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第八十九話 四谷の秘密

もくじ

 花火は九時前に終わった。ウッドデッキの橋詰広場に戻ったとき、思った通り座る場所がなくなっていたが、花火の終了時間までそう長くはなかったので、立ち見でも足が疲れることはなかった。

 人の流れに乗って、海岸通りを宿のほうに戻る。ただし、岡崎が教えてくれた暗渠に折れるつもりはない。港町の外れまで歩いて、山の上の岬公園に行くことになった。まっすぐ宿に帰っても、ヒマを持て余すだけだろう。体は疲れていたが、花火を見てみんな目が冴えてしまった。どこかいい場所ないの、という声に、岡崎が、それなら、と公園の名前を挙げた。月のない今夜は、星がよく見えるはずだという。

 海の家の裏手に差し掛かって、久寿彦が歩道沿いの防波堤に飛び乗った。何軒か立ち並んだ海の家の中には夜間営業しているところもあって、暖色の明かりが漏れる裏口から、賑やかな客の笑い声が聞こえてくる。店内でかかっている音楽は、ブラーの 「ガールズ・アンド・ボーイズ」。おととし大ヒットしたブリットポップの代表曲だが、今でもたまに耳にする。懐かしい、と久寿彦が歩きながらリズムを取る。

「危ないよ」

 美汐が歩道から久寿彦のハーフパンツを引っ張った。反射的に足を踏ん張った久寿彦は、かえってバランスを崩してしまい、防波堤の裏側に落っこちそうになる。よろけながら何とか体勢を立て直し、タイル張りの歩道に飛び降りた。

「殺す気かっ」
「ご、ごめん」

 久寿彦が目を剥くと、両手をすり合わせて謝る美汐。

 真一は後ろを歩きながら、ため息をついた。何やってんだか、と心でつぶやく。

 同時に、昼間、美緒と交わした会話を思い出した。砂浜まで泳いで帰る途中、四谷が美汐の秘密を知っているわけを尋ねかけたが、美緒は、長くなるからまたあとで、と一方的に話を断ち切ってしまっていた。

 そうだ。まだあの話の続きを聞いていない。

 振り返って美緒を探す。美緒はちょうど一人で列の最後尾を歩いていた。真一は足を止めて、後ろを歩いていた仲間たちをやり過ごす。

「何?」

 美緒が顔を上げて、真一に気づいた。昼間とは違う小ざっぱりした格好。白いTシャツにデニムのショートパンツ。ワンポイントで胸に入ったピンクのハイビスカスは、民宿の庭に咲いていたフヨウの花に似ている。

「昼間の話の続き」

 それだけでピンときたらしく、ああ、とうなずくと、気怠げに長い髪を掻き上げた。リンスの香りが広がった歩道で、少し警戒するように前を見て、歩調を緩める。真一たちの前は、真帆、夏希、西脇、益田が一塊になって歩いているが、会話に夢中の四人に、周りを気にする様子はない。喧騒に満ちた通りでは、普通に話す程度の声なら、ざわめきに埋もれてしまうだろう。だが、美緒はそれでも念を入れ、真帆たちとある程度距離が開いてから話し始めた。

 結論から言えば、四谷が美汐の気持ちを知ったのは、やはり偶然だった。

 真一は、美汐が悩んだ末に占いにハマって、その道に詳しい (かもしれない) 四谷のご託宣を仰いだのではないかという線も考えていたが、これは見当外れだった。

 話はひと月前の七月上旬まで遡る。バイト中、カウンターのアイスティーが切れかかっていることに気づいた四谷は、裏の倉庫まで紙パックを取りに行くことにした。倉庫は厨房の脇を通って、一度廊下の角を曲がった突き当たりにある。この時期、アイスティーはよく出るので、何本かまとめて取って来るつもりだった。

 薄暗い倉庫に入って、入り口付近の棚に手を伸ばした。業務用アイスティーの紙パックは、四谷の顔の位置と同じくらいの高さの所にある。ちなみに、もっと高い所に置かれた品もあるが、身長百九十センチの四谷は、踏み台なしでも大抵の場所に手が届く。

