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『善良と傲慢』−恋愛で相手に感じるピンとこないの正体−

辻村深月さん著『傲慢と善良』を読んだとき、胸の内からこみあげてきたのは、沸々とした苛立ちだった。

タイトルからも、隠したいけど隠せない人間のダークサイド的な話かしら?とは覚悟していたのだけど、辻村さんは比較的文章も読みやすい印象だし、「よっしゃ読むぞお!」といったコテコテ純文学を読むような気力ではなく、ライトな気持ちで読んだのも悪かったのかもしれない。

これから富士登山が始まる!という状況だったにもかかわらず、なんの準備もできていない私の心は、この本を読んで大きく消耗されてしまった。

好きな本か?と言われたら、苛立ちを与えるこの本は好きではないのだけれど、”怒り”という私の感情を揺さぶるということは、自分にとって影響を与えた本と言えるのかもしれない。

何がイライラするってこの本、自分の自己愛について強制的に向き合わないといけなくなる。

自己愛とは、自分自身とその能力を信頼し、自信を持ったり誇りを持ったりすることだ。

しかし、現代ではこの過剰な自己愛からくる、他人とのコミュニケーション障害が大きく問題視もされてもいる。

恋愛をする場面において、自己愛について考えることは避けては通れない。

今回は、「人生で一番刺さった小説」とも言われ、つい最近50万部を突破した辻村深月さんの『傲慢と善良』についてまとめていきたい。

恋人を探しているけれど、いい相手が見つからないと一度でも感じたことがある人は、もしかして自己愛が邪魔をして、自分の恋愛の道を閉ざしているのかもしれない

そんな人にはぜひ、この本を読んでほしい。

(なお、注意はしますが、若干のネタばれになってしまったら申し訳ないです。まだ読んでないよ!という人は読んでからでも)

あらすじ

辻村深月さん著

婚約者・坂庭真実が忽然と姿を消した。その居場所を探すため、主人公である西澤架は、彼女の「過去」と向き合うことになる。生きていく痛みと苦しさ。その先にあるはずの幸せ──。2018年本屋大賞『かがみの孤城』の著者が贈る、圧倒的な"恋愛"小説。

自分に付ける値段は、はたして適切ですか?

私の友達は、大体が結婚したいと思っている人が多くて、それゆえよくある「彼氏ほしい」だの「良い人どこー」みたいな話をよくする。

その場面で頻繁に出会うのが、「良い人なんだけど、何だかぴんと来ないんだよねー」という言葉だ。
『傲慢と善良』では、そのピンとこないという現象を、それはそれは見事な言葉で言語化している。そりゃあもう、私たちの心をえぐるように。

「ピンとこない、の正体は、その人が、自分に着けている値段です」
吸い込んだ息を、そのまま止めた。小野寺を見る。彼女が続けた。
「値段、という言い方が悪ければ、点数と言い換えてもいいかもしれません。その人が無意識に自分はいくら、何点とつけた点数に見合う相手が来なければ、人は”ピンとこない”と言います。

-私の価値はこんなに低くない。もっと高い相手でなければ、私の値段とは釣り合わない」

『傲慢と善良』より

私はこの言葉を読んだとき、息をのむような戦慄に似た感覚を覚えた。

私たちが普段している、「何となく違うんだよねー」というような内容も、いうなればこのピンとこない現象に該当している。

「ささやかな幸せをのぞむだけ、と言いながら、皆さん、ご自分につけていらっしゃる値段は相当お高いですよ。ピンとくる、来ないの感覚は、相手を鏡のようにして見る、皆さんご自身の自己評価額なんです」

『傲慢と善良』よろい

女友達と結婚や恋愛について話をしているとき、たまに「年収が低い」「顔がタイプじゃない」「服がダサい」など、多方面で男性を否定する女性がいる。

特に私が気になるのは、お金のこと。

もちろん、男性に経済力を求めるのは私も女だから多少理解はできるのだけれど、「最低1,000万円以上収入がないと」とか「家のローン払いつつ、年に一回ちょっと贅沢な旅行ができたらいいよね」なんて言う女性は、意外と多い。(ちなみに旅行のホテルや旅館はリッツカールトンや星のやグループのホテルだったりする……)

