なばちた野絵

ある美術館の学芸員をしていますが、このnoteは仕事とは別の私見と書く練習の場です。あ…

なばちた野絵

ある美術館の学芸員をしていますが、このnoteは仕事とは別の私見と書く練習の場です。あしからず。

最近の記事

中平卓馬 火|氾濫

「なぜ、植物図鑑か」を15年近く愛読している。たしか写美のナディフで、てっきり新即物主義の本かと思って手に取り、違ったけどまぁいっかぐらいのノリで買ったものの、あまりの難解さに、はじめは読んでは閉じるの繰り返しだった。折に触れて気になって読み続けて、美術館に関わるようになると、中平の言説に改めて驚き、深く読むようになった。 中平は写真家というより、批評家に近いと思う。あるいは中平の写真は批評と不即不離の関係にあると思う。常にオモテの美術史に中指を立てるような、中平の鋭利な批

    • 追悼

      桑山忠明が今年の夏にお亡くなりになられていたことを、12月に知った。 ニューヨークに渡り現代アートの世界で活躍した日本人として、河原温に並ぶ大巨頭だ。 2014年頃だっただろうか。館にある桑山氏の作品を調べ、館蔵品図録に載せることにした。氏の作品群では珍しい、作品に筆跡が強く残る中期のものだ。絵画と彫刻の両面を持つ、曖昧な物体とでもいえるようなそれは、手軽に展示できるようなものではない。 少しでもヒントになればと、桑山氏が来日する際は、展示やトークイベントを積極的に聞きに

      • Heterotrophs

        (個展を観に行ったあとの興奮して眠れない頭で…) 熊本県荒尾市のair motomotoで開催中の畑直幸氏の個展を観た。この写真家の約10年の蓄積のひとつの達成を体感できる貴重な展示であった。生物学や光学理論も引きながら「カメラという機械を使って、人間について考えている」という畑氏の代表作を挙げるなら、自宅の周囲の森林を灰で覆い、そこに色鮮やかなライトを当てて撮影するシリーズ「Untitled color photographs」が思い浮かぶ。可視光線の下でこそ生じる色彩と

        • 竹川快の絵について

          「いくつかの次元を行き来する自分と、それに対するちょっとしたコメディ」。自らの創作をそう語る竹川の作品群は「イメージのユートピア」というにふさわしい。人体や顔、ビルや星座、地形、文字…。湧き出すイメージを画面にマッピングし、意図と偶然の間を揺れ動く主体を俯瞰して自らの手と戯れる。 今から一世紀ほど前、シュルレアリスムの画家たちは、意識と無意識の危うい境に立ち、具体と抽象を横断するイメージを描き出した。ドローイングを主とする竹川の制作は、ダリ、マッソン、マッタ、さらにはヴォル

          点と波

          11~12月はあまりに多くの展示やイベントがあったので、間が空いてしまいました。大分でこれほどイベントが多いのは、コロナ以来久しぶりかもしれません。職場も大慌ての数か月でしたが、担当回のない私は呑気に視察旅行などさせてもらいました。 11月に行った豊田市美術館の「ゲルハルト・リヒター」展と国立国際美術館×中之島美術館の「具体」展の二件は、うまく言葉にしづらくまだ反芻しています。 リヒターに関しては、作品、量、空間、展示の全てが良すぎるため、ほとんど言うことがありません。数

          「民藝」はたのしい。なぜか。

          福岡に行った理由のもう一つは、この本を書かれた工藝風向の高木さんにお会いするため。お尋ねしたいことがあり、勇気を出してメッセージしたら、快くお時間を割いてくださった。話した内容は伏せるが、最後にこの本を買い、一週間読みふけった。民藝と柳宗悦をめぐる問いに答えてくれる、すばらしい一冊だ。 わかりやすい民藝 | D&DEPARTMENT (d-department.com) 迂遠になるが、15年以上前の私に戻って、この本と「民藝」への所感を書きたい。 私の父と母は絵を描くので

          「民藝」はたのしい。なぜか。

          「藤野一友と岡上淑子」展

          この展覧会を観る前は体調を万全にしていった方がいい。 藤井一友の絵がこれほど強いものとは知らなかった。1950年代後半から1960年代前半。日本の美術界がアンフォルメルや具体や、ネオダダやアンデパンダンに沸いていた頃、藤野は密室でひたすら狂気にも似た幻視的な世界を描き続けていた。乳房を過度に強調した裸婦、ほどける人体、あり得ない景色の融合、キリスト教神話…。最初のコーナーだけでも目眩がするようだった。 藤野の作品は本の装丁や、印刷されたもの、あるいはインターネット上で目に

          「藤野一友と岡上淑子」展

          設楽知昭氏を偲ぶ

          画家の設楽知昭さんがお亡くなりになられていたことを知らなかった。12月末まで愛知県美術館で常設展内で追悼展がされているという。豊田市美術館と名古屋市美術館に行っていたのに見逃してしまった。後悔。 設楽さんの絵画は美術雑誌などでかなり前から知っていたが、具体的に身近に感じたのは故・利岡誠夫さんが寄贈してくれた現代アートのコレクションに2点の絵画があり、企画展のチラシ掲載のために連絡をとった時だ。寒い季節なのに、わざわざ愛知から観に来てくださった。画集や絵ハガキや論文などをくだ

          設楽知昭氏を偲ぶ

          Olectronica 《Sculptures on the floor》

          「ポテトチップスを食べていて最後の一枚になった時、突然ハッとし、それまでのポテチが全て無と等しくなり、自分だけが残る。」 例えばそんなことが創作のアイデアになる、とOlectronicaの児玉氏が語った。(*) なるほど。これが今のオレクだ、と思った。 つくる、とはどういうことか。どこから表現が来るのか。 彼らがいかに真剣にこの問いと向かい合っているかは、作品の素材感やマチエールのこなれた印象に包まれて、一見伝わりづらいのだが、私は静かに問いの圧が高まっているのを感じている

          Olectronica 《Sculptures on the floor》

          三枝愛〈庭のほつれ|なばに祈る〉

          ドマコモンズで始まった三枝愛の〈庭のほつれ|なばに祈る〉はさまざまなメッセージを持つ展覧会だった。埼玉の椎茸栽培を営む家に生まれた三枝は、東日本大震災を境に東北からの原木の供給が滞り、実家の生業が危機に瀕したこときっかけに、椎茸の原木そのものを主たる素材として、失われるもの・こと・人への思考をめぐるインスタレーションを行ってきた。その表現は、椎茸の原木とともに旅(レジデンスなど)をし各地の写真館で自らと原木の写真を撮る、椎茸の胞子が描くスポアプリント、原木やおがくずを用いたイ

          三枝愛〈庭のほつれ|なばに祈る〉