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最果タヒとSNSってなんだろね

皆さんは読書していますか?
自分は波があるものの、極力読書しようと努めている。
努めている、ってのも変だけど、文学部を卒業して、文学研究科という大学院まで出て、そこで学んだこととは全く違う仕事をしているけれど、惰性的に本を読み続けている。
詩を専門としていたから、特に詩を読んでいるんだけど、詩に限らず、いろいろ読んでいる。

で、最果タヒさんの『さっきまでは薔薇だったぼく』という最近出た詩集を読み終えたから、それについて話してみようかと。

そもそも、詩って読みますか?
詩ってなんだと思いますか?
その定義はやっぱり難しいけれど、とりあえず街中の本屋で「詩集」として売られている本には詩があるんだと思う。
でも、詩って何か特別なわけでもなくて、誰にでも書けるし、誰にでも読めると思っている。
だから、司書の資格を取るときに図書館実習をしたんだけど、その時に「5分あったら詩が読める」っていうタイトルをつけて、小さなコーナーをつくらせていただいた。
数日経って、選んだ本がその本棚からいくらか減っているのを見た時、なんだか嬉しかったな。そう、5分あったら1作品読めちゃうのがいいよね、って本気で思っている。

で、最果タヒさんの作品からいくつか気になったフレーズを切り取ってみようかな。

ぼくはきみの友達ではない、
インターネットを見るとき、街を見るとき、
いつも思っていることがあなたには伝わらない、
ぼくはきみの友達ではないが、きみは生きている、
そのことがよくわからない。

最果タヒ「紫陽花の詩」

うん、たしかに。
インターネットで見かける人、街中ですれ違う人、こういった人たちは、確かに友達じゃないけれど、この何気ない当たり前のような表現であっても微妙な工夫があって、「きみはぼくの友達ではない」じゃなくて、「ぼくはきみの友達ではない」ってなってるんだよね。
つまりは、ぼくから見たきみ、じゃなくて、きみから見たぼく、となっていて、きみからぼくがどう見えるのかという、あくまでも自己本位ではなくて、他者本位の見方がされているんだね。
この詩集では、こういう見方が随所に見られる。

ぼくの人生をきみが、覗き込んでも、きみのことしか見えないから、
ぼくが誰であろうと、きみには、きみしか見えないから、
きみは、ぼくにだって恋をする。

最果タヒ「合わせ鏡の詩」

難しい表現が全く使われていないけれど、読んでみると何だか不思議な表現で。「ぼくの人生をきみが、覗き込ん」だら、そこには、「ぼく」がいるのが普通だと思うんだけど、そこで見えてくるのは「きみのことしか見えない」となっているんだね。
ああ、だから、タイトルに「合わせ鏡」があるのかって。

恋をされたい、
恋したいと思うよりもずっと速く、そう願って、
そのたびにまばたきをする。

最果タヒ「まばたき」

昔、「愛されるよりも愛したい、まじで」とか歌っていた歌手がいたけれど、それとは逆だね。あくまでも、他者から眼差されることへの欲望。

わたしわたしをやめて あなたあなたをやめて そうして わたしがあなたをやり あなたがわたしをやり 真っ白い光が二人の繋いだ手のところにだけ あった ね

最果タヒ「三原色」

自己研鑽とか自分探しとか、本当の自分とか、そんなことが求められる世の中で、わたしをやめるということ。これは一体なんなんだろうね。わたしが他者になって、他者がわたしになっていくということ。このことについて、実は去年よく考えていたことだから、いつか記事に書くね。

きみは知らない、ぼくの中に暮らしていること、ぼくの考えていること、
きみは知らない、きみの恋だけのためにぼくの肉体はあり、
この星はあり、
きみのためなら何もかもが孤独になっていくのだと。

最果タヒ「惑星」

この詩は「ぼくの体に住んでいるきみはおくよりもあの子のことが大切で」と始まっているんだけど、タイトルとも合わせれば、地球の上に活きるひとびとのことを指しているだけな気がしてくる。ついつい、「ぼく」も「きみ」も人として読みがちなんだけど、「ぼく」はきっと「惑星(地球)」で、「きみ」が人なんだろうなって思うんだけど、これを両者ともに人だとして読むと少しどきっとしてくるね。

