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【文芸ムックあたらよ創刊号掲載】巡礼者〈ペレグリヌス〉たち【11/13発売・先行公開】


巡礼者〈ペレグリヌス〉たち

 常闇の中で、ぱちぱちと軽やかな音を立てながら焚き火が爆ぜている。髪や衣類を抑えながら炎に寄り添って、咥えたばこに火を点ける。一気に吸い込んでしまうと、冷たく凍りついた外気が肺に這入り込んで凍傷になってしまうから、ゆっくりと慎重に煙を吸い込む。肺いっぱいにニコチンが満たされる幸せを享受しながら、隣に座っているはーちゃんにたばこを渡す。
「ふう……」
「はあ……こほっ、こほっ」
 小さく咳き込むはーちゃんからたばこを受け取って、もう一度煙を深く吸い込んで吐き出す。そのようにして肺の運動を幾度か繰り返しているうちに擦り切れてなくなってしまったたばこを分厚い氷に押しつけてから、あたしは「うっしゃあ」と気合を入れながら立ち上がった。火のそばに座っていたにも関わらず、凍りついたダウンジャケットやパンツがぱりぱりと音を立てる。
 真後ろに停めてあるワンボックスカーのリアゲートを開けて、串刺しの魚を取り出し焚き火に寄せる。じきにいい香りが漂い始めて、お腹がくうと小さく鳴った。
「……っし、焼けたでえ。食べよか――あ、せや。肉もいっとく?」
「おけおけ、いこっか。私、出してくるね」はーちゃんは車から肉の塊を取り出すと、焚き火の上に設えられた鉄板に豪快に放り投げた。ばちばちと激しい音を立てて、肉が焼ける芳醇な香りが立ち込める。「んー、最高! 今日は豪勢でいいね!」
「明日は十日に一回の補給日やからなあ。念のために食料を溜め込んどったけど、ここらで一気に消費しても許されるやろ」
 塩気の強い魚を咀嚼し、ぬくめた蒸留水と共に嚥下する。体内がじわりとあたたかくなり、心地よい気持ちで満たされる。
「そうだね。あっ、なんだかいい匂いが漂ってきた。あっちもほら、ちょっと豪勢なかんじじゃあない?」
 数メートル先に停車している仲間たちに手を振ると、彼らもご機嫌な様子で手を振り返してくれる。
「ほんまや。今日は巡礼者ペレグリヌスのみんなも、豪華なディナーと洒落込んどうみたいやなあ。明日は補給日やし、もうすぐ聖域サンクチュアリやし、なんやええことありそう」
 飽きるほどに見上げた満天の星空を眺めながら、これまでの旅路に思いを馳せる。聖域サンクチュアリを目指し、広大な氷雪の上を延々と車で走っていただけとはいえ、人生で最も濃密で興奮する日々を過ごしてきた気がする。
「うんうん、楽しみだね。私たちで何人くらいになるのかなあ。もうそろそろ、地軸を動かせるくらいの人数になるかもしれないね!」
「ほんまやな。合わせたら、百万人以上にはなるんかなあ」
「もっと多いんじゃない? 噂では、もう三百万人を超えているみたいだよ」
 あたしたちの世代は、生まれてから一度も朝日を拝んだことがない。北半球はずうっと夜から抜け出せないし、外はいつもマイナス何十度の世界だし、川や湖、それから海も常に凍りついている。
 だから「聖域サンクチュアリに行って世界を変えよう」と言われたときにはこころが躍った。大渦ボルテックスに辿り着いて、みんなで一斉に円周運動をすることで、地球の地軸を元のように戻せるのかもしれないのだから。
「はー、すごいな」目を丸くしていると、食欲を刺激するいい香りが鼻腔を突いた。「うわー、めっちゃええ香り。肉、焼けたんとちゃう? 今日はもう運転もせえへんことやし、軽く一杯やるか!」
