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「お弁当」が「母親」の中身を作り、女性抑圧の再生産をしているという話

Japanese Mothers and Obentos: The Lunchbox as Ideological State Apparatus という文献、アルチュセールの国家のイデオロギー装置について調べている時に見つけました。日本で母親業をするものとして、とても面白かったので、日本語にして響いたポイントをメモ的に書いてみました。この文献を書いたアリソン(Anne Allison)は、文化人類学者で日本について研究、子どもを日本(東京)の保育園に通わせて、日本独特のお弁当に興味を持ったそうです。※最後の感想以外は、上記リンクのアリソンの文献によるものです。


国家のイデオロギー装置

この文献のフレームは、アルチュセールの「国家のイデオロギー装置」の概念を用いています。「国家のイデオロギー装置」とは、国家が庶民を支配するために、人々が自分から国の言うことを聞くように仕向ける機関のことで、これによってずっと搾取する人搾取される人の関係が続くとされています。

また、近代化以降の資本主義社会では「学校」がその主力装置で、支配階級は賞罰、排除、選抜といった方法で、人々を調教している、としています。ちなみに、「学校」以外のイデオロギー装置には、「宗教」「家族」「法律」「政治(制度、政党など)」「組合」「メディア」「文化(スポーツ、文学、芸術など)」があります。

著者のアリソンは、「お弁当」は、強制ではないけれども、お母さんと子どもの幸せの象徴のようにみせかけることで、国家が園や学校を通して母子を操作するイデオロギー的な意味とジェンダー的な意味が込められていると指摘しています。

アルチュセールは、権力はみんなが行うようなことに姿を変えて日常生活の中に溶け込み、人々は自分で進んで管理されるようになったり、自分は何者かという考えをコントロールされたりするようになる、と考えました。そこで、著者のアリソンは、「お弁当」も、実は権力が姿を変えたものなのではないか、と考えたのです。


日本食という特別なもの

彼女は、日本では「お弁当」というトピックの話題が盛んで、しかも、子どもに栄養を与えるという実用的な意味をはるかに超えた意義が与えられていることに驚きました。そこで、その意義について参考になる文献を紹介していきます。

ドナルド・リッチーは「Taste of Japan」 (1985年)で、

日本食は「大きなものは許されない」ので「小ささ」「分離」「断片化」という原則にしたがい、一口サイズにカットされ、小さな食器に少量ずつ盛られている。視覚的には、コントラストが意識されていて、色、質感、形のためにカットされたり変化を加えられている。容器は中身が「自然」に見えるためのもの。食材は新鮮でなくてはならず、毎日買い物をし、複数の食材を生のままか、最小限の調理にし、食材が持っている「自然」を強調して、見た目も「自然」を表現するために手を加えたもの、

と述べています。

さらに、ロラン・バルトの「神話作用」では、

日本では食べものに「神話的」な別の意味が込められていて、「食が文化の象徴として利用されている」と指摘しています。多くの日本人が海外で、ちゃんとした「本物の」日本食が食べられなかったり、米が食べられないと困ってしまうのだ

とあり、アリソンは「日本人は食を通じて日本人であることを確認」していて、「お弁当」には「日本食」と同じ意味(完璧、区別、小ささ、コントラスト、自然、美)が込められているとも考察しています。


日本の教育システム

次に、「お弁当」にまつわるルールは、母親や子どもが期待されるジェンダーの役割を社会化するものだと指摘し、日本の教育システムの特徴に触れています。まず、「学校」とは、アルチュセールの言うようなイデオロギー的な国家機関であり、長時間過ごすことで、社会のための知識を形成し、行動を強制するための主要な役割りを担っています。ジェンダーや階層など、生徒の属性によって社会が何を望んでいるかを教えられ、社会で何者になるのかによって必要なものを身に着けていく、というわけです。

日本は、国家が教育の体系化に大きな影響力を持っていて、教育のカリキュラムから課程まで、ほぼ全て中央集権的に管理されています。公立学校では同じカリキュラムに沿って、同じ構造に従い、国家が規定した教科書による授業、教師は国の基準で選別され、教育委員会は選挙ではなく内輪で任命されいます。そして、生徒は高校入学を妨げる可能性のある「秘密のレポート」(内申書)を書く法的権限を与えられた教師に従うよう、制度によって促されているのです。

