捕カルト、脱カルト 2話、〜独り暮らし〜
2話、〜独り暮らし〜
それから僕は基本的には日曜礼拝におにぎりやパンを食べる為に行くようになった。それに牧師さんの話も面白い部分もあるし、教会の人達も別に悪い人じゃないし。
20代になったばかりの僕はとにかく10代で築き上げてきたROCK精神で生きていた。つまりこれは単純に言うと、尖っていたって事だ。若さ独特のアレだ。
「ちょっと気に入らない事があれば行かなきゃいいんだし」って感じでとりあえず日曜は昼飯だけでも一食分浮くし、タメになる話も聞けるしいいか!ってくらいでその"教会モドキ"に行っていた。
その教会の中で僕に仲良くしてくれたのは長身の韓国人イサクさん、広島県出身で吉本興業所属でセミプロミュージシャンだった南里さんだ。それから僕に個人的にイエス様のことを教えてくれる担当だった韓国人女性の大空さんだった。この人は2〜3歳年上でまだ日本に来てそんなに間がないような話をしてくれたと思う。
何回か教会に通っていて、ある時の礼拝が終わった後、大空さんと話していて、会話が弾んでいた。僕は人懐っこい人間で、すでに大空さんに心を開いていたんだけど、会話の中で僕が「やかましいよ!」って笑いながら彼女の頭をはたいた事があった。僕は大空さんが僕を和ませよう、もっと僕との距離を縮めようとして日本語で笑いを取ろうとしたんだなと判断したんだけど、結果全くそんな事はなくて、ただの言葉の間違いか使い方をシンプルに間違ったか何かで、彼女からすれば話してたら急に僕に頭を叩かれたというふうになってしまった。
他のクリスチャンは寄ってくるし、牧師さんもくるしで軽くその場が炎上した。
僕が、大阪という土地柄も相まってボケて笑わせようとしたんだと判断した事が皆に伝わり理解してもらって場は治ったが、僕の感覚で言うとその時はなんでこんなに慌ててんのかな?ってくらいで全く意味がわからなかった。何年か経って、結構大空さんに失礼な事をしてしまってたなと、自分と世の中の常識の違いを知っていったのだが・・・。
大阪に来て4ヶ月目の途中くらいだったかな、高倉の家を出て上新庄へ引っ越した。
その家は六畳一間で、元々は管理人が住んでた部屋だったみたいで、他の部屋より少しだけ広く、足下ストーブと冷房と小さいテレビがあった。そしてユニットバスと狭いキッチン付き。有り難かったのは、中2から患ってたぎっくり腰に優しいスプリングベッド付きだった事。
ここに、12月の半ばの寒い冬の日と共に、本当に人生初のまじりっけなしの独り暮らしが始まった。まじりっけなしと言ったのは、それまではガチの独り暮らしではなかったからだ。先輩がいる寮であったり、高倉がいたりと。
大阪のその部屋では、初めの頃はいつも夕方くらいから起きて1日をスタートさせていた。
高利貸し金融会社に借金して新しい家での生活を始め、仕事も決まってなくて食べるものもその借金で食べていた。
自分の家の位置、近所に何があってどこをどういけばどこに出るというそれに、慣れるのに人生で1番時間がかかった。というのも、家を出て歩きで3〜5分以内のところまでにいくつもの道がありそれが交錯してとにかく僕にとっては迷う場所だったからだ。
とにかく金銭的な心細さは1番の不安要素で、それに拍車をかけるように寒さが襲ってくるのだった。ベッドはあるけど布団がなく、九州から持ってきてた山登り用のような厚手のゴワゴワしたジャンパーを足に着て、上半身はとにかく何枚も重ね着で足下ストーブをつけてなんとか夜を凌いでいた。
それから半年間程、寂しさと不安をかき消すように朝方までずっと作詞作曲をして紛らわした。
しかし定期的にホームシックになりいろんな角度からの不安で、夢の尻尾さえ見えてこない日々の中にあり、真夜中にふと我に返り何度か泣いた。
僕は、独り暮らしというものを痛感していた。
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