 ウォッカの栓を開けて、ちびりと喉に流し込む。喉の奥がかっと熱くなって、あたたかさに拍車がかかる。
「かーっ! ええウォッカや」
「いい吞みっぷりだね! 私も今日は珈琲を淹れてるんだ……っと、よし。いい香り。それじゃ、私たちの旅路に乾杯!」
「乾杯ーっ!」
 丁度いいタイミングで、時計のアラートが鳴った。二十四時。あたしとはーちゃんは、揃って身体を右に二十三・四度傾ける。かつての地軸の傾きと同じ、二十三・四度。
 傾くことは、巡礼者ペレグリヌス精神スピリットの証ティスニモニー。あたしたちのただひとつの矜持だった。

 地球は自転と公転を一定周期で繰り返していて、地軸が二十三・四度傾いているために昼夜や季節が存在している。と、いう常識は四半世紀前に失われた。あたしやはーちゃんが産まれた頃には、地球の地軸は九十度に傾いていて、分岐点はニーゼロニーゴーとのことだった。
 研究者らがこぞって原因を調査をしたものの、詳しいことはわからず仕舞い。一説では、地下水の汲み上げ過ぎがきっかけだったとか、大地震がきっかけだったとか、戦争がきっかけだったとかいうことだけれど、結局有耶無耶になってしまったのだとか。
 ともあれ、地球は二〇二五年を起点に急速に地軸を歪めてゆき、数年後にはすっかり真横に傾いてしまう。その上、地軸の中心が北極星ポラリスではなく太陽ザ・サンの方向に変わってしまったことにより、磁場や重力にも様々な異常が発生し、結果的に現在の地球は、太陽の周りを一年に一度自転をしながら公転をしている状態になってしまった。つまり、太陽に向かって常に同じ面――南半球を曝け出し続けていることとなる。
 南半球が永遠に昼に、北半球が永遠に夜になってしまったことにより、氷の塊だった南極大陸が消滅。地球の水位が大幅に上がってしまい、南半球の小さな島々は次々と水没する。逆に北半球はすべての陸地が永久凍土と化して、川や湖、海までもが完全に凍結してしまった。
 そんなわけであたしが産まれたときには、生まれ故郷である日本は、永遠に極寒の闇の中を彷徨い続けていたというわけ。

「うー、今日はマイナス七十度になりそうだって。燃料まだ大丈夫だよね?」
「うん、さっき見たけど問題なかったで。日本も寒かったけど、北極圏に入って更に寒うなってきたなあ……元々寒冷地やったらしいし、なおさらやな」
 夜の世界に閉じ込められてしまった北半球の平均気温は年々下がってきていて、東京の平均的な気温はマイナス三十度付近。あと数年でマイナス四十度に到達する見込みだという。昼夜の概念もすっかりなくなってしまい、一日の感覚を教えてくれるのは時計だけ。まあ、自転と公転が一年に一度しかないわけだから、厳密に言えばそれが「一日」と言えるのかもしれない。
 フロントパネルに表示されている時計を確認する。現在の世界標準時は八時。機械によってかろうじて維持されている二十四時間制という生活サイクル。世界中の時計が一斉に止まったとすれば、早々に日時の概念すら揺らぐのだろう。
「休憩ごとにしっかり点検しておかないと、大変なことになるかもだね」
「せやな。聖域サンクチュアリが近づいてきたおかげで、車間距離もちょい詰まり気味やしな……」
 あたしはハンドルを握り、安全運転を意識しながら車を走らせている。周囲には並走している車両のほかになにもなく、どこまでも続く氷の大地と底知れないほどの真っ暗闇がただ広がっているのみで、排気ガスの影響で少しだけスモッグがかかっている。前をゆく車両のバックライトがちらちらと見える。事故を起こさないように車間距離は大きめに取っていたが、油断は禁物だった。
「もし事故しちゃって、車のエンジンが止まったらどうする?」