この「孤独」ってのもよく出てくるキーワードになっているんだ。


友達がいないんです。誰かって誰のことですか。あなたが「誰か」って言っているたびに、私のことですかと駆け寄りたくなる。

最果タヒ「me and you」

優しい人たち 優しい人たちごめんね 私は言いたかったの、大丈夫でなくても大丈夫と 優しい人の言葉をすべてほどいていきたかった 恋人がいないから 友達がいないから それを裸にしてあげたかった

最果タヒ「repeat」

とても孤独で、友達がいない人もいます。

最果タヒ「部屋は氷」

こうやって繰り返されるように、「友達がいない」とか、「孤独」というキーワードがこの詩集の中では散りばめられていて。

こういうのって、何だかSNSに散らばるSOSに近いものを感じるなって思ったんだよね。
Twitterをぼんやり眺めていると、日常生活での苦しみ、仕事のこととか、恋人のこととか、人間付き合いとか、ってか、ほとんど人間付き合いのことばっかりなんだけど、そうした悩みをSNSで吐露する人って少なくないと思う。それって、思想の違いとか、誰かへの批判ってのも、人が「わたし」とあなた」、「ぼく」と「きみ」と分かれているからこそ起こるもので、この世の中に「わたし」だけ、「ぼく」だけがいたら、こうした悩みもなくなると思うんだ。
でも、でもね、そんな世のなかだったら、きっと言葉を使う必要もなくて。ある意味で、SNSに吐き出される言葉は、まさに言葉であって、そこに人がいるからこそ吐き出されるもので、その人の周りの人もいるからこそ吐き出されるもの。「わたし」は一人じゃなくて、誰だって「わたし」だし、「わたし」は誰かにとっての「あなた」だから、誰だって「あなた」であって。だから、さっきの作品のなかに「わたしわたしをやめて」「あなたあなたをやめて」って何にもおかしくなくて、「わたし」は「わたし」であり「あなた」でもあるんだね。でもそう言えるのは、たくさんの「わたし」がいるからこそなんだね。

この詩集の中にいる「わたし」とか「ぼく」に、自分は手を差し伸べることはできない。だって、本の中にいる人物に手を差し伸べることなんてできるはずないでしょ?
じゃあ、SNSの中に人物に手を差し伸べることはできるかな。
テレビでもいい、新聞でも、なんでも、何かメディアを介したSOSに対して、「わたし(たち)」は何ができるんだろうね。
言葉って、いろんなメディアに拡がっているけれど、それって無機質な、単なる黒い色をした形でしかないのかな。
手を差し伸べる、いや、それはクソリプとかクソバイスとかおせっかいとか言われるように、拒まれる可能性だってある。
でも、真のSOSだってあるかもしれない。
それをメディアの向こう側にあるからと言って、単なる文字として過ごしていいのかな。

何が真の情報か。それはきっと体験とか経験した方が身に染みてくるのかもしれない。
けど、普段から自分たちは、言葉を使ってコミュニケーションして、そこにないものについて話している。
それはきっと、「誰が発話しているか」によって、その言葉の価値を判断しているということが大きいのではないだろうか。
SNSだろうとテレビだろうと、同じ発言、同じ意味、同じことを述べたとしても、「誰が述べたか」によって、受け取り手はきっと意味が変わってくるだろう。

この詩集の中にいる人物に近づけないように、SNSやテレビなどで転がる言葉にも近づけないのだろうか。

この詩集の「あとがき」を少し引用するね。

私は心を持つから、心があるというそのことで傷つけられることも、傷つけることも、争いに巻き込まれることもあるけれど、私は、心を持つから、人に心があることを、きれいだと思います。
 だからきっと、詩を書いている。

「あとがき」

詩を書く姿勢・態度を真っ直ぐに表明している。
この「私」に限らず、自分たちもまた心を持っている。それはめんどくさいことかもしれない。けれど、それを「きれい」だということ。その真意に自分はまだ近づけないけれど、この言葉を信じることはできる。
だから、自分もまた詩を書いていたいなって。

この詩集で一番好きな作品の最後を引用してこの記事を終わりにする。
少しでも、最果タヒさんの『さっきまで薔薇だったぼく』に興味を持った方がいたら嬉しいし、これを機に読んでくれたら嬉しい。きっとそうしたことが起こるかもしれないと、姿が見えぬ「あなた」を想って、そうした心を持つ「あなた」がいるかもしれないと信じて、終わり。

生まれても、生まれなくても、きみはこの詩に出会っただろう。
今はそれしか言えないが、それだけを言えたら、この詩は溶けて、
消える雪。

最果タヒ「飛ぶ教室」



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