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陸の海

 この先は、海、と思う風景がわたしにはたくさんある。

 ひらけた道路脇に、古い平屋建てが寂しげに生き潜んでいるのをみたとき。

 トラックに積まれた、ジュースのコンテナの、風雨にさらされ、色を失った重なりをみたとき。

 わたしは、古いものに、いつも惹かれるのだ。

 海は遠い。空が遠いように、海は遠い。

 わたしのそばに、海があったことはないのに、いまは陸ばかりで、窮屈に押しとどめられているというのに。

 雨の日に、そんなことをただ、感じる帰り道。

 七竈の木の葉、もうすぐ燃え殻になる手前の赤で、街灯が葉をてらしていたから、舞台の演者のように、台詞はまだない。静かに雨に濡れていた。

 美しかったので、バス停で待つあいだ、写真を一枚。

 バス停に、まつひとは、いなかった。

通りすがりのたばこの煙だけ、いないのに、しつこくのこった。

 裏の小学校の工事用の仮事務所に、一台設置された自販機の、選ばれない青の点滅が、滴りの中で、にじまず、灯っていた。

 寒さはなく、ただ暗い。来たバスに、乗り込む。
一番後ろにすわり、文字を言葉にする作業を。わたしも、何かを灯すように、静かに。

 よろこびというのは、日常においてひどく曖昧だ。意識していないと、輪郭がさほど感じられない。

  

 月初めなので、ひとりでのこって、文学ラジオ空飛び猫さんのチャンネルとか、一人ビブリオバトルさんの、YOUTUBEを聞いていた。もちろん、仕事が捗るからだ。夜勤と明けの数を数えたり、蛍光ペンで色分けしたり、そんなん作業、すると、ものすごい集中力をみせて、わたしは、一時間の仕事を、半分くらいの体感で終わらせることに成功した。あくまで、体感。

 一人で残って仕事して、ほんとうに切ないから、きかせてよラジオくらいと思うけど、まあ、誰もとがめる人もいないか。

 

 夏の残業かえりは、帰り道もうわついた気持ちが残るものだけど、この時期になると、もう夏は、のけものだ、秋は、格別だ。

 

 夜遅くに帰る。

 

 米をといでおくのは、奉行にまかせたのだけど、ついに奉行は、米を炊くことまで巧者にもなってしまったので、素直に頼む。

 炊飯器でポンの世界から、無水鍋にかえて何年かへたけど、無水鍋はとてもいい。

 

 炊き立ての米は、炊飯器とはなんか別のものなうまみがあり、そして、鍋で米をたくという行為が、それそ、旨そうにきこえる、とても楽しみに、買い食いなどしないで、帰宅すると、頼んでいた、野菜と肉を茹でるというただのぶっ込みなのに、依頼内容不履行で、夜の九時過ぎから、野菜などを切り刻み、肉を茹でる。

 仕事は十一月にはいり、慇懃なことや、ぬる水をのまされているような不快なことがたくさんあり、人間だもの、と文句を正当化して、ほんとうに、わたしの矮小さが目立ち、自己嫌悪におちいっているなか、ほんとうに、今日は、家族の前でも、ちょっとふざけた罵詈雑言をいったり、男は、女の月経について理解がないよね、と誰かがいうもんだから、男にも痛みをわかってほしいから、杭打ち血を流せ、対価だ対価だ、とか言っちゃって。
おかしい母だときっと思われているだろう、尻を、思わずケツと呼んでしまったり、思わなくても呼ぶこともあるけど口にだしたことなんてないから。

 あるまじき、行為行動言動で、お母さん今日は、発狂しているねえ、と家族に言われて、もう、どうしたらいいか、はて日記を書いているけど、明日は、中学の合唱コンクールで、泣きながら歌をきいて午前休を過ごすのだろう、だから、平日なのに夜更かししている、茶碗も放置して、パジャマも反対に着ているしとにかく、疲れた。

 とにかく、今日は疲れたのだ、朝もとてもはやかったしさ。

 仕事が、と簡単に疲れを置き換えてはならん。

 SNSでは、具体的に書く阿呆ではないはずだから、金の対価だと思って、それにとどめる。

 

 よし、小説のはなし。  

 

 この世の喜びよ。

 第百六十八回芥川賞受賞作品で、作者は井戸川射子三という女性。

 教員として高校へ勤務されている。

 

 わたしは、事情があって通勤の途中まで送迎してもらっているから、歩く距離はすごく短いのだけれど、光の、美しい朝の景色は、わたしの全身のすみずみにまで、いきわたり、この朝に、生まれたばかりかもしれない光をみると、ああ、外にこうして歩いてどこかに向かっているって、本当に幸せなことなんだな、とふかいことも考えず、素直に感じることもある。

 

 通勤時間と、通学時間は重なるから、職場のすぐそばの小学校へ通学する、小学生のひとりひとりをこっそりと観察し、家庭環境を想像したり、大人になって、彼らが成長したときは、どんな顔で、どんな心で、成長するのか、などと、すこし、口元をゆるめてしまったりする。そして、自分の家族の事を重ねて剥いで、影さえなかったことにするから、残酷だ。
 よその芝はまぶしい。

それは、わたしに子供がいるからで、わたしが、親という立場だからだろう。

 子供なんて、あまり好きじゃなかった。

 わたしの家族がまだ、小さかったころ、褒められるような子育てをしていたわけじゃないから、余計、行き交う、未来を内包し続ける子供たちの姿に、胸が苦しくなったりする。

 

 賢明に生きる人すべてに、果てしない水脈が静かに流れ続ける。

 生命の循環のただなかで、それぞれ、目に見えないつとめがあるから、静かにまっとうしているだけで、肯定すべきことなのに、どうして、まどろっこしい醜さが、へばりついてくるのだろう。

 この世の喜びを、ことあるごとに、思いだそうとしている。

 わたしにとっての、喜びは、ほんとうにすぐ崩れたり、砂で城をつくったことないのに、きっと、心ん中で、ずっと繰り返している。

 

 この世の喜びを語る語り手が、なにものか。

 この物語が、夫の喪にふくしつづける、女の白昼夢にも感じられ、よむたびに、涙が内側につらつらと流れ落ちて、自分が雨降りの窓にでもなったような気持ちで、もう、この小説を読むのは、金輪際、去っていくものの手触りが怖いから、やめようか、やめにしようっか、なんて思ってよんでいたら、あなたは、と、わたしに呼びかけられているみたいで、もどれないのに、居た場所にもどされるみたいで、苦しさが増殖する。

 でもね、わたしは、やっぱり生を全力で肯定したい。だから、小説を書くしかないよね。

 だから、明日も、ずっと書く。ずうっと。


  素敵な記事なので、はらせていただきます。
本を読むって素敵だな。


https://note.com/manjou_yui/n/n9089c06dac38









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