 事故のみならず、エンジントラブルなどで車が動かなくなってしまった場合、即お陀仏もあり得る世界。巡礼者ペレグリヌスの誰かが気づいてくれればいいけれど、広大な凍原上では僅かなタイムラグが命取り。GPS信号の異常で察知してくれればいいけれど、望み薄だろう。
「そんなことになりたくはないけど、誰かに助けて貰わんと死んでまうかもな」一瞬だけ、過去の映像が網膜を過ぎる。暗澹あんたんたる気持ちになりかけて、頭を横に振った。「――ま、日本から出てきた時点で、ある意味命捨ててきてもうたようなもんやし」
 日本を出発してから、もうすぐ百日目。直線距離にして七千キロ、実際にはおおよそ一万キロ余りの距離を巡礼者ペレグリヌスのみんなと旅をしてきた。
 今回の一団には過去最多の十万人が参加していて、車両の数だけで四万五千台にも上るらしい。そのため、かなり速度を落としながらの旅ではあったけれど、比較的安全に聖域サンクチュアリに辿り着くためには、単独行動じゃあなく巡礼者ペレグリヌスの一団に参加することがベストの選択だった。
 氷の裂け目に足止めされたり、ブリザードに見舞われたことも一度や二度じゃあない。集団で行動をしていなければ、とうにあたしたちは命を落としていただろう。実際、道中に親しいひとを亡くした経験もあった。「聖域サンクチュアリに行って世界を変えよう」そう言ったおねえは氷の中に呑み込まれて、今はもうない。
「そうだね。あのね、私さあ……」はーちゃんは大きな瞳であたしを見つめる。厭な予感がした。「うるると死ねるのなら本望かも」
 思わずハンドルを切りかけて、「ああ、もう」とこぼす。「……そういうことシラフのときに言わんといてくれる、めっちゃ恥ずいから」
 顔が赤くなっているのがわかる。心臓がうずうずする。彼女は畳みかけるように小首を傾げて、
「えっ、うるる、私のこと嫌いになった?」
「うっさいな。元々、赤の他人やんか。あんましつこいと嫌いになんで。……今はまあ、まあまあってとこや」
「まあまあ。あはは。まあまあかあ」助手席に身体を沈めて、彼女はクッションを抱き締めた。「まあまあかあ……こんなとき、ちいちゃんはいつも好きって言ってくれたのになあ」
 あたしはちいちゃんとちゃうねん。あんたがお姉とちゃうようにな。言いかけて、飲み込む。日本から出てきたときに決めたのだ。あたしとお姉のどちらかが亡くなったとしても、目的のために必ず旅を続けることを。聖域サンクチュアリに辿り着いて、地軸を元に戻すための旅を続けることを。
「……あんたの彼氏には悪いことしたとは思っとう」
「――いいの、いいの。いっこも悪くないよ。どじ踏んじゃったのはちいちゃんなんだから。ごめんね、うるるだっておんなじなのに……私だけひとりで引きずってて……ちいちゃん、もういないのにね」
 しばらく沈黙の時間が流れる。あたしは前方に注意しながら、胸ポケットからたばこを取り出して火を点けた。煙を深く吸い込んで、吐き出す。運転中に窓を開けると凍りついてしまうため、車内には煙が充満する。はーちゃんにもたばこを渡す。彼女は少し咳き込みながら、あたしの咥えていたたばこを遠慮がちに吸い込む。
「ま、言い方は悪いけど。死んでもうたもんはしゃあないやん。運命やったっちゅうことやろ」
「……こほっ、こほっ。うん、それはそうかも」はーちゃんは目を伏せて、膝元に置いているクッションを抱く。「それに、そのまま日本に居続けていたとしても、正直今と変わんなかったよ。雪と氷に囲まれて、なんにもすることなく死んでゆくだけだもん。スマートシティにでも移住できていたら、人生変わったかもだけどさ」
