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Heterotrophs

(個展を観に行ったあとの興奮して眠れない頭で…)

熊本県荒尾市のair motomotoで開催中の畑直幸氏の個展を観た。この写真家の約10年の蓄積のひとつの達成を体感できる貴重な展示であった。生物学や光学理論も引きながら「カメラという機械を使って、人間について考えている」という畑氏の代表作を挙げるなら、自宅の周囲の森林を灰で覆い、そこに色鮮やかなライトを当てて撮影するシリーズ「Untitled color photographs」が思い浮かぶ。可視光線の下でこそ生じる色彩という現象について、グレーにフォーマットした草木に色彩を当て、夜間太陽光の無い中で撮影することで問い直す独自の試みだ。そこから発展したのは「深度合成」技術を用いて、撮られた世界を解体して再構築するシリーズ(/g/b//u, bulk)や、その処理を留保して再びものの表面をなぞる試み(光と画)などだ。いずれも、我々の意志や選択とはおかまいなしに働き続ける目と脳の、バグを伴う曖昧な側面を了解した上で、写真の可能性を問うている。

写真は、対象の選択と演出、「カメラ」という機械、「現像」あるいは「出力」という操作、など二重三重にも非自然を通過する技法である。それはphotographの語源の通り、光がなくては成立しない、「光」の「画」が生む「新しい自然」である。今回展示された「深度合成」を駆使して、昆虫の姿と草むらを捉え、アルミニウムにUVプリントで焼き付けた作品は、過去の色彩のある作品とは異なる美しさを放っていた。もちろん、打ちっぱなしのコンクリートの壁、天井から吊り下げられた照明など、空間との共鳴があってこそだが、作品単体としての強さを感じた。なぜだろう。

答えを探る前に、一つの回想を述べたい。ヤン・ファン・エイクの絵に《ファン・デル・パーレの聖母子》という絵がある。ファン・エイクの写実の極致である《ゲント祭壇画》や《アルノルフィー二夫妻像》に連なる名作である。登場人物の衣服や宝飾品、顔の皺やこめかみに走る青筋、室内の装飾や窓ガラスとその先の屋外の光に至るまで、隅々まで精緻に描かれている。あらゆる対象が信じがたいほどのディープフォーカスで描かれている。いわば写真の「深度合成」を、生身の人間の目と手が成しえた究極の状態がここにある。ところが、画中には写実に目を奪われる我々を茶化す、とんでもない仕掛けが含まれている。画面中央下部、聖母マリアが鎮座する段に敷かれた絨毯は、一見ふっくらと柔らかに描かれているが、よく見ると稚拙で気の抜けた筆触で描かれている。一筆一筆の運びが目でなぞれるほど、頼りなげに描かれているのだ。全体からこの部分だけが大きく転調しているため、その落差が相対的に「絨毯らしさ」を生む。ブリュージュのグローニング美術館で実作品を観たことは、絵画とイリュージョンの関係に留まらない、「見る」行為を問い、芸術的操作を講じる、とはどういうことなのか、を考えさせられた体験だった。大げさに聞こえるかもしれないが、畑氏の作品にはそのような壮大な問いの名残を感じる。

写真という技術は、人間の写実への願望を一挙に叶えてしまったが故に、絵とイリュージョンの関係を大きく変え、印象派をはじめ新たな絵画運動を刺激したことは周知の事実だ。さらにデジタル写真の加工技術の進歩により、人間の想像を遥かに超えるイメージを産み出すことが可能となった。「深度合成」は昆虫写真などにみる、ピントの合う複数の写真を合成することで細部まで極めて「リアル」な写真を制作する方法で、ファン・エイクの神の手はコンピュータにとって代わられた。もう「光で描く」などという写真の起源に戻るような呑気なやり方は古いかのようだ。

しかしまだ「描く」写真の可能性は残っていることを気づかされた。個展会場の写真作品は、どこか「絵」的に見えた。水墨、というとかなり語弊がある。抽象表現主義、でもない。畑氏の初期作品の、グレーに塗ったオブジェクトをカラーで現像する「Samber」というシリーズは私は個人的に好きなのだが、「Heterotrophs」は同じモノクロでもそれを反転して、ピグメントを加えるのではなく抜いていくような感覚がある。「深度合成」により夥しい数のレイヤーからいくつかを選択して組み合わせ、ピントとソフトフォーカスの入り混じったイメージ、という点は目新しくないかもしれないが、つややかな葉の先と、もやもやとした草の重なりには、水を含んだ紙にピグメントが溶けて、色が薄くなっていくような広がりを、虫か枝か分からない突起は迷いのある線のような効果を感じた。そして曖昧な全体でありながら、一作一作が自律した一つの祭壇画のような神々しさを放っていた。

「Heterotrophs」(=従属栄養生物)とは光なしには存在し得ない「写真」の謂いであり、「光」を栄養(メディウム)として描かれる新しい絵なのかもしれない。