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「もう、この関係やめない?」

2023年2月22日
わたしたち夫婦は離婚を決めた

その言葉に、彼は一言

「ああ、いいぞ」

その時、わたしの心の中のもやもやは消えていった

ちょうどその日は、7回目の結婚記念日だった

あれから今日で1年が経つ

離婚を切り出すまでの3ヶ月間は、わたしの更年期症状の中でも最悪な状態だった

「 よく、倒れずに頑張ってこれましたね… 」と、婦人科医が驚いていた

離婚までの3ヶ月間、わたしがもつ忍耐と精神力で乗り越えてきたのだ

この忍耐と精神力は、夫婦生活6年間で彼が教えてくれたものだ

皮肉なもので、この教えが離婚に役立つとは、彼も思っていなかっただろうが

実は、パートナーの理解で更年期の症状の強弱は決まるのだ

わたしはこの経験があったからこそ、自分と向き合う時間をつくることができた😌

『 更年期 = 自分と向き合う期間 』

2023年2月22日から本日、2024年2月22日までのわたしの更年期症状(人生)について綴りたいと思う🤔



▶︎フレイルから椎間板ヘルニアへ


2022年11月、わたしたち夫婦は鹿児島の親族の結婚式に参加するために、1週間鹿児島の実家にいた

その時のわたしの悩みごとは、彼が料理を一切食べないことだった

ろくな食事も摂らず、いつもビールでほとんど夕飯を済ませていた
作った料理は一切食べず、百貨店の惣菜なら食べる

味付けが悪いのかと尋ねても、いやそんなことはないといつも言う

何が食べたいのか尋ねても、別にとしか答えない

コロナ禍でずっと一緒に家の中にいたため、段々互いに窮屈になってきていたのかもしれない

11月の鹿児島行きは、互いにとって久しぶりの旅行気分だったが、コロナ禍の3年間、ろくな運動もせず、ほぼ家の中で引きこもり生活を送っていた彼のカラダは段々とおかしくなっていった

職業病の椎間板ヘルニアを発症し、3ヶ月間整形外科で治療とリハビリを続けたが、一向に回復しない

手術を希望したのだが、通院していた病院からは「リハビリで筋肉をきちんとつけること」と言われ、リハビリを頑張ったが、一向に良くならないため、途中でリハビリをやめてしまった

