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台割、トーベ・ヤンソン、カスタード

土曜日
昨日の雪と雨が嘘みたいに晴れてあたたかい。

早起きして朝からだらだら散歩をしようと思っていたのに、目が覚めたらもう9時だった。
せっかくだから、そのままもっとうんとだらだらすることにして、10時すぎまで二度寝をした。

少しまえまで、目が覚めたままベッドにもぐっていると、どうやって起き出したらいいのか分からなくなっていた。
充電器につなげたままのスマホを毛布の中に引っ張り込み、息を殺して、たいして見たいわけでもない動画を何時間も見続ける。
裸にならなくていい安心感と、裸にならず(お金を稼がず)にいる罪悪感と、結局明日になれば誰かの前で裸にならねばならない憂鬱と。
そういうものに耐えていた。
誰にも見つからないように、じっとしていた。
でも、誰かに見つけてほしいような気もしていた。
誰か。性風俗客や性風俗店の人間ではない誰か。

10時すぎ
起き出して、思いがけず力強い日差しの中で、窓を開ける。
風が入って、カーテンレールに干したままのコートが揺れた。
なんだか気分よく気怠いので、今日は洗濯も掃除もサボることにする。
都合がいいことに、明日もまあまあ天気がいいようだ。
明日やればいいや。
お腹がすいていたので、昨日のみそ汁の残りにネギを入れて、冷凍ごはんを解凍して、ツナ缶としょうゆと味の素をまぜこんで焼いた卵焼きを食べた。

友達とZINEを作ろうと話していて、なんとなくの台割を作ろうとA4の紙を折って重ねてホチキス留めしたのが月曜日。
なにをどのようにしたらいいか特に思いつかず、折ってホチキス留めした紙束はそれっきりテーブルの下の台に放置されている。
デザインやレイアウトの勘というか才能というか、そういうのがわたしにはあんまりない。
まあ、また友達と相談すればいいか。
「編集の教科書」や「はじめてのデザイン」の上に紙束を戻し、ソファーに寝そべってトーベ・ヤンソン短編集を読む。

12時すぎ
小腹がすく。
黄体期であるためか、どうにも甘いものが食べたい。
わたしルールで、黄体期の甘いもの欲には極力抗わないことになっている。
我慢して抑えつけたところで、わたしは素朴な軟弱者なのでうまくいかないし、あごに吹き出物が出るくらい、たいしたことではないからだ。
1キロでも体重を増やすわけにいかず、これ以上太ももや腰に贅肉をつけるわけにいかず、体臭がきつくなるわけにいかず、吹き出物など作るわけにいかなかった、あの頃。
わたしの身体は全部売り物なので、きれいに磨き、保湿し、適度な細さと柔らかさを保つことが至上命題だった。
そしてその身体を、知らない男の前でさらけ出し、好きにまさぐらせることが仕事だった。
固くささくれた指の皮が刺さって痛くてもできるだけ我慢し、黒く汚れた爪や、黄ばんだ歯や、たばこの臭いがしみついた舌や、客の性器が、自分の身体にこすりつけられることを許すのが仕事だった。
「それは痛いです」と伝える際にもお客様の気分を害してはならず、自分こそがお客様からの愛撫を求めているのだと示さねばならなかった。
痛みや危険に警戒していることがお客様に伝わらないよう配慮することは、業務上、初歩的な心構えだった。
その心構えと無防備さによって危険や痛みへの対応が遅れても、それはわたしの責任だった。
自分にできる限りの我慢と努力できれいにきれいに磨き上げた身体を、お客様の射精のために使わせる仕事。
この身体は性的な売り物であるから、性的な部分をふくめたほとんどすべてを、お客様の好きにさせることは基本サービスだった。
あの頃。

今のわたしはそんな心構えを求められることはない。
吹き出物ができようが、すねが寒さで乾燥していようが、太い脚にフレアスカートが似合わなかろうが、わたしはひとりの人間として甘いものを欲し、健康のためだけに健康を考慮しながら、自分の欲求と対峙する。

今のわたし。
あの頃のわたしだって、そんな心構えをする必要はなかったはずなのに。
あの頃のわたしも、ひとりの人間であったはずなのに。

久しぶりにカスタードを作ることにして、台所へ向かった。
あれなら家にあるもので作れるし、たっぷりできるからパンやホットケーキに使うこともできる。

卵黄2個、薄力粉大さじ2、上白糖大さじ3、牛乳200ml
牛乳以外の材料を、全部ボウルに入れてダマにならないようすり混ぜる。
次に牛乳を小鍋で沸かす。
沸騰する寸前に火を止めて、ボウルに少しずつ加える。
はじめはほんのちょびっと加えて、そのたびにボウルをよく混ぜ、最終的に全部混ぜあわせる。
ダマがなくなるまで混ぜたら、ボウルの中身を鍋に戻して、ごくごく弱い火にかける。
ここからは一瞬も油断がならない。
スプーンか木べらで、鍋肌をこそぐように優しく混ぜ続ける。
卵液はどんどん固まるので、固まった部分が焦げないように混ぜ続ける。
ちょっとゆるいかなというところで火を止めて、固まりが偏らないようにガーっと混ぜたらできあがり。
バターを小さじ1くらい混ぜこむとたまらなくいい匂いになる。
バニラエッセンスを入れてももちろんいい。
タッパーやお皿やビンに入れて、フタかラップをすれば3日くらいもつ。

わたしはこれが好きで、できたて熱々のところをスプーンですくって食べると一瞬でカラにしてしまう。
クリームを練った小鍋を洗うのが手間なのでめったに作らないが、めったにないことでよかったと思うほどだ。
ティースプーンで湯気の上がるたまご色のクリームをすくいとり、そっと口に運ぶ。
たまごと砂糖が溶けあった甘さに、自分の頬がほころんでいくのが分かる。
せっかくだから、コーヒーも淹れてしまおう。

牛乳をたっぷり入れたコーヒーと、まだ温かいカスタードを持って、部屋に戻る。
読みかけの本が山になっている。
掃除をサボったついでに、ベッドも起きた時のままだ。
開けっ放しの窓の向こうから、街道を行き交うクルマの走行音が届く。
息を殺さないでいい部屋。
息を殺さないでいい世界。

まもなく春が来る。
このおだやかな晴れ間も、
熱々のカスタードクリームも、
次会うまで放置された台割の紙束も、
トーベ・ヤンソンのユーモアにあふれた物語も、
自分の身体を売り物として磨くことが当たり前とされる“仕事”も、
女の身体を買ってその上に射精するのが当然の権利だと信じる“お客様”も、
みんな同じ空の下に在る。

みんな同じく、今も、この世界に在る。

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