皇子女三人の墓は、たいして注目されていないようにみえた。「真野御陵」の門前町といえる順徳天皇が祀られている真野宮や、それに敷設する佐渡歴史資料館の周辺では、それらのみを見終えた団体客らが、足早にこの地から去ろうとするのも見かけた。彼らの頭上にはこれでもかというほど大々的に書かれた「真野御陵」という看板があったにも関わらず、である。

 ここで陵墓に参らない人々を責めてもしょうがない。そんなことは承知の上である。それぞれの嗜好する対象によって、みえている世界は異なるものだ。今回、私は佐渡においてトキのトの字もみえなかったし、またみようと努力さえしなかった。

 ただ、ひとつの主張として伝えたい思いは、佐渡にいくなら、順徳天皇とその皇子女が残した足跡をめぐるべきだ、ということである。これはなにも強制させるつもりはない。順徳天皇とその皇子女の霊とともに、そう叫ぶだけである。

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後深草天皇・順徳天皇に「順徳院」と追諡した(Wikipediaより)

 「順徳院」という「諡号」が贈られたのは、84代とされる順徳天皇より5代下ったさき、後深草天皇の代であった(山田、前掲書、286頁)。それまで、順徳天皇は一般的に「追号」の「佐渡院」と呼称されており、ここに至って生前の徳を顕彰する「諡号」が贈られたということになる。

 四条天皇の崩御に伴い、にわかに皇位継承者に有力視された順徳天皇皇子・忠成王は、結局のところ即位できず、天皇の還幸の夢も佐渡の波打ち際に消えてしまった。幕府によって悉く活路を絶たれたそのころ、順徳天皇は絶食のすえ自身の身体にできた腫れ物に焼き石をあてながら、衰弱死を図っていた(近藤、前掲、139頁)。

 「悲劇」・「つらい抑留生活」(山田、前掲書、表紙裏笠原、前掲書、212頁)など、従来より順徳天皇を表象してきた暗いイメージに、なんら解釈の変更を加えようとは思わない。まさに順徳天皇の生涯は波乱万丈でありながら、最後は「悲劇」的かつ「つらい抑留生活」を強いられている。

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佐渡の港町と並ぶ甍

 しかし、今はどうであろうか。「真野御陵」をはじめ、皇子女3人を厚く信仰し続けて来た佐渡の人々の姿を、順徳天皇は八百年にわたってみてきたに違いない。慶子女王と交わした歌にも、天皇が決して佐渡で地獄のみを味わっていたわけではないことが表れている。その他、佐渡で詠んだ多くの歌にも同じことがいえよう。承久の乱より八百年にあたる節目の年、順徳天皇は佐渡に対して何を思い、感じているだろうか。

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 順徳天皇火葬塚「真野御陵」からは、真野湾を眼下に望むことができる。おそらく海とともに写真におさまる陵墓は数少ないであろう。慶子女王墓、忠子女王墓、千歳宮墓とともに、ぜひ一度は訪れてみて欲しい。

 そんなことを感じながら、船はいよいよ両津港を離れ、日本海へと舵を漕ぎ出していた。「ときわ丸」の通ったあとには、白い波だけが残り、名残惜しそうに、佐渡の島まで続いていた。

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「ときわ丸」船尾にて

参考文献・ウェブサイト

近藤勘治郎『越後佐渡に於ける順徳天皇御聖蹟誌』(新潟県教育委員会、昭和17年
山田詩乃武『順徳天皇御製で辿る、その凛烈たる生涯』(PHPエディターズ・グループ、令和3年
・笠原英彦『歴代天皇総覧』(中央新書、2018年)
皇室事典編集委員会編『皇室事典令和版』(角川書店、2019年、巻末資料編01「歴代天皇総覧」67頁〜68頁
米田雄介監修/井筒清次編著『天皇家全系図』(河出書房新社、2019年

新潟県佐渡市公式ホームページ(2021年9月14日閲覧)
さど観光ナビ(同上)
日本経済新聞「承久の乱800年 追討令一転「武士の世」促す」2021年4月15日(2021年9月15日閲覧)

 引用にある和歌は、すべて山田氏の著書からによるものであり。写真はとくに注がなければ、すべて筆者による撮影である。
 また、佐渡での陵墓めぐりにおいて、以下のサイト・ブログを大変参考にさせていただいた。

新陵墓探訪記
城とか陵墓とか


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