見出し画像

僕たちはまとめて“お前ら”だった【エッセイ】

 中学時代、学ランで通学していた。詳しくいうと、学ランに白を基調としたスニーカー。
 スニーカーはワンポイント以上の模様は禁止で、入っていると職員室に呼び出される。ローファーや革靴は禁止で、履いていると職員室に呼び出される。
 学ランの着こなし方は腰パン禁止。髪型は長髪禁止。ネックレス・リストバンド・派手なベルト等も禁止。違反するともちろん職員室に呼び出される。
 夏服は学校指定のシャツで。大きいサイズは禁止。中に着るTシャツは白を基調としたもの以外禁止。全ての上着の左胸ポケットの上には名字を刺繍しなければならず、ないと職員室に呼び出される。
 カバンは学校指定の白い肩掛けカバン限定で、それ以外は職員室に呼び出される。
 自転車はママチャリ禁止、ヘルメット必須。ヘルメットの側面には名前の書いたシールを貼らなければならず、貼っていないと職員室に呼び出される。自転車の色をスプレーで変えたりしたら、職員室の奥にある放送室に呼び出され、あまり喋ったことのない教頭先生が出て来る。

 女子はもっと大変で、制服はセーラー服にスカート。
 靴下は白か紺で当時流行っていたルーズソックスは禁止。なぜかくるぶしソックスも禁止。履いていると職員室に呼び出される。
 スカートが短い場合も職員室に呼び出され、腰のあたりで折って短くしているのを直されていたらしい。
 言うまでもなく化粧・ピアス・茶髪は禁止で、違反すると職員室の奥にある放送室に呼び出され、あまり喋ったことのない教頭先生が出て来る。

 要するに、全員ダサかった。

 僕たちは、生徒手帳の服装説明図から飛び出してきたような格好しか許されていなかった。今で言うブラック校則のオンパレード。格好をつけたり、個性を出そうとしてはいけないのだ。
 それでもまだマシな方で、僕の入学する二年前まで男子は全員坊主だった。それが嫌で校区外の中学へ転校した先輩もいたと聞いたことがある。

 校訓は「自主・親和・創造」だったけれど、創造なんて夢のまた夢。どこを探してもクリエイティブな要素はなかった。
 しかし当時はそれにつっこめるほど冴えた頭は持っていなかったし、全てを当たり前だと思って受け入れていた。

 すごいのは今にも思春期の門をくぐろうとしている生徒にこれほどの校則を守らせていた教師である。強力な権威とカリスマ性がないと、そんなことできない。
 僕を3年間受け持ってくれた担任の先生は、それらを持っていた。男前で、笑顔が素敵で清々しかった。身長は180近くあり、ガタイが良く、大人になってもなお体を鍛えているような人だった。反抗しても勝てないな、と一瞬でわかる。
 さらに授業はわかりやすかったし、面白かった。また何より音楽に詳しくロックやR&Bをたくさん教えてくれた。たまにギターも弾いてくれた。校内で一目置かれていて、こんな大人になりたいと思わせてくれるような先生で、なおかつ、怒らせたら確実にやばそうな人だったのである。

 しかし彼の影響力が及ぶのは、僕の学年の2クラスに限られていた。違う学年の事にはほとんど口を出さず、他の教師のやり方を尊重していた。

 それが良くなかった。先生誰しもがカリスマ性があるわけではない。上級生のクラスでは、全くと言っていいほど統率はとれていなかった。

 特に僕が中1の時の中3は荒れていた。いわゆる不良、いや不良になれない『不良くずれ』が多かった。「歩きにくいやろ」ってくらいの腰パン。ピアスや茶髪は当たり前。なかには金・銀・赤・緑の髪の毛もいた。
 廊下の向こうから『緑・銀・赤』と並んで歩いてくるとイタリア国旗みたいで面白かったが、彼らの目はしっかりとメンチを切っていたので、ニヤニヤすることはできなかった。
 また、ノリか本気かはわからないけど、陰毛を青に染めているという噂を持つ先輩もいた。クレイジーと思われたかったのだと思うが、なんだか『陰毛を染める』という発想自体が、想像の範囲を超えていなくて拍子抜けした。

 さらに、完全に犯罪なのだが、家の原付で通学している者もいた。
 さすがにバレたらやばいと思ったのか、彼は学校近くの農協の駐車場に原付を停めていて、そこから歩いてきていた。歩く時間も計算して家を出たのかと思うと、滑稽で救いようがなかった。

 ある日彼は、2年の不良憧れ、いや『不良くずれ憧れ』に原付を貸した。借りた側は憧れの人に借りた、憧れの原付に乗れるものだから有頂天になり、勢いよくまたがった。しかし腰がシートにつく前にアクセルを回してしまい、原付だけが発進した。無人の原付はバランスを崩して暴走し、そのまま水田に突入した。
 僕は教室のベランダからその光景を見ていた。水田から原付を引き上げる不良の姿はほんものの阿呆に見えた。かんかん照りだったので、脳が湧いていたのかもしれない。後々、親に連れられて農家の方の家に謝りに行ったことも聞いた。不良も不良で、ダサかったのである。