日本の教育でさらに強力な作用を持っているのは、「学歴社会」の原則です。大人になってからの職業やキャリアは、通った学校の名前で決まるという特徴があります。卒業校の名前こそが、どこで働くことになるかを決める重要要素で、しかもその人を測る「唯一」の要素です。つまり、「入試」によって将来のキャリアが決定づけられるのが日本の仕組みです。そのために、学校入学前から、試験のための準備が重視されていいます。それは、「指示に従う」ことであったり「言われたとおりにする」ということ、そして「がんばる」ということで、これらは、国家による意図(命令)として学校で教えられているのです。

幼稚園、保育園は、義務教育ではないが、日本では他の先進国よりもこの就学前教育を受けている子どもの割合が高いのが特徴です。幼稚園は、文科省管轄下にあります。ここで子どもたちが学ぶのは、読み書きよりも「日本の学生になるための方法」で、「日本の社会秩序」のためのルーティンを学びます。幼稚園で子どもが日々行うことは「子どもたちが、これから始まる厳しい公教育にスムーズに入れるように準備すること」で、ここで「集団生活」のルールを学びます。


「お母さんがつくるお守り」で困難に立ち向かう

日本の「集団生活」について論じたピーク(1989)によると、

幼稚園、保育園に入るということは、家庭から「現実の世界」への移行を意味し、一般的に日本の子どもには難しく、トラウマにさえなる。

そこで、「お弁当」は、母親の手で家庭の味として作られることで、子どもの混乱を和らげる(お守りのような)役割があると指摘しています。家庭は温かなウチで学校は厳しいソト、家で何かを生み出す(手作りする)のは、「ソトの学校で起きる困難に立ち向かえるように、子どもを鍛え、励ます」ことができるとされ、励ますために手作りするのが母親の役割で、母性だとされているのです。「お弁当」は、細々した準備やアイテム購入まで膨大な労働力を必要とし、カジュアルさ(手抜き)は許されないのです。


「お弁当」のルールで「日本人になる」

園には「お弁当は残さず食べなくてはならない」というルールがあります。これは保育士にとっては非常に重要な指導項目ですが、子どもはなぜ残さずに食べなくてはいけないのかは理解できません。園の主な目的は子どもたちに日本の教育のパターンや厳しさに触れさせ、教え込むことなのです。

日本の教育は、誰が見ても楽しいものではありません。日本では、学ぶことは苦労をともなうことで、選択の余地もなければ、楽しみもほんどありません。お弁当は、全身全霊をかけて食べるようにと指示され、強制されます。歌を歌ったり、お弁当を作ってくれたお母さんに一斉に「ありがとう」と言ったり、全員が食べ終わるまで席についていたり、お茶を注ぐ係がいたり、「食べることに高いドラマ性」を持たせています。

先生は、時間がかかる子を励ましたり叱ったりします。食べるのが遅い子どもはこの「儀式」がうまくいかず、しまいには母親は呼び出され、お弁当の内容や量などの指導をされることになります。著者のアリソンは彼女の子どもが日本の幼稚園でやっていくための園の指導が、日本語の習得よりも、「お弁当」を食べきることに熱心だったと言っています。「お弁当」の時間には「指示に従うこと」「規則に従うこと」「学校制度の権威を受け入れること」というメッセージ(命令)があるわけです。

シュタイナーやモンテッソーリ園とは違い、一般的な園では、日本のあらゆる社会的・制度的慣行に価値を置き、非常に高度に儀式化された日常とカリキュラムで運営され、儀式の形態そのものが意味を持っています。例えば、1日のルーティン、1週間の時間割、年間行事です。これらの儀式には熱心で、秩序が求められ、考えらないほど、子ども達は規律と自制心が求められているのです。