「せやなあ。せやけど、スマートシティにせよ赤道にせよ、お金がないとどうしようもないやん? はーちゃんちって仰山お金持っとったっけ?」
「ううん。普通の……て、いうかたぶんちょっと貧乏だったかも」
「ほな、どっちにしろ夢のまた夢やんか」
 日本にいた頃、テレビCMで観たことがある。『太陽燦々! あったか空間! 夢のスマートシティ!』「なにが太陽やねん。こんなんドームに照明がついとうだけやん。阿呆らしいわ」太陽世代だった母の口癖がこだまする。母が子どもの頃には地球温暖化とか言われていて、日本も相当暑かったらしい。とはいえ、今の南半球ほどじゃあないだろうけれど。
「そうだね。私たちは夢さえも見られない。北半球は寒過ぎるし、南半球は暑過ぎるもん」
 南半球の気温は北半球とは逆に年々上がり続けている。今では日がな一日太陽が照りつけていて、平均気温は八十度を優に超えているらしい。その上、緩やかになった自転の影響で地磁気がほとんど失われたために、宇宙空間から太陽風や放射線がダイレクトに大地に降り注いでいて、相当数の生命が失われているという。恐らく地上で生活をすることは不可能で、ドーム型都市か地下室で暮らしてゆくしかないだろう。
「ま、南半球に比べたら北半球暮らしの方がなんぼかマシちゃう?」
「ほとんどおんなじだよ。それに、南半球に産まれたひとは太陽を見られるんだよ? 死ぬまでに一度でいいから太陽を拝んでみたいなあ」
「そのためにあたしら、聖域サンクチュアリ目指しとうんやん――それか、今からぐるんって反転して赤道超えする?」
「いやいや……燃料もないし、それに赤道は北極圏より恐ろしいって噂だよ。丁度いい気温っていうのは最高だけど」
 ニーゼロニーゴー以降、地球上でいちばん暮らしやすい地域は赤道直下で、現在の平均気温はおよそ十五度。世界中のセレブらはこぞって赤道に住んでいて、赤道上にあるインドネシアやエクアドルでは、スマートシティどころではない、とんでもない規模のマネーゲームが常日頃から行われているらしい。
 もちろん、簡単に越境することも叶わないから、北半球と南半球は赤道で完全に分断されている。海洋権を手にすれば人工島を作ることもできて、今や島を持っているひとびとは一国の王様状態だ。
「金がない奴は極寒か灼熱。金がある奴は悠々自適。まあ、世界ってハナからそういうもんやしな」
「飼い慣らされているよねえ……」
 もちろん、世界中の国々がこの数十年、なんの対策も取っていないわけではない。都市規模の巨大シェルターが幾つも作られていて、生き抜くための施設がフル稼働している。また、北半球では巨大な人工太陽が作られていて一部の地域で効力を発揮しているし、南半球では大寒波を作り出すことのできる寒冷化装置が絶賛稼働中だ。
 世界中の機関が力を合わせた取り組みはほかにもある。中でも面白かったものは、赤道を挟み込むように建設された大掛かりな送風装置。地球をぐるりと一周するように建設された扇風機型の装置を一斉に回すことで、地球の自転の向きを変更させてしまおうという魂胆だったけれど、うまくいったという話は聞いたことがない。赤道に住む連中の邪魔が入ったのでは、とまことしやかに囁かれていた。
「しゃあないやん。産まれた時点であたしら、ほとんど詰んどうんやし」
「そうかもね。だけど、聖域サンクチュアリに辿り着けたら、世界を変えられるかもしれないよ。や、きっと変えられるよ! だから、ちいちゃんたちの分まで頑張ろう!」
