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点と波

11~12月はあまりに多くの展示やイベントがあったので、間が空いてしまいました。大分でこれほどイベントが多いのは、コロナ以来久しぶりかもしれません。職場も大慌ての数か月でしたが、担当回のない私は呑気に視察旅行などさせてもらいました。

11月に行った豊田市美術館の「ゲルハルト・リヒター」展と国立国際美術館×中之島美術館の「具体」展の二件は、うまく言葉にしづらくまだ反芻しています。

リヒターに関しては、作品、量、空間、展示の全てが良すぎるため、ほとんど言うことがありません。数多く見ることでリヒターが何を問うているのか、がよく分かります。リヒターについては言葉が尽くされていますが、百聞は一見に如かず。読むより多く見れば、この画家の問いと答えがすとんと入ってきます。

リヒターに関してというより、リヒターから派生して考えたくなることがふくらみました。

リヒターが幼い頃におじさん(か父親?)が持っていたカメラを通して表現に親しんだこと、はリヒターの絵画を理解する上でも重要であるだけでなく、人間の目のラーニング、単眼・複眼の問題を考えさせられます。

以前、弊館で開催した国立国際美術館コレクション展の折に、国立民族学博物館の森田恒之先生をお呼びしたところ、会場で作品を見ながら先生が何気なく語られた、セザンヌの絵とスマホ脳の話がふと思い出されました。(学術的な根拠は分かりませんのであしからず。)

セザンヌの絵画は両目で見ていると「見づらい」と感じることがあります。ところが、森田先生に教えていただいたように片目で見ると急に奥行きとバランスが取れてみえます。マジックです。セザンヌはカメラが導入された時代です。真実を捉えるために目をどう使ってどう描くのか。20世紀に大きな課題を投げつけました。

一方、2008年作のミヒャエル・ボレマンスの絵の前で森田先生は立ち止まりました。ボレマンスは写真をベースにして描くこともあります。その写真はデジタル写真であることも多々あるでしょう。スマホという便利なものを手にして以来、私たちは世界を片目で見るのと相当するぐらいの狭い視野で見ている、そのために脳はごく狭い部分で働く癖がついている。今の美大生は目の前のモデルや静物をうまく描けず、写真から描く方が得意で、ボレマンスはわざと近いことをしているな、とおっしゃられるのです。(もちろんボレマンスの場合、独特の幻想と絶妙な筆触があるために唯一無二なのですが。)

二つの目で見ることの裏に一つの目(=カメラアイ)の役割があり、絵に活用できることに気づいていた(であろう)セザンヌと、二つの目で物を見られなくなって、一つの目を活用する方法を模索する現代。

その間にリヒターがいます。ゲルハルト・リヒター展では、一巡目で場を堪能し、二巡目で作品に近づいたり離れたり、目をつむって開いたりと、実物を前に自分の目を遊ばせてみることをおすすめします。筆と色を追う目が、どんどんゆらゆらしてゆき、波のように不定形になっていく時、ピタっと止まるように感じられます。

カメラの機能と目の関係を考える時、大分の山香町を拠点に写真表現を続ける畑直幸さんの活動が気になります。去る12月3日から11日まで、畑さんが主宰する「現実」の展覧会がありました。2018年に始まり、月に1日だけ(しかも月曜日)別府駅の高架下の古き良き商店街の一角で開かれる展覧会。毎回作家の面々も変わり、緩やかな連帯がゆくりなく続けられています。なかなか観に行けず後ろめたさがありましたが、今回7名の現代作家の方々の作品が一週間ほど見ることができたのは幸いでした。

「カメラという機械を使って、人間について考えている。」*という畑さん。自然豊かな山香町の森林を灰かぶりにして、夜な夜な鮮やかなライトを当てて写真を撮る、というユニークな手法。色彩の認識は可視光線の下でこそ生じる現象であり、目と脳は我々の意志や選択とはおかまいなしに働き続ける一つの機能でしかない、と了解した上で、写真はどう見る者に働きかけるのか、を探っているのではないかと思います。

極端に言えば、画面に生じる色なんてどうでもよいのかもしれません。セザンヌもリヒターも案外そうなのではないでしょうか。色と構成が先行している、とは思えません。目の実験と、目に対する問いかけが、作品にはじまりにあるのだと思います。

美術史ではない視点で作品を見ると、展覧会を作る時にもっと作家の探究に寄り添って考えなければならない、と自戒してしまいます。

*現実47 会場配布物より
アートスペース 現実 毎月第4月曜展示(@genjitsu_art) • Instagram写真と動画