そのうち、歩くことも困難になっていく

玄関からエレベーターで1階に降り、エントランスを出た時点でもう歩くのがきついと、戻ってくるのだ

その度に、わたしは彼の腰をマッサージさせられる
この調子で本当に鹿児島に行けるのか🤔

ろくな飯も食わない
ビールしか飲まない
運動は一切しない
口数が少なくなっていく

この症状は、アル中かと思っていたが、そこにフレイルの症状も重なっているのではないかと考えるようになった

すでにこの時、彼は「鬱」だったのではないかと思う


▶︎鹿児島での義理母の一言がわたしの「更年期うつ」のはじまり


この状況の相談をできる相手は、唯一義理母だけだった

鹿児島の実家に1週間滞在し、その1週間は義理母と義理父の面倒をみていた
というより、長男の嫁だからみるのが当たり前だ

と言わんばかりの状況

彼は結婚式以外の日は、中学・高校の同級生と久しぶりの再会で、飲み歩く日々

そんな義理の両親にわたしは、関東で彼に普段食べさせている料理を作り、振る舞ったところ、ものすごく喜んでくれた

「こんなに上手に料理を作ってくれるお嫁さん、今までにいなかったわ」

と2人とも喜んでくれたのだが🤔

毎日一生懸命作っても、食べてくれないという相談をしたところ、義理母が一言

「それは、あなたの教育が悪いからよ」

「ちゃんと教育すれば、食べるようになるから、教育しなさい。わたしたちは早くあなたに面倒見てもらいたいって思っているから、まずは旦那を教育することね」

鹿児島の味付けに変えたら、彼は食べてくれるのかもしれない

そう思っていたわたしは義理母に、鹿児島の料理(実家の料理)を教えて欲しいとお願いした

すると義理母は

「わたしは料理が作れないのよ、だからあなたが自分で味付けを調べて作ればいい」

相談しても、結局協力もしてくれないのだと分かった瞬間だった

そして、この言葉がキッカケでわたしは「更年期うつ」の症状が出始めてしまったのだ

義理母にとっては、ほんの些細な言葉だったかもしれない

だが、わたしにとっては真剣に悩んでいた

筋力が落ち、椎間板ヘルニアでカラダが思うように動かなくなった彼のために、なんとかしなければと、悩み悩んで、頼りの義理母の一言に

わたしはこの家にいたら、自分の心が壊れてしまう

この家から早く逃げたいと思うようになっていく

そんな義理母も実は「更年期うつ」だった

▶︎銀座仲間の一言で、離婚を決意する


「クリスマスパーティーを自宅で開くから、遊びに来ないか?」

久しぶりに銀座仲間からの誘いがあった

そのパーティーに行くと、昔の顔馴染みの銀座仲間が数名集っていた

親しくしている仲間が10月に離婚したという話を聞いた

「離婚して、スッキリした」という、その言葉を聞いて、羨ましいと思ってしまった

仲間の1人がわたしに、旦那は元気か?と尋ねてきた

実は今、こんな悩みを抱えていると相談したところ

「もう、あさ美ちゃんの心は決まっているんでしょ?」

「自分に嘘をついてまで、辛い思いをするまで一緒にいる相手なのか?」

そう言われて、わたしは決意する

自分に嘘をついてまで、更年期の症状を悪化させながら耐える必要があるのかと

そこから、離婚へのカウントダウンがはじまったのだ

彼のと結婚に関しては、友人知人銀座仲間の9割が反対していた

6年間よく続いたなと、離婚後全員から褒められたのだ😭


▶︎銀座仲間のパワーの凄さ


銀座界隈で知り合った友人知人ホステス仲間の全員が、わたしの離婚のために動いてくれた

周りには離婚経験者が大多数を占める😂

いろんなアドバイスをしてくれたから、ここまで乗り越えることができたのだと思う

離婚を切り出してからの1ヶ月間わたしたち夫婦は、ごく普通の生活をしていた

彼があのマンションを出るまでの間、普通にご飯を食べ、同じベッドで寝ての生活だ

お互い引っ越しの準備をしながらの生活だったが、引っ越しや不用品の処分などの資金のほとんどをわたしが工面していた

彼はほぼ無一文だった

稼ぐ力があったのに、コロナ禍で売上がガクンと下がり、なんとか細々と生きていたといったところだろう

わたしの稼ぎがなければ、彼は生きていけなかったに違いない

わたしが起業した9年前と立場が逆転していたのだ

彼がマンションを出る前日、彼は高熱を出して倒れたのだ😳

明日はこのマンションを出る
その看病をわたしは必死にしていた

今思えばおかしな話だ

夫婦としての最後の役目を果たしている自分自身が、切なくて悲しくなった

次の日、熱が下がり、そして別れの一言は

「じゃぁな」

こうしてわたしたち夫婦は、銀座ホステスと客の関係に戻ったのだ


▶︎彼が残した最悪な置き土産


今となっては笑い話なのだが

彼が出ていった後、わたしは高熱を出した

マンションを出ていく3日前の話だ

高温でめまいとの戦いの中、不用品回収業者が4tトラック2台分の粗大ゴミを持っていった

その一部始終を同じ階の住人が見ていたという

何もなくなった空っぽの部屋を見て、思った

あぁ、この部屋はこんなに広かったのかと

からっぽの部屋で一晩、泣きながら
そして高熱の中、ふらふらになりながら

2人で過ごしたあの部屋との最後の夜を過ごしたのだった

2人で過ごしたマンションから、家賃1/4のアパートに引っ越し、1週間もの間わたしは寝込んだ

滅多に風邪をひかないわたしが、あまりにもひどい高熱と咳、そして息苦しさ

1週間寝込んでいる間、もしかしたら

コロナ?😂?

