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初期の中村文則が描いていた当事者性

 

「私」ばかりの中村文則の小説


 ふつう、「私は、私は、私は」という風に自分の話しかしない人は煙たがられるし、小説にして読んでいても面白くない。延々と続く内的独白は読んでいて読者が辛い。殻にばかり籠もっていないで、きちんと他人とのあいだに対話を成立させましょう、というのが小説の執筆法における常識である。異議なし。モノローグからディアローグへ、だ。

 しかし何事にも例外はある。初期の中村文則の小説は自分の内面について思い詰める話ばかりだが、なぜかとっても面白い。孤児院で育った孤独な青年が、さらに深く孤独な嗜癖にのめりこんでいく小説群だ。救いがなく、物語らしい転調もあまりない。パラグラフの書き出しは大抵「私は……」という独白から始まって、次の章が始まっても「私は……」という感じが続く。でも妙に真に迫った感じがあって読者としては惹かれてしまう。

 初期の中村文則作品には、ほぼ「私」しかいない。心の支えというものがあったとしても、それは無機物だったり(銃)、死んだ恋人の指だったり(遮光)、痛みの果てにやって来る観念(土の中の子供)だったりする。

 大学の学友が家にやって来ても、咳をして風邪を引いているふりをし追い出そうとし、死んだ恋人の指を愛でる時間に執着する「遮光」のシーン。あるいは、深刻な血液の病に侵され死に近づいていくなかで、労わる医師の言葉を拒絶する「悪意の手記」のシーンなどを読むと、主人公の「私」は、他人を追い出して自分だけの時間を確保しようとしているのがわかる。でも自分専用の時間・場所を確保しても、そこには人生の実益になるものはなにもない。もっと暗い闇が広がっているだけだ。

 実は最近、あの書き方が一定数の読者を鼓舞し、励ましてきたのだろうな、と思っている。現実に「私の人生の登場人物は私しかいない」という人はたくさんいて、その孤独を表現する術が限られているとも思う。僕も含めて、そういった読者に中村文則は孤独の当事者性は、実は、小説になると証明してくれたのではないか。
 
 では「当事者性」とはどういうことだろうか。そして、中村文則の描く当事者性だけが、なぜこんなにスリリングなのだろうか。

 その為には、まったく逆の、一般的なエンタメ・ミステリー小説の構造を語りたいと思う。ミステリー小説には「私」のことばかり語るページはない。そんな対極を語れば、おのずともう片方側の「私」の様相が浮かび上がってくると思う。少し遠回りになるけれど、もしもよかったらお付き合いください。

 

「他者」ばかり登場するミステリー小説


 この数か月、大好きなミステリー小説をたくさん読んでいる。そこには実に多くの他者が登場する。例えばある街で不可解な殺人事件が起こり、主人公の探偵や刑事は捜査に赴く。次々と事件の真相が明らかになっていくが、それはみんな他者の証言や行動の形をとって現れる。アリバイのない怪しい人物とか、被害者と不倫関係にあった人物とか、殺害方法について研究している変態的な人物とか、とにかくいろんな人が出てきて、そのバラエティが読んでいて楽しい。

 しかし、主人公にとって彼らはあくまで他者であって、彼らの話は飲み込めるようになるまで時間がかかる。他者は嘘を吐いているかも知れない。探偵や刑事を信用していないかも知れない。あるいは、ヒントをたくさん喋っていても、こちらの理解が追い付いていないかも知れない。

 主人公の探偵や刑事も、事件捜査には第三者として参加しているわけだから、他の人物にとって他者である。当たり前のことだけれど、他者の事件の詳細だから外に出ていって、調べないと何もわからない。他者をめぐる物語だ。監視カメラの映像を見たり、聞き込みをしたり、戸籍謄本や住民基本台帳の名簿を調べたり。そうして他者について探る。だから探偵や刑事は頑張って他者と関わり、その後に自分の内面を深めていくしかない。

 彼らは大半の場合において事件の当事者ではない。当事者の声は事件が起きた時点で掻き消されている。死んでしまったり、失踪していたりする。何も語れない当事者を事件の中心にして、周囲を他者だけがぐるぐる行動しているというのがミステリー小説の構造のひとつになっているのではないかと思う。