彼女の息子のデイビッドは、言語や文化的スキルを身に着けることよりも、園での日常的な習慣を身に着けたことで、学校に馴染み、他の子どもにも同化していきました。つまり、外部から強制されていたものがイデオロギー的に必要となり、日常的な慣習がソトからウチに移行、つまり他人のものから自分のものへと変わったのです。つまり、「日本人になる」必要があり、先生が「日本人」であることを認識するのは、お弁当を時間内に食べきるといった慣習で、それができないと、先生から叱られるだけでなく、他の生徒から拒絶されるので、慣習を身に着けることで、イデオロギーを取り込み「日本人になった」のです。

日本の園では、次から次へとこなさなくてはいけないスケジュールとなっていて、それをこなせる子とこなせない子を区別します。こなせない子には罰則があり、子どもは罰せられないために学びます。また仲間に受け入れられることを求めて、高度に秩序化された中に組み込まれたいと思うようになります。アルチュセールが、自分自身のものとして馴染んだ時にイデオロギーが機能し始める、と言った通りのことが起きています。ローレンも、日本の子どもは、基本的なルーティンを正確に一貫して行うことで、「他の人と一緒にいること」「他の人と同じように考えること」「他の人と一緒に行動すること」を学ぶと指摘しています。


お弁当トレーニングの成功は母親の責任

「お弁当」は母親に対しては、また違った側面を持っています。自分が作ったものを子どもに食べさせるという「母親の責任」があり、お弁当を時間内に全部食べられるかというのは、子どもよりも「母親」の腕にかかっているとされています。そのため、日本には「お弁当」にまつわる母親同士の会話は日常的で、メディア記事にも、アイデアや写真が掲載されでいます。主婦向けの雑誌では「最初のお弁当は、お母さんも子どもも不安なものです。子どもが好きで慣れているものを少しずつ用意してあげましょう」などと、ハウツーマニュアルが書かれています。また、園からもお弁当ガイドラインが配られたりします。これらには、

1)食べやすいようにする
2)早く完食できるように、量は少なく
3)慣れてきたら、子どもが嫌いな食べ物を入れて、好き嫌いをなくす
4)アイテム(かわいい爪楊枝、アルミカップ、ナプキンなど)を追加して視覚的なバリエーションをつくる
5)お弁当袋など、お弁当に関係するものは、お母さんの手作りが望ましい

といったことが書いたあり、さらに年長では箸を使ったり、風呂敷を結べるようになったり、お弁当を手先の運動のトレーニングとして使えるようにすることを指示されます。これらを達成できるかどうかの成果で、母親は評価され、お弁当も評価されるのです。さらに「日本食」としての特徴もお弁当には当てはまり、小さなハンバーグとごはんでクマを作ったり、リンゴを花に見立てたり、細々と工夫する必要があるのです。

日本の母親は、子どもを支え、励ます役割が与えられていて、子どもの勉強のために鉛筆を削ったり、夜食を作ったり、塾の送り迎えをしたり、子どもに合った学校を調べたり、先生に相談したりと、仕事は尽きません。女性は、子どもが成功すれば認められ、失敗すれば非難されます。


「母性」で自己表現するしかない母親

入園時点で、母親は調教されるかのように多くのことを求められます。入園前に母親がしなくてはならない事柄が書いてある冊子(入園のしおり)を渡され、そこには、手提げバッグや入れ物を作ったり、正しいサイズの名札を正しい場所に縫いつけるなどが書いてあります。入園後も、保護者会に出席したり、遠足に付き添ったり、さらには毎週上履きを洗ったり、急な持ち物にも対応するよう求められたりします。そのため、仕事をする余裕を持つことはできません。働いている女性はそのことを秘密にしたり、子どものために十分な努力をしていないと先生から責められたりする傾向があります。「母性」とは子どもの園や学校を通してシステムとして作られており、家に閉じこもって子どものための仕事をするのが義務という暗黙の了解がなされているのです。

マルクスは「労働こそが人間の本質」だと考えました。アリソンは、このマルクスの考えを、お弁当作りに過剰なまでに手をかける日本の女性に当ては得て考えました。ここまで熱心にできるのは、自分自身を表現することになっているからだろうと考えたのです。日本の女性は、家政婦、母親、妻としての役割を強く求められていますが、役割の中に楽しみを見出しているように見えます(日本人以外は役割からはなれて楽しむ時間を持つ)。子どもたちと同じように、彼女たちは先生からだけでなく、互いに監視し、自分は他の母親からみて良い母親であろうとし、他の女性が従順な母親であることを確認するのです。

