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それは思っているのか、思わされているのか?

〇〇では今、紅葉がピークを迎えています。

週末の天気も晴れの予想ですので、絶好の行楽日和となっています。地元で採れた野菜を振る舞ってくれるレストランも併設されていますよ!

また、子供がよろこぶアスレチックも用意されています。ぜひ、ご家族で楽しくお出かけしてみてはいかがでしょうか?

・・・といった情報をニュース番組で知り、その後、

おおー!なるほど。今週末は珍しく予定もないし、家族で行ってみるか!

という意思決定に至ったとする。

さて、この思考は、

→自分で考えて思ったこと

なのか、それとも

→メディアから思わされたこと

なのか。どちらだと言えるのか?

というのを考えてみたのだが、僕の中であっさりと回答は出た。

回答を言う前に、まず、

「自分で思っている状態」「思わされている状態」を、それぞれ定義してみる。

「自分で思っている状態」とは、

他者からもたらされた情報を自分の中で咀嚼し、一定の時間をかけて導き出した考えがある状態

「思わされている状態」とは、

他者からもたらされた情報を自分の中で咀嚼せず、他者の考えをそのまま自分の中に取り入れ、自分の考えとして採用している状態

こんな感じに定義してみた。

なので、これら2つの大きな違いはただ1つ。

「他者からもたらされた情報を自分の中で咀嚼しているかどうか」

である。

平たくいえば、他者からの情報を鵜呑みにしている状態を、「思わされている状態」と言える。

いやいや、まてまて。

「思っている状態」というのが、他者からの情報を鵜呑みにせず、自分の中で咀嚼した状態なのだとしても、

咀嚼して導きだした考えもまた、「他者から思わされているに過ぎない」かもしれないじゃないか。

という疑いが出てくる。確かにそうだ。

ふむ、これは困った。

いわゆる、我々の思考は、社会の大きな枠組み・構造によって「思わされているに過ぎないのではないか?」という「構造主義的」な考えに至る。

ここまでくると、他者からの情報を咀嚼していても、そうでなくても、

「思っている状態」とも言えるし、
「思わされている状態」とも言えるのだ。

では、ここで冒頭の問に対する僕の回答を言ってみる。

それは、

「どちらの状態にしても、主張することに価値がある」

というものだ。

だいたい、生活していれば外部から影響を受けるのは当たり前のことであり、影響を受けていない人などいない。

つまり、自分の中で浮かんだ思考は、頭の中で勝手に育ったものではなく、何かしらの情報(タネ)が植えられ、育ったものだということ。

そのタネを自分で育て、「自分はこう思います!」と、主張すること自体に価値がある、というのが僕の主張だ。

noteを含め、多くのSNSで自分の考えを主張するというのは、少なからず他者に対してなんらかの影響を与える可能性はある。

その情報を咀嚼するのか、鵜呑みにするかは発信側はコントロールできないけど、

なんらかの影響を与え、なんらかの意思決定に至るきっかけになったのだとしたら、それは価値あることだと感じる。

有象無象の情報が溢れるなかで、たった一人の誰かの思考に影響を与え、行動を変えるきっかけは、

「自分はこう思います」という主張である。

たとえそれが、「他者から思わされている主張」だとしても、だ。

自分の中で咀嚼せず、他者からの情報を鵜呑みにしながら生活している状態だったり、他者から言われるがままに生活している状態というのは、

もはや「他者から生かされている状態」と言える。

なので、思っている状態だろうが、他者から思わされている状態だろうが、どちらにせよ、「自分の考えを主張する」ということに価値があり、

それこそ、自分の人生を自分で生きる、ということに繋がるように思う。

・・・という主張も、僕が他者から「思わされているだけ」かもしれないけどね。

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