「愛」と「好き」
先週から降り続いた雪、今日は青空に映えています。
この辺りはたぶん100センチ超えですね。
毎日雪かき、多い日は1日に3回。。。
積み上がった雪は160センチ超え。。。
少々融けても毎日朝になったら新雪が20センチくらいリセットしてくれますからなかなか減りません。
山陰育ちですから雪には免疫があるとはいえ、これだけの雪に囲まれて過ごすのは人生初かも。
最近、「好き」と「愛」についてお話しする機会が重なりました。
ここではよく話していることですが、簡単にいえば
見返りを求めない気持ちが「愛」
見返りを求める気持ちが「好き」
「愛」は無条件に対称を大切に思う気持ち
「好き」は特定の条件が満たされることを前提とした気持ち
「愛」は与え続けることができる
「好き」は求め続けてしまうもの
「愛」は欲求が満たされなくても消えることはないけれど
「好き」は要求が満たされないと「冷める」または「嫌い」になる可能性もある
そんな感じでしょうか。
だからこの二つは似ているようで全く違う物なんですね。
「愛」とか「自信」とか「自尊心」とか、人が生きていくのに大切なものはすべて「自分以外」から与えられる物だと思います。
それらは教わるものや気付かされるもの、またはいつの間にか植え付けられているものなのではないでしょうか。
人は人によって育てられるから、関わる人や環境って本当に影響力がありますよね。
受け取る側から与える側に変わることでまた次の段階の幸せを感じることができると思います。
「幸せにしてほしい」と願うよりも
「幸せにしてあげたい」と思い合うことが
「愛し合う」ということなのでしょう。
「両思い」「愛し合う」という状態は、片思いと片思いが結ばれている状態なんだろうと思います。
どちらかが相手に乗っかれば、そのバランスは崩れてしまう。
自分よりも相手を大切に思う気持ちがあれば
お互いに幸せでいられると思います。
「愛」とは無条件に対象を大切に思う気持ち
「好き」というのは条件付きの気持ち
「好き」の延長線上に「愛」があるわけでなく
全くの別もの
「愛」には「好き」も含まれるが
「好き」には「愛」は含まれない
「好き」は自分にとってその対象から得たい幸福感があり、それが条件になる
「愛」はまず無条件に対象を大切に愛おしいものとしている
その「無条件に愛おしいもの」から幸福感を得ることができれば無常の喜びとなる
それは本来求めていなかったものかもしれない
求めることがおこがましいと思っていたのかもしれない
得られるはずもないと諦めていたものかもしれない
だから「愛」に含まれる「好き」は単体の「好き」よりも幸福度が高いのかもしれない。
「好き」の対象から幸福感が得られなかった場合はさまざまな負の感情が湧き上がってくるかもしれないが
「愛」の対象にはそもそも期待していないので清々しく諦めがつく
そうしてみると「好き」の対象は私を幸せにするために存在していると位置づけ
「愛」の対象は存在そのものを幸福としているように感じる
「好き」は自分を幸せにするために存在していると思えばその対象を見下していることにもなりかねない
そこは気をつけておきたいところ
その対象のおかげで幸福感、喜びを得られるのだということを忘れてしまっては本末転倒になってしまう
多くのものを「愛」の対象として受け止めることができる人ほど自然と感謝と尊敬の気持ちを持ち続け
幸福感に満たされていることでしょう。
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