そんな時、時折脳裏をかすめていた疑問は、彼女たちは経済力を彼らから受け取る代わりに、見返りに何をあげられるのだろう、ということ。

若さ?いやいや、40過ぎたらもちろん綺麗さはあるけど、モデルでもない限り20代には負ける。

家事……?それは、もはや家事代行でいいのではとも思う。

男性たちに、私たち女性を一生涯愛してもらえるには、それ相応の魅力がなければならないし、残念なことに努力しようと意識しなくては、魅力は衰えていく。

私も今、彼と同棲をしている中で、その事実を嫌というほど痛感している。

自分も含めだが、相手は自分の鏡。

女性が男性を選ぶのであれば、男性側から見て、自分は選ばれる立場なのか?ということを忘れないようにしたい。

善良に隠された傲慢

私が『傲慢と善良』苛立ちを感じた理由の一つは、主人公の婚約者である真美の存在がある。

主人公である架からは、控えめでどちらかというと内向的、あまりわがままを言わない良い子、という印象で最初の物語はスタートするのだが、彼女の失踪をきっかけに、隠された彼女の一面が見えてくる。

後半では彼女視点で物語が進むシーンはあるのだが、正直「うわぁ…」と声が出てしまうほど、気分がげんなりしてしまった。

自分は控えめ、という自己認識らしいが、大事な選択はいつも母親投げ。

自分で人生を選択せず、他人の引かれたレールの上を走って、しかもそれが正しく良いことであると信じている彼女を見ていると、昔の自分と重ねてひどく苛々した。

とりわけ、ADHDグレーゾーンで何をしても危なっかしい、と母から常に言われてきた私は、割と過保護に育てられた。
「こうした方がいいんじゃない?」といった母の言葉に反抗しつつも、逆らえず言うとおり。

母へ反発する気持ちに何となく気づいているのだけど、上手く言語化できずにきちんと感情と向き合えない。

母へなぜか湧き上がる後ろめたさが、「私は〇〇だから、こうしたい」と自分での意思決定をさせない。

自分で人生を選択するのが、怖いから。

他人が勧めた選択で間違えたら、母を責めるしかないのに。

いや、むしろ自分で選択したときに自分に失望するのが嫌で、言い訳の種を自分であらかじめ用意していたのかもしれない。

新卒で働くようになって、ようやく何もかもが用意されている世界に、一種の気持ち悪さと「このままじゃダメになる」という意識を感じ、母親の反対を押し切って家を出た私。

自分で選ぶ怖さについて考えていた22歳あの頃は、ごちゃごちゃした感情でいっぱいで、とにかく毎日をこなすのが大変だった。

主人公の真美は、30歳を過ぎてもいわゆる母に”飼われている”ような異変を感じることができない。

おそらく、私が当時感じていた「何となくダメになってしまう気がする」という感覚を感じることができなかったのだろう。

「現代の日本は、目に見える身分差別はもうないですけれど、一人一人が自分の価値観に重きを置きすぎていて、皆さん傲慢です。
その一方で、善良に生きている人ほど、親の言いつけを守り、誰かに決めてもらうことが多すぎて”自分がない”ということになってしまう。
傲慢さと善良さが、矛盾なく同じ人の中に存在してしまう、不思議な時代なのだと思います
−その善良さは、過ぎれば、世間知らずとか、無知ということになるのかもしれないですね−

『傲慢と善良』より

善良さがゆえに、他人の言いつけを守って、自分の脳みそで物事を考えない。
けれど、あらゆる多様性が認められる現代だからこそ、歪んだ自己愛は肥大していく。

なんだか、5年前、もし家を出て自分で考えることをしなかった場合の”私”を見ているようで、とてもぞっとした。

自己愛を正しく育てるために

『善良と傲慢』を読みながら、終始イライラしっぱなしだったのだが、最後まで読み切るのに1週間もかからなかった。

つまり、すごくおもしろかったということ(笑)

私たちが普段恋愛をしている中で、傲慢に相手を品定めすることはよくある。
けれど一度冷静になり、自分は相手からするとどの程度の値段なんだろうか?と一度考えてみたい。

もしかしたら自己愛が歪んでしまっていて、正しく自分を認識できていないかも。

適切に自己愛を育てるためには、自分自身で考えながら人生の選択をしていくことが大切なのだろう。

思考を、他人に明け渡さない。

私も、それを肝に銘じて、恋愛をしていきたいと思う。


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