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第八十話 海の幸

もくじ

 ベースキャンプに戻ると、益田がひとり、タープの下であくせくとタコのぬめりを落としていた。ボウルにタコを入れてひたすら揉むという、けっこう根気の要る作業だ。益田が言うには、タコは三匹獲れた。葵が獲り逃がした場所を中心に、西脇と二人で丹念に探っていったら、潮溜まりに次々と発見できた。タコを締める際、腕に絡み付かれたらしく、肌に残った吸盤の痕が生々しい。

「美緒と西脇は?」
「あの二人は磯物を採りに行きました」

 手を泡まみれにしながら益田は答える。「磯物」 とは、磯で採れる小さな貝などの総称。食用になるものだけをそう呼んでいる。地域によっては漁業権の対象になることもあるらしいが、この海岸では採っても問題ない。

「シンさん、十徳ナイフ貸して下さい。俺も採ってきます」

 カニの下処理に二人もいらない。右手を伸ばした岡崎に、真一は海パンのポケットから十徳ナイフを取り出して渡した。これに付いているマイナスドライバーは、岩に付いた貝を剥がす 「いそがね」 の代わりになる。十徳ナイフは、アウトドアで遊ぶときに持っていると便利だ。ちなみに、この海岸で、いそがね等 「は具」 の使用は禁止されていない。

「さて、と」

 タープを出ていった岡崎の背中を見送って、真一は足元のバッカンに目を落とす。バッカンにいるカニは十五匹以上。ただ、すでに弱っているものも多いから、氷で一気に締めることができそうだ。氷は店の製氷機で大量に作ってきた。

「そっちも面倒くさそうですね」

 益田が額の汗を拭って言う。

 カニを締め終えたら、真一にも面倒な作業が残っている。ブラシでカニをよく洗わないと、料理に磯臭さがついてしまう。

「自給自足は何かと面倒だよ」

 だからこそ、この世には漁師がいて、魚屋がいて、料理人がいるのだろう。

「ですね。一緒にがんばりましょう」

 それからしばらくして、入り江の各所に散っていた仲間たちが続々と帰ってきた。

 まず最初にベースキャンプに到着したのは松浦たち。真一が海でカニを洗ってタープに戻ってくると、腕組みして待っていた松浦は、砂の上のクーラーボックスを顎でしゃくって、まあ、見てやって下さいよ、とニヤリと笑った。岡崎にからかわれたときの魂の抜け殻みたいな様子は跡形もなかった。バーゴンみたいに精気が宿った顔だ。

 タコを揉んでいた益田も、手を止めて近寄ってくる。

 どれ、と真一はクーラーボックスの蓋を開けてみる。

「おおっ」

 中には多種多様な魚が詰まっていた。茶色に赤やオレンジも交じって色彩も豊か。お歳暮のお魚詰め合わせみたいだ。松浦によれば、内訳はカサゴ十匹、アカハタ二匹、ムラソイ二匹、アナハゼ三匹、そして、関東ではなかなかお目にかかれない、高級魚のキジハタ (アコウ) も一匹釣れた。大半の魚は、あちこち歩き回った松浦が釣り上げ、竹原と坂戸が釣ったのはムラソイとアナハゼだけ。ただ、釣った事実に変わりはなく、二人とも満足そうだ。

「ターゲットを替えて大正解でしたよ」

 昨夜のイサキは不発に終わったが、根魚を釣ることにしたら、これが大当たりとなった。松浦たちは、西の山に穿たれた手掘りのトンネルを潜って隣の入り江まで足を伸ばしたが、ここは釣り人が滅多に来ないために場荒れがなく、カサゴは入れ食いだったという。

「お二人にお土産です」

 坂戸がクーラーボックスから小さめの魚をつまんで、真一と益田の前に差し出した。ハゼのような形。大きさはハゼより少し大きい。色も似ている――と思いきや、茶色の背中と裏腹に、口から下っ腹にかけて、毒々しいまでに鮮やかなエメラルドグリーンに染まっていた。クリームソーダみたいな色だ。いったい何を食べたらこんな色になるのか……。

「刺し身でどうぞ」
「釣った奴が食ってくれ」

 真一は即座に手を払って言った。トロピカルでグロテスクな見た目のこの魚はアナハゼ。刺し身でこれを食べる人間がいるとしたら、かなりのチャレンジャーだ。何せこの魚、皮だけでなく身まで青いのだから。それこそクリームソーダみたいな味がしそうで、真一は食べる気がしない。

