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核心をついたものほど当たり前に見える


2024年6月18日(火)朝の6:00になりました。

僕はどちらかというと平凡な人間だったから、当たり前なやり方をしてみることに決めたんだ。

どうも、高倉大希です。




核心をついた取り組みが、注目を集めたとします。

するとそこには必ず、こんな声が寄せられます。


「そんなの〇〇では当たり前」

「ずっと昔から〇〇さんが同じことを言っている」


長らく教育業界に身を置いていますが、このような場面を何度見たことでしょう。

あまりにも目にするので、きっと何かしらの傾向があるあるはずだと思っています。


人間は、認識が当たり前のものとして固定化されていくと、その前提が「なぜこうなっているのか?」ということを、改めて考えることはしなくなっていきます。(中略)乱暴に言えば「頭を使わなくて済む」ようになっていくのです。

安斎勇樹、塩瀬隆之(2020)「問いのデザイン 創造的対話のファシリテーション」学芸出版社


核心をついた取り組みが、当たり前であることに違いはない。

これが、第一の仮説です。


要するに、当たり前が成立していないからそこに問題があるという考え方です。

当たり前を成立させた取り組みが、それすなわち核心をついた取り組みです。


だから、「そんなの〇〇では当たり前」で当たり前です。

「昔から〇〇さんが言っている」ことを形にしたから、注目を集めているのです。


だからその現実を受け止めることができないから、異なる意見がぶつけられることを「逆風」とか言ってしまうんですよ。別に逆風でも何でもない。考え方の違いなんて、当たり前じゃないですか。そこから合意をめざすことは確かに簡単ではないけれど、慣れればそう難しいことではない。

工藤勇一、鴻上尚史(2022)「学校ってなんだ!日本の教育はなぜ息苦しいのか」講談社


核心をついた取り組みに注目が集まっている状況が、悔しくて仕方がない。

これが、第二の仮説です。


要するに、粗探しをしないと気が済まない人が一定数いるという考え方です。

当たり前だとツッコまれる取り組みが、それすなわち核心をついた取り組みです。


悔しいからこそ、「そんなの〇〇では当たり前」だと言いたくなってしまいす。

「昔から〇〇さんが言っている」と、知識でマウントをとるしか手がないのです。


僕のイノベーションというのは、「そのバイアスを見つけて破壊すればいい」ということに尽きます。それを発見した瞬間に、コンセプト・ビルディングに対するビビリが消えました。

石川善樹(2020)「考え続ける力」筑摩書房


いずれの仮説も、あながち間違いではないような気がしています。

そもそもを言えば、当たり前で何が悪いのだという話です。


核心をついたものほど、当たり前に見えます。

当たり前に見えすぎて、誰からも気づかれないまであります。


おそらく、そんな当たり前の更新でこの世界は回っています。

ここまでつらつらと書いてきたことも、至って当たり前なことばかりです。






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