中村文則の描いた当事者性とは、「2つの見えないものに引き裂かれる」ということ

 そこで出番が来る中村文則の描いてきた「私」である。私は当事者であり、事件の加害者あるいは被害者である。ミステリー小説ならば最後の真相として登場してくるような当事者の生々しい声が、序盤から開陳される。彼が実際に人を殺した後や、死にかけている際に「私は……」と苦悶を綴るとき、そこには確かに当事者の生々しい質感があって、読者に迫ってくる。それをとりあえず「当事者性」と呼びたい。当事者とは、加害者か被害者かのどちらかである、ということなのだ。

「悪意の手記」では、致死率80%の血液の病に侵され、ホスピスのベッドで寝たきりになりながら世界を呪う少年の独白が綴られている。アメリカの医師が訪問に来て、神に祈ることの大切さを説く。しかし少年は唾棄するように、「そうやって祈ってきた人間を、神は全員見捨てたんですよね?」と逆に訴える。むしろ少年にこちら側読者が説教されているみたいで、けっこう辛いのだけど、この少年の当事者性を無視してはならないと思うだけの説得力がある。

 なぜ、こうも彼の孤独な呪詛はスリリングなのか?一言で言うと、二つの価値観が彼の内で対立し、互いを裁き合っているからではないか?

 少年にとって世界には自分しかおらず、付き合いのあるものといったら欺瞞だらけの「神」かもうすぐやって来る自分の「死」だけで、その二つのあいだを往復しながら、ひたすら疲弊して、神を呪い堕落していく。少年は、自分の思いを延々と吐き出すだけではなく2つの価値観の相克について語っていたのだ。「神」も「死」も、眼には見えない。手で触れられもしない。しかし少年にとっては巨大な現実だ。狭いベッドの上で、身体中に紫色の斑点をつくりながら悶え苦しむ姿に、エンタメ的な「展開」はない。もちろんアメリカの医師という他者は登場しているのだが、少年は、医師を通してもっと広い価値観と対峙しているのであり、「神」と「死」という二つの価値観の綱引きで、どちらが勝つか、どちらがどちらを裁くかという審問が繰り広げられているのは、スリリングだ。

 二つの価値観の相克と僕は書いたが、もしも自分の小説を書くときに応用するとしたら、この2つはなんでもいい。「神と悪魔」でもいいし、「ITの理想と泥臭い現実」でもいいし、「裕福と貧困」でもいい。その二つのあいだに結集する矛盾を、一人の人物が全身で抱え込み、考え抜いたときに当事者性は現れるのではないか。

 矛盾の間を揺れ動く小説はたくさんあるが、中村文則の描いてきた主人公の特徴として、価値観があまりに巨大で目に見えないこと、その葛藤の結果、主人公が孤独に自壊していくことは挙げられるのだろうと思う。

 一人の人間の頭のなかでこれだけ絶望が語れている以上、少年は世界のひとつのモデルであり、こう言ってよければ、「当事者性」がある。



蛇足かも知れない補足


 ハードパンチの連続に読者は打ちのめされ、憂鬱になりながらもページを捲る。深刻な人間像に暗い気持ちになっていく。ここまで人が自分で自分を追い詰める話を書くのも、読むのも、ある種のマゾヒズムかも知れない。

 しかし、いくつかの初期著作「何もかも憂鬱な夜に」や「土の中の子供」のラストでは主人公に救いの予兆がある。具体的にはネタバレなので話せないが、そこには確かに著者の人間性の信頼があり、震えるような再生への祈りが垣間見える。主人公は自分の置かれている現実を眺めまわして、そこがとりあえず安全なのを認めて一息つく。良かった。それからささやかだけれど今よりはマトモな人生に向かって進み始める。

 最後に主人公が救われる。色々あったけど、良かったね。

 というのは、事件を解決し一仕事終えた刑事に訪れるのと、中村文則作品の主人公に訪れるのとでは破格にインパクトが違う。当事者が救われることなのだ。孤児院で育ち、人を殺すだの死ぬだのといった剣呑な価値観でボロボロになっていた主人公が再生するというのは、いちばん苦しんでいた人に光が射すということに他ならない。




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