 世界各国の取り組みとは別に、現在、北半球中のひとびとのこころを虜にしていることがあった。それが、今あたしたちが参加している巡礼者ペレグリヌスたちによる活動だ。聖域サンクチュアリを目指してみんなが車を走らせていて、既に何万組もの巡礼者ペレグリヌスたちが聖域サンクチュアリに辿り着いて、地軸を動かすための運動を始めているらしい。
「ああ……せやな。なんや、夢みたいな話をしたから疲れてもうたわ」
「あはは。交代予定は九時だけど、その前でもしんどくなったら言って? 運転変わるから」
 百日間もの間、変化のない真っ暗闇の凍原を交代で運転し続けることは思っていたよりも大変で、こころが弱ってきているのを感じる。「聖域サンクチュアリに行って世界を変えよう」と言ったお姉もなく、旅路の先にあるはずの希望を見通せなくなってしまった瞬間もあった。
「ん、おおきに。っし、もうひと踏ん張りや!」
 けれど、北極圏に入ってもう少しで聖域サンクチュアリに辿り着けるのだと考えると、なんだか勇気が湧いてくる。終着駅までは、もうあと一歩だった。

 砕氷船の近くで、巡礼者ペレグリヌスの一向は車を止めた。
 聖域サンクチュアリまでの各ポイントに停泊している超大型の砕氷船には、物資がたくさん積み込まれていて、あたしたちは十日に一回程度、砕氷船に寄って必要な物資を調達したり、ごみを回収して貰ったりする。砕氷船は北半球のそこかしこに停泊していて、輸送ヘリコプターが次々と離着陸していた。そのうちの一台の近くにゆっくりと車を移動させて、配給の列に並ぶ。
「これで最後の補給だね。あとは聖域サンクチュアリに一直線ってわけだ」
「せやな、いよいよってかんじがしてきたなあ」
 配給で受け取った燃料や食料などを車両にしっかりと積み込む。周りのひとびとも、あたしたちと同じように配給を詰め込んでいる。前回の積み込み時よりもみんなのアクションが大きくなっている気がする。少し興奮状態のように見えた。無理もない。もうすぐ目的地に着くのだから。
 十二時のアラートが鳴り響くと、みんなは荷物を積み込む手を止めて、その場で身体を右に二十三・四度傾ける。普段は周りに停車している数十組程度しか目視ができないため、居並ぶ車両のライトに照らされながら何百、何千というひとびとが一斉に傾いている様子は壮観だった。きっかり一分傾いてから姿勢を整え、車両に戻って暖を取る。
「……めちゃくちゃ寒いはずなんやけど、なんや熱気を感じるっちゅうか、あんまり寒う思わへんな」
「うんうん、それはそうかも。だって、車もひともすっごく増えているもんね」
 紅潮した頬を、霜の降りた手袋で触れる。ひんやりとしていて心地がいい。昂っていたこころが、少し静まるのを感じる。
聖域サンクチュアリ入りするときは、気をつけんとな。配給係に聞いたんやけど、興奮して運転が荒くなってしまうひともおるらしいで」
「あはは、そうだよね。実際、聖域サンクチュアリ直前でトラブルに巻き込まれたひともいるみたいだよ」
 長かった旅路もようやく最終地点。しばしば見かけるひとたちに加えて、見慣れないひとびとの姿を目にすることも随分と多くなってきた。最終補給地点には日本からの巡礼者ペレグリヌスたちのほかにも、各国から聖域サンクチュアリを目指しているひとびとが揃っていて、例えばロシアやイタリア、インドから北上してきた集団も混ざっている。北半球にある故郷を捨てて、大切な仲間を失いながらも前だけを向いてアクセルを踏み、規模を拡大し続けてきた巡礼者ペレグリヌスたちが集結していた。
 正確な報告は受けていないけれど、二十万から三十万人が砕氷船の周辺に集っていると考えると感慨深い。あたしたちは総じて第五次フィフス巡礼者ペレグリヌスと呼ばれていて、開拓者パイオニアから第四次フォース巡礼者ペレグリヌスのひとびとは、あたしたちの到着を首を長くして今か今かと待ってくれているはずだった。
