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田舎でどうやって生きていくのか?店を始めるまでのあれこれ。

前回、田舎に住むところまで来ました。1998年のことです。双子が生まれて半年。役場に紹介してもらって古い家を借りたのです。移ってしまえば何かが動くんじゃないかといういつもの見切り発車でした。

そしてここに家族と一緒に住みながらフリー編集者の仕事をしていたのですが、このころが一番先が見えない時期だったと思います。毎月記事ネタを仕込んで福岡や東京の出版社に送り、採用されれば本取材をする。当時はデジタルカメラの時代ではなかったので福岡でポジフィルムを現像してもらって、ポジとフロッピーディスクを宅急便で納品。今思えば面倒くさいですね。Eメールで原稿送れるようになったときは衝撃でしたよ。それでも理不尽な詰め込み仕事をさせられていた以前の会社と違って、すべては自分の責任であることに納得できていました。

納得はできていたけど、満足にはほど遠い。

ちなみにまだ福岡にいたころ、フリーになって最初にした仕事は創刊したての「じゃらん九州」でした。ずいぶん仕事をいただきました。特に小川さんお世話になりました。さらにその前、出版社時代に「まっぷるマガジン」が創刊して私は鹿児島県版の第一号の編集長でした。そんな時代です。

当時、観光情報はほとんどを印刷物から得る時代でした。時々テレビ。各情報誌編集部は現地に行って足で調べたり、役場に問い合わせたり、地元の知り合いに聞いたり、という手法で情報を集めていました。そのため当時は各情報誌の特色も出しやすかったと思います。今のようにハッシュタグを打ち込めばボロボロ情報が集まる時代ではないから、情報源に価値があったのです。それを見越して大分~阿蘇方面の情報を集めていました。

すでにバズっているものを紹介するんじゃなくて、まだ誰も知らないけどこれは絶対面白い!というものをメディアが探していた。メディアにも面白みのある時代だったんです。

このころ我が家のインターネットはまだダイヤルアップでした。つながっている時間だけ通信料がかかります。メールを確認したり、必要なことをしたらすぐに切ります。といっても大した情報はまだネット上になかったですね。携帯電話は持っていましたが我が家に1個のみ。一度ネットがつながらなくなり、調べたら電話のコードをネズミにかじられていたこともありました…。

まったく将来が見えなかったこのころ。なぜとりあえず田舎に来たんだろう?

たぶん精神を一回リセットしたかったんでしょうね。それほど5年間の出版社勤務は私を追い込みました。福岡の都市高速道路はまだ環状線になってなくて、どこもかしこも渋滞していました。あのころは常にイライラしていました。でも「田舎に住みたい」という思いだけでここまで来たけれど、私はこのあとずっと出版業務をしたかったわけではないんです。

早く自分発信の仕事をしたい。店を持ちたい。

町内に元駅で空いている物件があるというので使わせてもらえないか?と聞いて「自分たちで何かしたいから」と断られ(その後ずいぶん空いていたっけ)、隣町のレジャー施設の横にちょうどいい空き家があったので問い合わせてもらったら隣の家の人に「私が借りていたいので」と紹介を断られ。田舎ってそう簡単にはテリトリーに入れてくれません。

そして妻もこのころ、洗濯物を干しながら「この先どうなっていくんだろう」とぼんやり思っていたそうです。幼い双子を抱え、知り合いもまったくいないこの土地でどうやって将来を作っていくのか。

何も伝えられない、学ぶところのない話になりました。でもね、不便な中でもがき続けることって、とことん自分をタフにしていくんです。それは他人から押し付けられた苦労とはちょっと違う。自分で選んだ苦労の中からしか生まれないタフさがあるんです。あの時はその気持ちを伝えるこんなSNSも何もなかったなあ。

話がそれてそれて、今回は店をするところまで至りませんでした。田舎に移ってすぐ、どういう仕事をしてしのいでいたかのお話になりました。誰も知らないところで何かを始めたいと思っている方の参考になればうれしいです。

次回はまだ店を開けないかも。町おこしのグループのメンバーに選ばれた話をするかどうか考え中です。もう20年も前の話だからしてもいいかな。

※写真は2000年に店が建ち始めたところです

公式サイト:http://horizon0707.stars.ne.jp/FEH/TOP.html

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