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【エッセイ】初恋

物心ついた時にはもう、いわゆる変わった子だった。泣いていたかと思えば、急に泣き止んでニヤッと笑う私を、母が少し気味悪く思っていた事を知っている。

毎朝、保育園に預けられる時はいつもギャン泣きだった。このまま捨てられるんじゃないかって。両親からあまり良く思われてない気がしてたから。問題児の自覚はあったんだ。小学校に上がるまで毎日泣いていた。自分でもよく分からないけど、色んな理由で。それしか感情を出す術がなかったんだと思う。さぞ、煩くて迷惑だったことでしょう。でも本当は小学校からは流石にまずいと思って、寝る前に声を殺して泣くようになっただけだった。何の涙か自分でも分からないけど勝手に頬を伝っていた。

七夕の短冊にゾウさんになりたいって書いた。優しい目をしてるから。翌年はカメさんになりたいって書いた。マイペースでも怒られないから。

保育園の発表会で劇をすることになった。確かヤギとトロールが出てくる話。父がお前にはトロールがぴったりだって言うのを間に受けて、トロールをすると言った気がする。でも本番になって、天邪鬼で癇癪持ちの私を揶揄ってただけだと、急に悟って、最初から最後まで先生に抱っこされて泣いてただけだった。

小学生の時、いきもの係になって、金魚の世話をしてた。金魚が死ぬたびに校庭の花壇に埋めに行ってた。ある日、先生に教室に鉢植えを置いて欲しいと言って理由を聞かれたから、金魚が死んだら校庭まで行かなくても鉢植えに埋められるし、土に還って花の栄養にもなるし一石二鳥だからと言ったら、先生がなんとも言えない顔をした。またやってしまったみたい。

家の周りをうろつく野良猫がいた。白くてガリガリだからガリって名前にした。餌はやるなとおじいちゃんが言ってたけど、あまりにガリガリだから牛乳と煮干しをやった。その翌日、ガリが車に轢かれて死んでたと母が悲しそうに教えてくれた。最後に美味しいものを腹一杯食えて死ねて良かったねって、即死なら苦しくないしって母に言うと、母は言葉に詰まってしまった。またやってしまったみたい。おばあちゃんは死ぬ時はコロっと死ぬのが良いって言ってたんだけどな。

アトピーが目立つようになった。この体しか知らないから私自身は何も変わったつもりはないけれど、歳を重ねれば重ねるほど、どうやら良くないことみたい。掻くなと怒られて、自分が掻いてたのに気付く。私は意思が弱いんだって。誰も嫁にもらってくれないんだって。確かに、血の匂いがする手を取ってくれるモノ好きはそうおらんやろな。

言わなきゃ分からないでしょう!と怒られるほど何も言えなくなった。言いたいのにその時だけ声が出なくて、泣くだけの私は両親を余計にイライラさせて、さらに怒らせた。勉強だけできても意味がないって。生きていけないって。勉強、頑張ったのにな。それでも中学3年間オール5を取り続けたのはここじゃないどこかに行きたかったから。

中学時代、私は先生から信頼の厚い、絵に描いたような優等生だった。真実は360°ひねくれた結果なのだけど。中身は盗んだバイクで走り出したい奴と大差なかったと思う。心の中でクソったれと思いながらも愛想を振りまく猫被りを極めたおかげで、今も猫を5、6匹可愛がっている。

先生方の期待とは程遠い高校に進学を決めた。何とも言えない顔をして、おめでとうとも言われなかったけど、ざまぁ。母は遠回しに何事か言われたらしいけど、私に直接言わないところが教師の嫌なところだ。まあ、田舎なんて大人も子供もそういう点では大差ないよな。なんてね、ふふ、しっかり思春期しょうたわ。本当は高校進学で実家も出たかったけど、ダメだって言われた。じゃあせめて原付をって言ったけどそれもダメだった。結果、駅まで父の送迎と電車と自転車の片道約2時間の通学を3年続けることになった。

振り返れば、高校進学が私の最初の一歩だった。自分の意思で決めた逃避行。高校は全県区の普通科だったから色んな所から生徒が集まったいた。帰国子女もいれば、ギャルも、オタクも、いじめられっ子も、バカも、頭良い奴もいた。夢を持って?いじめから逃げて?理由は人それぞれだったけど、その理由に優劣なく、只々同じ教室に集まってた。好きな事を堂々と好きって言えて、努力できる同級生の姿を眩しく思ってた。自分は何が好きかも分からなくなってたから。