「今日はこのあたりでキャンプやって。明日以降は、いよいよ聖域サンクチュアリ入りに向けての最終段階っちゅうわけや」
「やば。もう泣きそう。ていうか、泣いてる」
 後部座席で横になっているはーちゃんが、クッションを顔に押しつける。子どもの頃からのお気に入りだと言うクッションは、つぎはぎだらけでボロボロになっていたけれど、彼女の物持ちのよさを象徴していた。
「もう、泣き虫やなあ、はーちゃんは」
 運転席を倒して、瞳を閉じる。これまでの旅路が脳裏を過ぎる。幾つのも壁にぶち当たってきて、乗り越えてきた記憶が蘇る。はーちゃんの彼氏を助けるために、割れた氷河の中に呑み込まれていったお姉を思い出す。彼氏を失って泣きじゃくるはーちゃんの姿を思い出す。深く息を吸って、大きく吐き出す。かぶりを振る。お姉は悪くない。わかっている。それに、はーちゃんが悪かったわけじゃあない。はーちゃんの彼氏だって悪かったわけじゃあなかった。誰も悪くない。誰も悪くなかったんだ。ただ運が悪かっただけで。はーちゃんはなにひとつ悪くない。そんなこと、わかっているんだ。けれど。
 瞳を開けると満天の星空。排気ガスの影響で星々は少しだけ霞んでいる。後部座席からはーちゃんの寝息が聞こえる。ウォッカの栓を開けてショットで煽る。喉の奥が熱くなってきて、あたしは眠りに誘われる。

 最後の補給から数日後。ハンドルを握っているはーちゃんが、緊張した面持ちで「――揺れてる」と呟いた。
「揺れとう?」
「うん、助手席にいたらわかりにくいかもだけど、タイヤから伝わってくる感触が変わった気がする」
「へえ……」だらっと崩していた姿勢を正して、地面からの振動を意識する。確かに、これまで通りの固くてでこぼこしている感触に加えて、なんだか地鳴りのような感覚が伝わってきている。「これ、地震……っちゅうわけや、ないよな」
「うん、違う。これ――地響きだ。ずうっと遠くから、一定の間隔で伝わってきてる」
 自然と無言になっていた。地響きは徐々に強くなってゆき、次第に僅かな音が聴こえ始める。前方のバックライトを追い続けること数十分。揺れは完全にどっどど、どどうどと鳴り響くほどになっていて、視界に映る風景も様変わりしてきた。真っ暗闇だった前方が少しずつ明るくなってきている。遥か彼方にもうもうと立ち込める竜巻トルネードにも似た水蒸気の大渦が見える。
「なあ、あれ……」
「うん! そうだよ、絶対にそうだよ!」さすがにもうわかった。あれは。あれは――「聖域サンクチュアリ……!」
 はーちゃんが涙声で叫んだ。あたしも感化されて、少しだけ涙が滲む。
 とうとう辿り着いたんだ。日本列島を縦断して、樺太を進み、ロシア領を超えて、延々と突き進んだ先に待ち構えていた北極圏。ブリザードに見舞われて、流氷に流されて、大切なお姉を失いながらも深い闇に包み込まれた氷雪を一心不乱に進み続けて、ようやく辿り着いた約束の地――聖域サンクチュアリ
「うわ、でっか……! なんちゅうでかさや、あの大渦は……!」
 眼前に聳え立つ巨大な水蒸気の渦こそが、大渦ボルテックス——通称、巡礼者たちの路ヴィア・ペレグリヌス
 かつては北極点ノースポールと呼ばれていたそこに、今や三百万人以上の巡礼者ペレグリヌスたちが集っていて、北極点を中心に同心円状に広がって渦を巻くように円周運動を繰り返している。その整列された動きによって氷雪が水蒸気となり、聖域サンクチュアリの周辺を取り囲んで巨大な竜巻を生成していた。