そう、彼がわたしに残した最後の置き土産は

コロナだった😂

この話はのちに、銀座仲間の間で笑い話になっている😂


▶︎1ヶ月間ホルモン剤がない生活


あれだけ婦人科医から「ホルモン剤は絶対やめるな」と言われていたのに、すでにホルモン剤がすっからかんに

高熱の中で流石に婦人科に行くわけにはいかない

高熱なのか、ホットフラッシュなのかもわからないくらいのカラダの火照りと滝のような汗

息苦しく、ひどい咳の中、眠れない日々を過ごしていた

1週間が経ち、ようやくカラダが動くようになり、少しずつだが体力も回復していった

そして婦人科に行き、婦人科医に「実は…」と説明をした

1ヶ月も飲んでいなかった⁈
よく生きていたわね😳

驚かれた

1ヶ月も飲んでいなければ、ホットフラッシュも出ていただろうし、カラダのだるさや更年期症状がどんどん悪化していたはずだと言われたのだ

確かに🤔離婚までのカウントダウンの3月は、カラダはおかしかった

気力でなんとか乗り切っていた気がする

引っ越しと仕事と、彼の身の世話まで、どう考えてもおかしな夫婦だった

今思えば、互いに精神がおかしかったのだ

お互いに「うつ状態」だったのだろう

婦人科医にその旨を話したら
「よく頑張ったわね」と驚かれたのだった

気力体力でここまで乗り切った
女性ホルモンはスカスカだが、ストレスホルモンであるコルチゾールはきっと大量に出ていただろうと思う

副腎は疲労困憊状態

よくここまで頑張ったわたしは、この数ヶ月の間でメンタルとマインドを鍛えられたのだ


あれから1年が経ち🤔

別れてから、いろんなことが目まぐるしく起きた
それに対応するために、必死だった

ひとりになって、これからの人生をどのように過ごしたらいいのか

ひとりになったからこそ、真剣に考えるようになったのだ😌

彼のためにと必死に身の世話をしてきたが、気がつけば彼の家政婦状態だった

それに気づけただけでもよかった

気がついていなければ、もっと更年期の症状が悪化していたと思う


更年期の症状は、ともに生活するパートナーが家事や子育てにどれだけ協力的かどうかによって、強弱の差がでるのでは🤔

わたしの場合は途中から完全な家政婦状態だった

家事については全く手伝ってくれない、それ以外にも全てわたしが全部身の回りのことから行っていた

辛い更年期の症状はさらに悪化し、カラダが動かないのに、無理やり動かして家のことをすべてこなしていたのだ

わたしの心の中は「いつかわたしはこの家で殺される」という不安と恐怖でいっぱいだった

この症状も更年期の症状の1つ

こうして、わたしは更年期の症状に追い込まれ、離婚を決めた😌

ホルモン補充療法を続けていても、この症状は悪化していく

それだけのストレスだったのだと思う

パートナーの理解で、更年期の症状の強弱が決まる

夫婦で更年期について、話す機会はあるだろうか?

互いにカラダの悩みについて話し合う機会をぜひ、作って欲しいと思う

わたしは、離婚して正解だった😌

この経験があったからこそ、自分と向き合う時間をつくることができたのだから😌

更年期はさまざまな人生の出会いと別れがある
わたしは後ろを振り向かず、次の人生に向けて、進むだけなのだ



佐方ともみ 
美容業界28年目 エステティシャン
IOB認定オーガニック専門家
食べて痩せるオーガニックダイエットBioeat(ビオエット)®︎協会代表
フェミニンケア×更年期プラクティショナー養成講座主宰兼講師

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