2000年代にしては珍しく制服はスカートかスラックスか選べた。靴も鞄も指定はなかったけど、HRでクロックスとサンダルはやめさないって注意されたな。南極は大陸なのに北極は何で大陸じゃないの?って本気で聞いてくる友達も、授業中に怒られて机の上のもの全部、窓から中庭に投げ捨てられるクラスメイトも、何度目かの窃盗で先生がついに通報して更衣室にKEEP OUTの黄色いテープを貼られる光景も、駅前にコンドームが落ちてたり、ヤンキーが特攻服でたむろってたり、そういう日々が、人間が、ひどく愛おしかった。

オーストラリアに姉妹校があって、夏休みに2週間のホームステイに行った。これが初めての海外だった。英語なんて授業でしか使ったことなかったけど、案外何とかなるもんだった。何より拙い英語でも私が何が言いたいのか、真剣に聞いてくれる事が嬉しかった。私、お喋り好きだったみたい。通じる喜びと自分を表現できる言葉を持てた感動は私の苦手を興味に変えてくれた。

先生から勧められた、鈴木孝夫のことばと文化を読んで、大学は外国語学部にした。当時、私が触れる情報は欧米か東アジアが多かったから、違う世界も知りたいなと思ってスペイン語を専攻した。おフランスって柄じゃないし。

やっと実家を出て、新しい環境も生活もワクワクした。でも楽しいキャンパスライフはすぐに終わった。私は10代だったし、田舎から出てきた世間知らずだったし、世の中は性善説の人間ばかりじゃないからね。あれは、何とかなるさとか、時薬では終わってくれなかった。朝、重力が倍になったのかと思うほど体が重くて起きられない。人混みも電車も無理。一度サボってしまうと、大学へは足が遠のく。大丈夫だと自分に言い聞かせてる時点で大丈夫じゃないことなど分かっているのに、気づかないフリをした。病院に行った。抑鬱状態だった。喉が痛い、咳が出る、それと同じくらいナチュラルに死にたくなる頃、季節は冬から夏になろうとしていた。

焼き切れる寸前の理性が腐るなと叫んだ。貯金を叩いて航空券を買った。もちろん両親はめちゃくちゃ反対した。無視した。だってもう買ったし。でもアパートを出る3時間前になるまで何一つパッキング出来てなかった。泣きながら荷造りした。不安やら恐怖やらぐちゃぐちゃな感情に押しつぶされそうだった。それがバックパッカーになる第一歩だった。"一歩踏み出す"なんていうカッコいいものじゃなくて、這って出たって言う表現の方が正しいね。

搭乗手続きを済ませ、ガラケーの電源を切って、空を仰いだ。行き先はネパールの首都カトマンズ。精神的にも準備的にもギリギリだったから、到着日の宿すら確保できていなかった。(良い子は決して真似しないでね)たまたま飛行機の隣の席の人がネパール人で、私のパスポートを見て話しかけてくれた。何でも仙台に留学してて里帰りの道中らしかった。今夜の宿を取ってないと彼に相談したら、到着後、私の入国手続きを待ってくれて、宿とタクシーの手配を手伝ってくれた。夜中の11時を回ろうとしていた。ありがとう以上の感謝を伝える方法を持ち合わせていない事がもどかしかった。当時ルーマニアでタクシーに乗っていた日本人女子大生が運転手に銃で撃たれて亡くなったニュースを見たばかりだったので、街灯のないデコボコ道を走るタクシーの中は生きた心地がしなかった。

話が長くなるので色々割愛するが、ご推察の通り、その後も珍道中を極めた。カトマンズからポカラへ移動してしばらく過ごし、再びカトマンズに戻って、インドのバラナシへ行った。運悪く、ガンジス川が大氾濫したり、お金が無さすぎてインド人しか乗らない寝台列車でコルカタまで移動したりした。

※インドの寝台列車の席に等級があって、私が乗ったSLクラスに外国人旅行者は普通乗らないらしい。チケット売り場のおじさんが心配して、せめてもと女性だけのコンパートメントを手配してくれた。

他にも色々あったけれど、お金も少なかったし、一人旅は初めてだったし、とにかく生きることに全力を注いだ。嫌な思いをしたり、喧嘩したり、怖がられたり、助けられたり。笑ったり、泣いたり、怒ったり、叫んだり。自分にこんなにも喜怒哀楽があったなんて。文字通り、糞尿混じる河の水に太ももまで浸かり、上から雨を被りながら、かき分け、かき分け進む旅路の何と似合うことか。

その後も良くなったり、沈んだりを繰り返した。大学の単位も取れたり、取れなかったり。取れなかった方が多かったかもしれない。精神的なものだけでなく、コリン性蕁麻疹も発症して、アパートの風呂場で度々倒れた。アトピーも悪化した。掻きすぎて全身至る所から滲出液が止まらなくなった。床一面、落ちた皮膚で埋め尽くされるような惨状で、もうダメだと母に来てもらった。辛くて痛くて泣く私を母はめちゃくちゃ怒った。周りにどれだけ迷惑かけて仕事の休みを取ったと思ってるのかって。その時、私の中でプツンと切れた。それは親への期待か、家族としての繋がりか、理解される希望か、そういう何かが消滅した音がした。母の手を借りて病院へ行き、2週間ほど入院することになった。