「うう、ううう……! やった、やったよ……! うう、うっ、うええ……っ」
「やった、やった! やったやん! とうとう……あたしら、とうとう辿り着いたんや!」
 彼らの目的は、人力で﹅﹅﹅地軸を﹅﹅﹅歪めること﹅﹅﹅﹅﹅。多くのひとびとのちからを集結させて、北極点の周りを延々と回り続けることにより、地球に巨大な渦のちからを伝えて、傾きを誘発させる。いわば独楽遊びの原理に近い。地球という巨大な独楽の上に乗って、ぐるぐると回り続けているわけだ。
 そのようにして、もう一度傾斜を生み出すことにより地軸を歪め、地球本来の姿を取り戻そうと懸命に円周運動を継続しているひとびと。
 それが――巡礼者ペレグリヌスたち。
「うああ……! やった、うあ、やった! やったよ、私ちゃんと……うああ! 着いた! 着いたんだよ、ちいちゃん! うああ……!」
 はーちゃんは半狂乱になっていて、瞳に大粒の涙を浮かべながらも、ハンドルをしっかりと握って車両を前進させる。目の前の大渦ボルテックスは比喩ではなく本当に光り輝いていて、大量の車両の織りなすライトが水蒸気に乗ってきらきらと煌めいているせいか、室内のように明るい。まるで噂に聞いた昼間のようだ。
「はーちゃん、しっかりしい。円周運動しとう車の流れに乗るんやで! 夢にまで見た――聖域サンクチュアリ入りや!」
「うう……う、うん、よし……うん、大丈夫! 任せて……!」
 はーちゃんは涙を拭って、前を走る車両に慎重についてゆく。三百万人が乗った車の大群による揺れが氷雪越しに伝わってきて、車体ががたがたと揺れる。けれど、悪路はお手のもの。あたしたちは一万キロを駆けてきたのだから。はーちゃんは鮮やかな手つきで、危なげなく前方車両の後ろ側に車体をするすると寄せて、円周運動へと移行する。
「よっしゃ、お見事! これであたしらも聖域サンクチュアリに――」
 そのときだった。
 狂乱状態になっていたのか、氷雪にタイヤを取られてスリップしたのか、右側を走っていた一台の車両がいきなり急旋回をして加速した。アクセルを思いきり踏み込んだのだろうか。ハンドルを思い切り回したのだろうか。聖域サンクチュアリに着くときにはどうしても興奮状態になるから慎重に運転しろと、先日の最終補給でもあれほど言われていたのに。暴走状態となった車両が、複数の車両に次々とぶつかってゆく。そうしてピンボール状態になった暴走車両が、
「――え?」
「――うわっ!」
 あたしたちの車の右側に、思い切りぶつかった。反動ですぐにエアバッグが開いて、首や身体を包み込む。
「……うう、うわあっ……!」
 暴走車はあたしたちを巻き込みながらぐるぐると回転をして、更に数台の車両を巻き込みながら突き進む。どういう状態なのかわからない。懸命にエアバッグの隙間から顔を出すと、目の前に小さな氷山が見えた。
「――あかん、ぶつかる……!」
 どうしようもない。あたしたちはそのまま勢いよく氷山へ向かっていって、ぐしゃりと厭な音を立てて後ろから氷に埋まる。暴走車両も同じように氷山に打ちつけられたみたい。盛大な音がそこかしこで聞こえた。一瞬、走馬灯が見えた気がする。エアバッグが開いたおかげで身体は大したことはなさそうだけれど、愛しいワンボックスカーはぐしゃぐしゃだろう。あと一歩で死んでしまうところだった。
「……はあ、はあ……めっちゃびびったわ……なあ、はーちゃん」
 胸を撫で下ろしながら、エアバッグを退けて運転席を見る。はーちゃんの姿が見えない。
「――――は?」