「日本で母親になるということは、他のすべてを排除することだ」とこの文献のための情報提供者でオペラ歌手の女性は言います。

母親になってから、ほんの少しのアルバイトでもいいから歌いたいと思っていたけれど叶いません。常に不満を抱えていましたが、不満を抱えているようには見せないようにしているんです。

アリソンが見た全ての、日本で母親をしている女性は、持てるすべての創造性、知性を母親業に注いでいたのです。


「お母さん」から利益を得る日本国

お弁当は、文化的、料理的にも日本の社会の秩序を精密さを感じさせます。母親(生産者)にとって、作ることは義務であり、お弁当を作ることで、自分の役割の枠内に収まり、懸命に働かなくてはいけなくなります。また、子どもを育てるのは、男性ではなく、女性であるというメッセージも込められています。子どもに栄養を与えるだけでなく、文化のイデオロギーを支えているのは、男性ではなく、女性であるというメッセージもあります。

日本国は、この仕組みによって利益を得ています。まず、従順で勤勉であるように社会化された男性の労働力は、家事や家族の世話のほとんどを妻に頼ることでうまく引き出せます。そして、女性は家庭内コスト(子どもの莫大な教育費を含む)を支払うために労働市場への参入を余儀なくされながらも、母親としての負担が大きいために、低賃金パートタイムに甘んじるほかなく、社会の安価な労働力の供給源になるのです。

母親としての女性は、幼稚園、保育園から始まる日本の学校のイデオロギー装置の中で活動するだけでなく、それ自体がイデオロギー的な国家装置として働いているのです。つまり、「母親(お母さん)」は国家のイデオロギーなのです。ゆえに、戦後の日本の教育が平等主義的で民主的で、ジェンダー差別の意図や目的がないという考えは、実際には成り立たないのです。日本の料理や母親の在り方などの文化的慣習の中には、大人としての立場や振る舞いが、生まれた時の解剖学的性別(男か女か)にすべて由来しているという世界観があります。

もし母性が国家によって監視され、操作されるだけでなく、イデオロギー的な教化のための道具にされているのであれば、女性は「母性」を再設計することで、政治秩序を覆すことはできないのであろうか?という疑問があります。この点について、一般的なお弁当を作らない母親の下で育った女性(アリソンの知り合い)が、「女の子として」ではなく「一人の人間として」自分で考え自分の足で立つ生き方をする女性になったという身近な例があります。彼女が文化的・思想的に慣習にとらわれない生き方をしているのは、お弁当によるイデオロギーで操作されなかったからとは考えられないだろうか。と、アリソンは疑問を投げかけて終わっています。


この文献を読んで

これは1991年の論文です。ここで母親として観察された女性は現在55歳から60歳くらいでしょうか。ちょうど「女性の活躍」について盛り上がり、田嶋陽子さんをテレビでよくお見掛けしていたような時代です。均等法第一世代が総合職として就職し数年たったころで、この年には大ヒットドラマ「東京ラブストーリー」が放映されています。主人公のリカは「ねえ、セックスしよ!」と、女性は受け身であるという価値観を覆すセリフを言うことで、女性に主体性がある時代になったと世の中を驚かせ、さらにはこのドラマの中では、女性総合職らしくリカにロサンゼルス赴任の辞令が出たりもしました。

しかし、アリソンの言う、国家が「お母さん」から利益を得ている構造は変わったでしょうか? この文献から30年、世代が変わって、大卒女性の進学率は増えました(1991年16.1%、2018年50.1%)が、「母親」という国家イデオロギーは変わったのかと言われると、この文献には現在母親をしている私にも思い当たるところがたくさんあります。つまり、何ら変わっていないのでしょう。このイデオロギーが変わらない限り、「母親になったとたんに、全てを失う」という日本女性の人生は続くのかもしれません。

できることは、「よい母」「よい子」「よい家族」の日常風景として形を変えているイデオロギーに気づき、習慣をやめる、あるいは変えてみることなのかもしれません。



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