 そんな真面目な1年と、少し不良に憧れている2年、不良になりきれていない3年がいる中学で、僕らに被害が及んできたことがある。

 6月の衣替えが終わり、夏服での通学が始まると『シャツ狩り』というものが始まった。これはシャツを没収するのではなく、シャツをズボンから出しているやつにお仕置きをする、というものである。
 いちおう校則ではシャツは出していても良かったのだが、不良のせいでシャツが出せなくなった。年下のくせにシャツを出しているのは調子にのっている、ということらしい。なぜ不良が風紀委員みたいなことをするのか、わけがわからなかった。
 しかも不良は僕の学年のカリスマ教師とは接点を持ちたくなかったのか、いつも昼休みなど、先生がいない時にやって来た。
 上の階から集団で降りてきて、廊下を我がもの顔で歩き、教室の中を観察し、シャツを出しているやつを見つけると廊下に呼び出してげんこつをするのである。だから授業中はシャツを出しているのに、昼休みや放課後はシャツを入れているという逆転現象が起きていた。もちろん3年やOBに兄弟がいれば、刑は免除だ。

 僕は二度ほど、げんこつをいただいた。

 一度目はトイレから出たところを見つかってしまった。二度目は帰り道にシャツを出したまま自転車に乗っていて、運悪く不良に会ってしまったときのことだ。「止まれ」と言われたので逃げたら、翌朝チャイムがなる前に教室に来た。まさかの登場だったので、油断してシャツを出していた周りの友達も「お前もじゃ!」と言われげんこつをされていた。申し訳なくも思ったけれど、ここまでくると理不尽すぎて面白かった。

 僕たちも僕たちで、馬鹿げたルールを律儀に守っていた反面、どこかで可笑しい事に気づき、楽しんでいたのだ。いないところで不良のモノマネをしたり、去っていく後ろ姿に中指を立てて笑っていたのである。
 また昼休みには、あえて僕らから上の階へ行き、シャツを完璧に入れた状態で廊下を堂々と行進したこともある。「文句ありますか?」というような感じで。
 別の日には、『じゃんけんで負けたものがシャツを出して上の階に行き、バレずに帰ってきたらセーフ』という肝試しみたいなこともやっていた。
 極め付けは、不良たちの体育の時間を見計らって「トイレに行ってきます」と授業を抜け出し、食べずにとっておいた給食のイワシフライを彼らの筆箱に入れてやったことだ。最高に興奮した。布製の筆箱からは、みるみる油が浮き出ていた。どのペンも油まみれになったに違いない。しかしイワシはポケットの中に隠し持っていたので、僕も返り血ならぬ返り油を浴びた。

 双方がバカだった。全力で不良をしようとしている先輩に、いかにバレずに仕返しをするかばかり考えていた。素行が悪いのは不良だったが、性格が悪いのは僕らだったのかもしれない。

 夏休みが終わり二学期になってもその関係性は続いたまま、やがて涼しい季節になった。再び衣替えがきて、シャツから学ランへと戻った。
 僕はげんこつ二発で耐えたと思っていたが、ここで驚くべきルールが追加された。友達と昼休みに廊下を歩いていると、いきなり三年生六人に囲まれたのだ。

「はいお前、一発な」
「え、何でなんですか?」
「いや、出とるやん」
「いや、シャツ入ってますよ。ほら」
 僕は学ランをめくって、中のシャツをズボンに入れてることを必死にアピールした。
「出とるでないか、これ。これも中に入れなあかんわ」

 信じられなかった。

 不良は学ランの上着をも、ズボンに入れることを要求しているのだ。正気じゃない。それがおかしいって事くらい、12歳の僕でもわかる。
 そのときゴツンと脳内に響き、三発目のげんこつをありがたく頂戴した。そして、今でも謎なのだが、友達は「お前はええわ」と許されていた。
 なんでも、僕は顔が目立つから入れないといけなくて、友達は目立たないから入れなくていいらしい。謎すぎる。学ランなんかズボンに入れて歩いていたら、さらに目立つだろうが。
 しかし直接反抗することは出来ず、日本の中学生で僕だけの、オリジナルなファッションが誕生した。中世ヨーロッパの貴族みたいに、太ももあたりがゴワついていた。

 そして、想像に難くないことだが、冬になりアウターを着るようになると、僕はコートも学ランの中に入れさせられた。ズボンの上半分はさらにパンパンで、ベルトは一番手前の穴でも閉まり切らなかった。彫刻刀で穴を開けるしかなかった。
 こうして市内で最もダサい中学の、最もダサいやつが完成した。最初は笑っていた同級生の目にも、だんだん憐れみが帯びてきているのがわかった。