結局、夢だった留学は諦めざるを得なくなった。同期がそれぞれ留学に旅立っていく中、私は家事も勉強もできてたことができなくなっていく。皆んなは前進してるのに私だけ後退していく劣等感。そんな時、ゼミの教授が言ってくれた、確かに優秀な成績や研究熱心な学生は素晴らしいけど、大学を卒業するということ自体がまず立派な目標だと。目が冴えた。留学に未練があったけど、すっぱり諦められた。結果的に5年かけて大学を卒業した。留学で休学していた同期達と一緒に卒業できた。こんな私と一緒にてくれて、時に叱って、時に励ましてくれた友人には今でも感謝しかない。

社会人になって2度の転職をした。会社を辞めようと踏み出す一歩はもう逃げじゃなくて、選択に変わっていた。得意なのは三日坊主。手のかかる体なのにめんどくさがり。友達は少ないけど、自慢の友達しかいない。今あるひとつひとつが過去の私の置き土産。インフルエンサーみたいに綺麗なものじゃないけれど、悪くないなって思える。

そんな風に思えるようになった頃、ふと中学の卒業式の日を思い出した。中学校の記憶はほとんど無いし、思い出す気もないんだけれど、あの日、卒業アルバムに一言書いて欲しいと言われたことは鮮明に覚えてる。彼は私に、保育園の時のことを覚えている?みたいな事を書いてくれて、私は彼に永遠のサッカー少年と残した。

初恋だった。同じ保育園で4歳とか5歳とかの恋と呼べるかどうかも怪しい年齢の。友達を作るのは苦手だったけど、彼はいつも私の隣にいて、まっすぐ私に好きだって伝えてくれる子だった。彼は私より誕生日がひと月早くて、背が高くて、サッカーが好きだった。運動が好きなのに私のままごとにニコニコ付き合ってくれた。おやつの時間に他の子からチューできんのか、みたいに煽られて、できるよ!って迷いなく突然私にキスをした。よく覚えてるよ。

小学校は別々だった。中学校も別々のはずだったけど統廃合で同じ中学校になった。当たり前だけど、めちゃくちゃ大きくなってて、戸惑った。3年間話すことはなかった。学校のゴシップネタにされたくなかったし、何より彼に合わす顔がなかったから。私は外面が良くても、成績が良くても、中身はただ逃げ出したいだけの、幼稚な反抗期を拗らせてるダサい奴だったし、頭の中はどうやってここから出るかで一杯だったから。でも知ってる。彼は相変わらず楽しそうにボールを追いかけてた。教室は違うけど彼も私も習字を習ってて、書道会の会報が届くたび、無意識に自分の名前より先に彼の名前を見つけてた。だから卒業式の日、彼から声をかけられて、久しぶりにふっと気が緩んだ。テレビで高校サッカーをやってたら、つい手を止めて彼の学校と名前を探してしまった。頑張ってるんだなって思うだけで穏やかな気持ちになれた。

学生時代、ぐちゃぐちゃと考えて面倒くさい人間だった。嫌なことばかりに目がいって、ないものねだりの毎日だった。でも、今なら思い出せる、それだけじゃなかったって。幸せに思える時間があったって。家族も友人も学校も悪いことばかりじゃなかった。何者でもない私を好きだって言ってくれて、何の迷いも疑いもなく、私も好きだって返せる。将来の約束も、なんの打算もない、ただ愛おしいだけの思い出が、笑ってる。思ってたよりも近くで。そのままでいいと。

過去は変えられないけど、覚えていることが全てではない。人生にタラレバなんてないけど、もし彼に会うことがあれば、次はまっすぐ目を見れるくらいカッコよくありたいと思う。

良いカッコしたいと見栄を張ってしまうのが恋なら、ダサい姿をさらけ出せるのが愛なんかな。なんて。そしてカッコよくありたいと思う私は、まだ君に恋してる、かもね。ウソ。さすがに彼氏の機嫌が悪くなる。

次の一歩はきっと挑戦になる。早速躓いているけど。逃げて、逃げた先にあるものの中から選んで、やっと自分で何かしたいと思えるようになった。最初に私を好きなってくれた彼に、ボロボロの私に声をかけ続けてくれた友人に、痛みを分かち合える彼氏に、死んだおじいちゃんに、そして自分自身に胸を張れるようにって、そんな風に思う今日に感謝を。ものすごく遠回りした気がするけど、それが私だから、いいんだ。

ありがとう。

君は今も私の心臓。

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