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三枝愛〈庭のほつれ|なばに祈る〉

ドマコモンズで始まった三枝愛の〈庭のほつれ|なばに祈る〉はさまざまなメッセージを持つ展覧会だった。埼玉の椎茸栽培を営む家に生まれた三枝は、東日本大震災を境に東北からの原木の供給が滞り、実家の生業が危機に瀕したこときっかけに、椎茸の原木そのものを主たる素材として、失われるもの・こと・人への思考をめぐるインスタレーションを行ってきた。その表現は、椎茸の原木とともに旅(レジデンスなど)をし各地の写真館で自らと原木の写真を撮る、椎茸の胞子が描くスポアプリント、原木やおがくずを用いたインスタレーションなどである。三枝の作品については作家本人のホームページや様々な媒体で紹介されているのでここでは割愛し、別府での展示に際し、企画者の一人である島貫泰介氏と、山出淳也氏、国東の椎茸農家の園田豊稔氏の4名で行われたトークイベント「しいたけサミット」に参加した感想を述べたい。

ざっくばらんな感想から。
まず率直に、三枝が出自にまつわる素材やモティーフを主に創作を続けていることに尊さを感じた。自らの記憶と体内に染み付いた物事を創作に用いることはたやすいことではない。東京藝術大学大学院を出て、修復の仕事にも携わる作家が高い知識と技術を身に付けているからこそ、多様な手法が可能なのだろう。

また、椎茸栽培の仕組みについてあまりに無知だった私は、原木を山から山へ運ぶ重労働や、繊細で手間のかかるほだ木の管理などに驚いた。椎茸農家の園田氏は国東半島芸術祭で椎茸の原木を運ぶための索動技術を応用してアンソニー・ゴームリーの作品設置を手伝った方だが、彼もまた自らの「作品」である椎茸を慈しみ、絶えず温かなまなざしを向けている。座談会では二人のアーティストが並んでいるように見えた。

ここからは理屈めいた私見である。
話を聞く中で、椎茸の原木が栽培地ではなく、遠く別の地方から運ばれてくることがある、という点が特に気にかかった。三枝の実家なら東北の木、大分は県内のクヌギの場合もあれば、そうでないこともあるだろう。伐採後ある程度の時間の経った、半死状態のものが養分となって、2~3年役目を務める。役目を終えたら木チップや炭になり、別の役割を果たす。

飛躍しすぎかもしれないが、この原木の運命はどことなく三枝のように移動を伴う表現者と重なってみえた。三枝は原木とともにパフォーマンスを行い、展覧会やレジデンスの折には各地の写真館で原木と記念写真を撮る。三枝の写真からは、行為の記録としてのコンセプチュアルな意図や自己陶酔的な雰囲気はあまり感じられない。自らの在り方と原木が符合している、そんな風にこちらに語りかける。

原木のアナロジーは、私の中でさらに広がった。椎茸栽培が合理化される以前、胞子付着が運任せであった時代に適した土地を求めて移動し、新たな地に栽培法を伝授していく茸山師(なばし)と呼ばれた椎茸栽培の専門集団の存在も、一つの循環系に留まりつつ動いてゆく原木の姿とも重なった。

悶々と「しいたけサミット」を反芻していると、会場で美味しそうに見えた椎茸も、ついに帰りのスーパーで手が伸びなくなった。椎茸、されど椎茸。

時間を置き、改めて、全く違う方向からも考えた。
中原祐介があるエッセイで、ジョージ・クブラーの「The Shape of Time」の一節を引用してこう書いている。「人間のつくりだしてきた一切のものを芸術品とみなしてみよう」というクブラーのことばに対し、「実用性と非実用性を固定した融通のきかない観念としてとらえずに、それらを可変的で流動的なものとして眺める視点」が現代美術を読み解くカギである、と。美術が一つのジャンルとして自律する20世紀の美術は長い人類の歴史の特異な点に過ぎず、人間の表現と生活はずっと混ざりあってきたし、人工と自然も限りなく近いもの同士だった。「しいたけサミット」に気づかされるのは、アートは農業や林業その他の第一次産業と手をつなぐことができるし、創作や人為の外にある「使える」(生きている)ものと「使えない」(死んでいる)ものが相互に寄り添ってある世界の方からヒントが降りてきて、表現を促す。

美術館を捨てよ、野に出よう。
椎茸からのメッセージである。