それは思っているのか、思わされているのか?
・・・といった情報をニュース番組で知り、その後、
おおー!なるほど。今週末は珍しく予定もないし、家族で行ってみるか!
という意思決定に至ったとする。
さて、この思考は、
→自分で考えて思ったこと
なのか、それとも
→メディアから思わされたこと
なのか。どちらだと言えるのか?
というのを考えてみたのだが、僕の中であっさりと回答は出た。
回答を言う前に、まず、
「自分で思っている状態」と「思わされている状態」を、それぞれ定義してみる。
「自分で思っている状態」とは、
他者からもたらされた情報を自分の中で咀嚼し、一定の時間をかけて導き出した考えがある状態
「思わされている状態」とは、
他者からもたらされた情報を自分の中で咀嚼せず、他者の考えをそのまま自分の中に取り入れ、自分の考えとして採用している状態
こんな感じに定義してみた。
なので、これら2つの大きな違いはただ1つ。
「他者からもたらされた情報を自分の中で咀嚼しているかどうか」
である。
平たくいえば、他者からの情報を鵜呑みにしている状態を、「思わされている状態」と言える。
いやいや、まてまて。
「思っている状態」というのが、他者からの情報を鵜呑みにせず、自分の中で咀嚼した状態なのだとしても、
咀嚼して導きだした考えもまた、「他者から思わされているに過ぎない」かもしれないじゃないか。
という疑いが出てくる。確かにそうだ。
ふむ、これは困った。
いわゆる、我々の思考は、社会の大きな枠組み・構造によって「思わされているに過ぎないのではないか?」という「構造主義的」な考えに至る。
ここまでくると、他者からの情報を咀嚼していても、そうでなくても、
「思っている状態」とも言えるし、
「思わされている状態」とも言えるのだ。
では、ここで冒頭の問に対する僕の回答を言ってみる。
それは、
「どちらの状態にしても、主張することに価値がある」
というものだ。
だいたい、生活していれば外部から影響を受けるのは当たり前のことであり、影響を受けていない人などいない。
つまり、自分の中で浮かんだ思考は、頭の中で勝手に育ったものではなく、何かしらの情報(タネ)が植えられ、育ったものだということ。
そのタネを自分で育て、「自分はこう思います!」と、主張すること自体に価値がある、というのが僕の主張だ。
noteを含め、多くのSNSで自分の考えを主張するというのは、少なからず他者に対してなんらかの影響を与える可能性はある。
その情報を咀嚼するのか、鵜呑みにするかは発信側はコントロールできないけど、
なんらかの影響を与え、なんらかの意思決定に至るきっかけになったのだとしたら、それは価値あることだと感じる。
有象無象の情報が溢れるなかで、たった一人の誰かの思考に影響を与え、行動を変えるきっかけは、
「自分はこう思います」という主張である。
たとえそれが、「他者から思わされている主張」だとしても、だ。
自分の中で咀嚼せず、他者からの情報を鵜呑みにしながら生活している状態だったり、他者から言われるがままに生活している状態というのは、
もはや「他者から生かされている状態」と言える。
なので、思っている状態だろうが、他者から思わされている状態だろうが、どちらにせよ、「自分の考えを主張する」ということに価値があり、
それこそ、自分の人生を自分で生きる、ということに繋がるように思う。
・・・という主張も、僕が他者から「思わされているだけ」かもしれないけどね。
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