 三学期になると、ついに不良に天罰が下った。
 放課後、校区内で唯一のコンビニに寄ったときである。店内で漫画を読んでいると、不良二人がやってきた。「うわ、来たやん」と思い、僕はトイレに逃げ込んだ。
 手洗い所で素早くコートと学ランをズボンの中につめこみ戻ると、店内に入ってきた不良に話しかけられた。

「何しよん?」
「ジャンプ読んでました」
「ほうなんじゃ。お前、服だしとっただろ」
「出してないですよ」
「嘘じゃ!」
「ほんまですよ!」
「ぜえったい、嘘じゃ!」
「ほんまですよ、信じてくださいよ」
「ほな、まあ今日はええわ。どっかいけ」

 無茶苦茶な言い分である。先にコンビニにいたのはこっちなのに。なんででどこかに行かないといけないのか。
 さすがに腹が立ったので、店を出て自転車に股がる前にコートも学ランも全部出した。そして不良の自転車を蹴り飛ばしてやった。初めての目の前での反抗。二台が玉突きになって転けたときの“ガッシャン”という音が最高に気持ちよかった。
 店の中から、血相を変えた不良が何か言いながら飛び出してきた。僕が自転車にまたがり逃げると、不良は走って追いかけて来た。
 自転車の僕、走る不良。差はどんどん開いていく。
 この時ほど、車輪に感謝した日はない。あっという間に不良は見えなくなった。めちゃくちゃドキドキした。今までの人生でこんなに体が熱くなったことはなかった。心臓が脈打つのがわかり、はっきりと自分の鼓動を感じていた。

 僕はペースを落とし、公園で一息ついた。

 明日学校でげんこつされるだろうが、どうせ不良はもうじき卒業。一発くらい我慢しよう。それより正面から反抗した自分に満足していた。反体制を標榜することは簡単だが、実際に行動するのとは意味が全然違う。これは語り継がれる行動かもしれない。そんなことを考えながら、公園のトイレで用を足した。

 そして自転車にまたがり、帰宅ルートを考えながら公園内をぐるぐる回った。この公園は校区外にあり、あまり来たことのない場所だったのだ。
 さらなる事件が起きたのは、コンビニの前を通らなくていい方法を思いつき、公園を出ようとしたときのことだった。
 不運なことに、向こうからさっきの不良が来た。勘弁してくれよ。
 これはあとあと知ったことだが、ここは最近、不良がたまっている公園だったらしい。
 僕は反対方向に逃げようとしたが、行く手を遮られ捕まった。悲劇。完全に怒っている。
 僕は胸ぐらを捕まれ「お前マジで殺っそ!」と言われた。震えた。
 げんこつじゃ済まないかもしれない。
 そしてもう一人に「おい」と言われ、向くと、持っていたコッペパンを開いてピーナッツクリームを顔面に押し付けられた。屈辱。腹がたつ攻撃である。僕は3秒くらい押し付けられたあと、バランスを崩して転んだ。不良二人は、ひゃはは、と笑っていた。

 その時である。大きな声で「やかましいんじゃ」と聞こえた。

 声がした方を見ると、見たこともない不良が六人いた。彼らは隣町の、つまりこの公園のある校区の不良だった。彼らの中学は人数も多く、しっかり悪名も高い。
 ダメなことだがちゃんとタバコも吸っている。全員が全員、喧嘩が強そうで、どこか美学が感じられた。不良の中のエリートだった。

「なに勝手に公園来とんじゃ、ボケ」
「え、いや」
 僕の先輩は明らかにビビっていた。ざまあみろ。
「最近〇〇中のやつが公園来とうって聞いたけん、来てみたらお前らか。調子のっとったら、いてまうぞ」
「……」
「俺が言よること、わかる?」
「……」
「何か言えやゴルア!」
「すいません」

 爽快だった。彼らにとっては、僕も不良もひとまとめに“お前ら”だったのである。

 シャツを入れさせるやつ、入れるやつ。
 げんこつするやつ、されるやつ。

 そんな陳腐なヒエラルキーはものの見事に崩壊した。
 僕も、不良ふたりも、隣のしょぼい中学のしょぼいやつだった。

「謝るんだったら、最初から来なやボケ」
「……」
「わかったんか?」
「はい、もう来ません」
「わかったら、はよどっかいけ」
 僕ら三人はすぐに自転車にのった。今回のどっかいけは妙に納得できた。

「おい、他のやつにも、言うとけよ」
「はい、言うときます」
「ほな、いけ」

 僕たちは自転車をこぎ出した。公園の出口へ向かいながら、不良に「絶対言うなよ、他のやつに」と言われたので、絶対に言ってやろうと思った。
 今さら意地を張ってどうする。僕がコートを学ランをズボンに入れてた分だけ、恥をかけばいい。
 最後にエリート不良に「おい」と呼ばれ、振り向くと、彼らは「これも持って帰れ」と言って地面に落ちていたコッペパンをこちらへ蹴ってきた。
 僕の足元へと転がってきた砂利まみれのコッペパンは、少しだけ美しく見えた。

面白いもの書きます!