戦略的モラトリアム【大学生活編】(28)

後期も中頃。秋の深まりと冬の到来を同時に味わえるこの季節。だんだんこの境目の季節を楽しむことができるような年齢に差し掛かってきた。

飛び切り暑い夏

凍えるような冬

そんなわかりやすい季節よりも空の色と肌で感じる温度のミスマッチにふと気づく、そんな日常のちっぽけな発見がどことなく嬉しい。

何とか大学の仕組みと活用法も体得してきたところで、今度は「どのように過ごすか」を再考せねばならないと日々感じていた。あの研究会以降のボクはどこかおかしい。

講義を受けていても

「これが将来何の役に立つというのだろう」という疑問から

「役に立てるにはどうすればよいだろう」に変化してきた。

せっかくこんな遠くまで来て勉強しているのだから、モラトリアムを満喫する傍らで、何かを得て、どこかで活かしたいと強く考えるようになってきた。それはモラトリアム人間である自分の自己否定でもあり、心のどこかがこそばゆい。

とても恥ずかしくて友人にも言えたものではないが、確かに自分の気持ちはそっちのほうを向いていた。

「学者にでもなるか……そんなに簡単なことじゃないし。自分の仕事にするのもなぁ……」

そんなボヤキも多くなってきた。途方もないことを我ながらぼやいたものだ。自分の専門も自信を持って言えないのに……。社会学って何だろうって1年半学んだ今でもぼんやりとしか分からない。そんな自分に「学問を探求する」なんて大それたこと、人生を賭してやるものではないと思う。それこそ神絵の冒涜とも思われる。毎日、大教室でマイク片手にぼやいているあれら老人たちはきっと「これだ!」と思うものがあって、研究して今に至るのだろう……。自分にはそんな出会いがまだない。というか、あるのだろうか?


自分の将来について小一時間考えるだけで、とても疲弊する。いままでそこに思いが及ぶのを無意識に回避してきたツケなのかもしれないが、相当堪える。自分のだらしないモラトリアム生活に立ち戻って、また深夜のラジオに耳を傾けながら眠るのである。

♪ナインティナインのオールナイトニッポン!♪

しかし確実に自分の脳内革命が迫ってくる足音がだんだん近づいてきていることはわかっていた。

研究会に参加したあの日の出来事が数カ月たった今でも鮮明に頭に残っている。あの出来事が、あの出会いがモラトリアム人間の自分の中で少しだけの化学変化をおこしていた。毎日の講義、そしてSPIだの公務員試験講座だので周りはあわただしく動き始めている。

そして、自分は残りの2年間をいかに過ごすのかを考え始めていた。いや、正確には考え直していたのか。不自然な葛藤の答えを日々の生活の中に見つけようとしていたが、大学のに慣れた風景は僕に何も語りかけてはくれなかったんだ。


福島県のどこかに住んでいます。 震災後、幾多の出会いと別れを繰り返しながら何とか生きています。最近、震災直後のことを文字として残しておこうと考えました。あのとき決して報道されることのなかった真実の出来事を。 愛読書《about a boy》