「大丈夫ですって。このあいだ寿司の出前取ったら一貫交じってましたから」
「どこの寿司屋だ!」

 今度は益田と一緒に声を荒げた。そんな寿司屋があったら見てみたい。

 続いて戻ってきたのは、美緒と西脇と岡崎。色々採れましたよ、と言った西脇のバケツには、貝とカメノテ、それにイソスジエビを詰めた袋が入っていた。貝はマツバガイ、ベッコウガサ、ヨメガカサの三種で、ヨメガカサがいちばん採れたという。どれも市場に出回ることは稀だが、海辺の地域では普通に食べられている貝だ。カメノテは磯の珍味。エビのようなカニのような不思議な味がする。イソスジエビは潮溜まりにいる半透明で縞模様の入った小さなエビで、西脇が目の細かい網で獲ってきた。タコと一緒にリゾットにしたいという。

 仲間たちが続々と到着して、閑散としていたベースキャンプに活気が戻ってきた。何張りも寄り集まったタープの下に話し声や笑い声が広がると、空気の色まで明るくなった気がする。美緒はアナハゼが気に入ったらしく、松浦に頼んでアナハゼとのツーショット写真を撮ってもらっていた。松浦と坂戸たちもわいわい盛り上がりながら、自分たちが釣った魚を撮り合っていた。

 だが、のんびりしてもいられない。昼食の支度をする必要がある。

 足の早い小エビをクーラーボックスに移した岡崎が、バケツとザルを持って波打ち際のほうへ歩いていった。貝やカメノテを洗うのは岡崎の役目らしい。西脇はバーベキューコンロの火起こしにかかった。魚が釣れなかった場合に備えて、昨夜仕込んだタンドリーチキンを焼くつもりだ。真一と美緒と松浦は、魚の下処理を始める。鱗や内臓を取り除いた魚は、坂戸と竹原に海で洗ってもらう予定。海水で洗えば真水の節約になるし、旨味も逃げにくいから一石二鳥だ。

 あまり時間を空けず、真名井さんたちも戻ってきた。真名井さんはベースキャンプに帰り着くや、お、重い、と呻いてクーラーボックスを下ろし、そのまま砂浜に突っ伏してしまった。真帆と夏希が二人がかりでクーラーボックスを持ち上げ、タープの下に運んでくる。日焼け対策のためだろう、二人とも山道を歩いていたときと同じ服装に戻っていた。倒れ込んだ真名井さんには悪いが、これは期待できるぞ、と真一は胸が弾んだ。ウロコ取りの手を止めて、隣のタープへ向かう。

「じゃーん」

 集まった仲間たちの前で、真帆が、とくとご覧あれ、と言うようにクーラーボックスの蓋を開けた。

「おおっ」

 容器の中が、カメラのフラッシュを焚いたみたいに光った。比喩ではなく、本当に光った。どっさり詰まった銀色の魚体に、皆の目が釘づけになる。金色だったら、大判小判がざっくざく、とでも表現したいところだ。葵によれば、魚の種類はシマアジ、ショゴ (カンパチの若魚)、ワカシ (ブリの若魚)。ショゴがいちばん多く、次いでシマアジ、ワカシは数が少ないという。しかし、どれもいい型だ。シマアジは、四十センチを超えるものも交じっているのではないか。磯でこのサイズが釣れることは珍しい。

 凄い釣果だ。「龍宮にいちばん近い磯」 と言われるゑしまが磯が、ついにその真価を発揮したと言っていい。

 四人は西の岬の近くで釣りをしたらしい。ここはゑしまが磯のメインのポイントではないが、漁港の岸壁みたいに足場が良く、素人同然の真帆や夏希でも問題なく釣りが楽しめた。すぐそばに大きな群れがいて、竿を出した途端に食ってきた。竿は三本しかなかったが、一人は玉網で取り込みを手伝ったので、全員休むヒマなどなかった。雄大な外海と入道雲を望む釣り場は、最初から最後までお祭り騒ぎだった。ラムネ色の水の中で、ビュンビュンギラギラ光る魚体に、みんな大興奮だったそうだ。

「いやー、楽しかったあ。毎回こうだといいんだけどなあ」

 サンオイルの匂いを濃厚に漂わせながら、葵は満面の笑みを浮かべた。本当に心から楽しんだのだろう。うっすら日焼けした顔は、満ち足りたわんぱく少女の顔そのものだ。

「俺もそっち行きたったな」

 光り輝く魚たちに目を落として、真一はぼやいた。潮溜まりにイワシを見つけたときから、何となく釣れそうな予感がしていたのだ。窮屈な場所にイワシが集まっているということは……つまり、大きな魚に追われたから。

 ただ、今更それを言っても始まらない。葵も言う。

「でも、こればっかりは竿を出すまでわからないからね。私もシンさんたちがイワシを見つけたっぽいことに気づいたけど、まさかこんなに釣れるとは思ってなかったし」

「ま、日頃の行いってやつですよ」

 松浦がポンと真一の肩を叩く。

「いちばん行いの悪いお前に言われたくねえ」

 タープに笑い声が溢れ、真一は苦々しく言い返す。

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