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作文の思い出から反面教師

義務教育を受けるようになると、たくさんの字を覚え、書いたり読んだりするようになる。皆さんもそうだったでしょう。


今となっては理系寄りになった私も当時(小学生〜中学生)は算数よりも国語派で、本を読むのが好きだったし、文を書くことにも苦悩を抱くことはなかった。

一方で周りの子たちは、皆口を揃えて「作文が嫌いだ」と言っていたので「そんなもんなのかなぁ」と子供心ながらに不思議に思っていた。

ある日、六年生の頃の担任の先生から一人一人に「〇〇のチャンピオン」という賞状をもらった。先生がその児童に対し「ここが秀でている」と思ったところを褒めるといったものだ。
そこで私が受け取った賞状は「作文のチャンピオン」。意外だった。
この時初めて自分が作文が得意なのかも、と自覚したのだった。


月日は流れ、中学生になったある日、
国語科の担当教師に呼ばれた。
あるコンクールに応募する作文として私の作品を校内代表として提出したいということだった。
素直に嬉しかったが、喜んだのも束の間。
このあと苦行を強いられることになる。
そう、添削の嵐である。

まず、私が書いた下書き用の原稿用紙が目の前に置かれた。そこには赤字で書き込まれた教師の字。ほぼ真っ赤だ。
教師からああしろ、こうやって書け、ここの根拠は?などなど。とにかくこの添削が大変な作業だった。


ここまで修正を要するならなぜ私を代表にしようと思ったのか?とイライラしてきた。

一生懸命書いただけに、いくら先生とはいえ形を崩されるのは不服だった。
何なら、私の作文ではなくなっているのでは?そんな風にさえ思えてきた。

不満を抱きながら書いたその作文は結局賞を取ることはなかった。
それがかえって私をホッとさせた。
もしこれで賞を取ったならただの教師の自己満足でしかなかったろう。


ここで学んだこと。それは、
手を加えすぎない!
これに尽きる。
社会人になっても思えることだ。
看護助手の仕事をしているが、何でも患者さんにやってあげてもいけない。その人の能力を奪うことになるから。
同僚が自分の考えを口にしている時も最後まで聞く、遮って簡単に否定しないようにする。訂正したくなったらそのあとさり気なくすればいい。
それだけで信頼関係はグッと上がる。



あの頃、嫌な思いはしましたがこうやって「反面教師」として役に立っています。
どうもありがとう。
貴方のように何でも原形を崩して個性を失わせる人にはならないようにしますね、先生。

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