「筒川さん、今度の休みに買い物に行くんでしょ。私も一緒に行っていいかな」

 廊下の途中に入り口がある休憩室で人の声がした。美汐の声だった。

 忙しい時間帯が過ぎ去って、従業員がぽつぽつと休憩に入る頃。部屋には久寿彦もいるようだ。そう言えば二、三日前、久寿彦は、夏物の洋服が欲しいと言っていた。

「あ、ガソリン代は私が払うよ」
「いいよ、ガス代ぐらい」

 たぶん、清都に買い物に行くのだろう。このあたりの中核都市である清都に行けば、欲しい物はだいたい手に入る。駅前には、有名百貨店やファッションビルが立ち並び、裏通りには専門店も多い。

「えー、それじゃあ悪いよ。だったら、こうしよ。新しくケーキが美味しいお店が出来たんだって。私がおごってあげるから行ってみよう」
「そっちのほうが高くつくぞ」
「いいっていいって。ちょうど私も気になってた店だから」

 久寿彦の返事も聞かず、美汐は一人で話をまとめてしまった。四谷は片手で広げたエプロンの上に、二本目の紙パックを置く。静かになった休憩室から、テレビの音だけが聞こえる。休憩室のドアは薄く、倉庫の引き戸も、人の出入りが多い営業時間中は開けっ放しにされているので、音も声も筒抜けだ。

「あ、この映画、もうすぐ公開だね」
「あー、ミッション・インポッシブルね」

 昼の情報番組で、近日公開の映画を紹介しているらしい。廊下に漏れる 「スパイ大作戦」 のテーマを何となく聞きながら、四谷は四本目の紙パックをエプロンの上に乗せる。ずっしりと重みが腕に伝わってきた。

「筒川さん、アクション映画好きだったよね。私もトム・クルーズ好きなんだ。ついでだから、一緒に観ない?」

 棚に伸ばした四谷の手が止まる。今日の美汐はやけに積極的だ。普段、みんなの前であまり見せない態度。一緒に買い物をして、話題の店でケーキを食べて、映画を観て……。それじゃあ、まるで――。だが、二人が付き合っているなんて話は聞いたことがない。

 もしかして、聞いてはいけない話を聞いてしまったのでは……?

 そう思うと、背筋が寒くなった。 

「いいけど、雨が降ったらな」
「え、何で」
「みんなと海に行く約束してるから」
「海なんていつだって行けるじゃん。それに今年は梅雨明けが早いみたいだから、夏服買うなら早く買ったほうがいいよ」
「でも、もう約束しちまったしなあ」

 広げたエプロンの上には、アイスティーの紙パックがすでに五本。蒸し暑くなってきたこの頃、アイスティーはすぐに切れるから、もう一本くらい持って帰りたいところ。「スパイ大作戦」 のテーマにドキドキしながら、目の前の棚にそろりと手を伸ばす。

「それよりお前、時間大丈夫か」
「あ、いけないっ」

 基本的に休憩は一人ずつ。あとから来たのが久寿彦なら、先に休憩室に入った美汐はあまり長居はできない。

 ガタン、とイスを引きずる音。足音に続いてドアノブが回る音がして、美汐が廊下に出てきた。四谷はとっさに、エプロンごと紙パックを抱え込む。上目遣いでそっと廊下を覗くと、美汐が後ろ手にノブを握って立ち尽くしていた。うつむき加減で、顔の表情はわからない。倉庫は暗く、廊下は明るいから、物陰から様子を窺う四谷に美汐は気づいていない。

「いいかげん、こっちの気持ちに気づけっての」

 倉庫にドサドサと物音が響いた。美汐がハッと顔を上げる。

 持って生まれた性か、そういう星の下に生まれついたのか、こういう場面で紙パックを落としてしまうのが四谷芳一という男だ。四谷の間の悪さは、誰もが知るところ。

「はっ、はわわっ」

 四つん這いになって、慌てて紙パックを掻き集める。スラックスにじわりと濡れた感じが広がっていく。床に膝を着いたとき、紙パックの一つを踏み潰してしまったようだ。

 だが、それを悔やむ間もなく、頭の上に人の気配を感じた。顔を上げると、無表情の美汐が腕組みをして見下ろしていた。

「何よ、妖怪でも見たような顔しちゃって」

 ふんと鼻を鳴らすと、四谷の前にしゃがみ込む。見つめる目に力を込め、

「絶っ対に、誰にも言わないで」

 その気迫に、四谷はロボットみたいにカクカクうなずくことしかできなかった。

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