 運転席の扉がひしゃげて捥げて、遠くの方に転がっている。事故に巻き込まれたであろう車両が点在していて、数名のひとが車から降りてなにかを叫んでいる。扉と車両を繋ぐように、奇妙な赤いラインが見える。はーちゃんの姿が見えない。
「はっ、はっ、はっ、は……っ」
 誰もいない運転席を乗り越えて、開放的になった扉から身を乗り出す。手袋にべっとりと赤いものがこびりついた。この赤いものはなに? 頭のどこかでは既にわかっているはずなのに、どうしてか認識ができない。はーちゃんの姿がどこにも見えない。
「はっ、はっ、はっ、は……っ」
「――――! ――――!」
 車から降りたひとが地団駄を踏みながらなにかを叫んでいる。当たり前だ。ようやく聖域サンクチュアリに辿り着いたと思ったら、直前で事故に巻き込まれてしまったのだから。
 暴走車両がめらめらと燃え始める。このまま近くにいたら危ない。あたしは急いで車から飛び出すと、赤いラインを目で追いながらはーちゃんの姿を探す。果たして、彼女はそこにいた。扉のそばでぐったりと横たわっている。
「――は、はーちゃん!」
 急いで彼女の元へと走る。「――くそ! こいつのせいか?!」違う。はーちゃんじゃあない。「こいつの車が次々とぶつかりやがったんだ!」違う。はーちゃんはなんにも悪くない。「――――! ――――!」はーちゃんが蹴られている。知らないおとこたちに、はーちゃんが足蹴にされている。
「――うああああ! やめろ!」あたしははーちゃんの元に飛び込んで、彼女をしっかりと抱き締める。「ちゃう! はーちゃんは巻き込まれただけや!」周りにいるおとこたちが怯む。「あっちや! ぼけ! あの燃えとう車の方や! はーちゃんはなんにも悪うない!」
「そ、そうか……すまなかった……」「ああ、神よ……どうしてこんな仕打ちを……」
 おとこたちは、ふらふらと身体を揺らしながら遠ざかってゆく。
「うう、はーちゃん……はーちゃん、大丈夫? あたしがおるからな……!」
 はーちゃんは右半身を真っ赤に染めて、弱々しい呼吸を繰り返している。
「おうい! あんたら、医者か?!」遠ざかるおとこたちに声をかける。返事はない。「それか医療キットや! 積んどうやろ?! なあ、なんかあるやろ? なんか……なんかないんか! なあ!」
 はーちゃんの右腕がなくなっていた。
「なあ、」
 泣きじゃくるはーちゃんの姿を思い出す。最愛の彼氏を失って、号泣していたはーちゃんの姿を思い出す。あたしだって泣きたかったけれど、泣かなかった。泣いているはーちゃんを無理やり助手席に押し込んで、アクセルを踏んだのはあたしだ。だって、巡礼に犠牲はつきものなのだから。
「なあ……!」
 ねえ、はーちゃん。なんにも言わないであたしの前からいなくならないで。あたしはひとことだって弱音を吐かなかった。前だけを見てここまで進んできた。お姉を亡くしたのに泣かなかった。決して泣かなかったじゃあないか。なのに。
「なあって!」
 はーちゃんの瞳は虚ろになっていて、急速に体温が失われているのだろうか、髪の毛やまつ毛が真っ白に凍り始めている。顔にも少しずつ氷が張ってゆく。
「なあってば! 返事してや、はーちゃん!」
 はーちゃんはなんにも言わない。あたしのお姉もそうだった。なんにも言わずにあたしの前から消えた。名前も知らなかったはーちゃんの彼氏を助けようとして、あたしのお姉はいなくなった。今でも、助手席に座っているのがお姉だったらって思うよ? けれど、ねえ。あたしは決して泣かなかったし、愚痴ひとつこぼさなかったじゃあないか。前だけを見てここまで進んできたじゃあないか。それなのに。それなのに、あたしはお姉ちゃんが助けたひとと、聖域サンクチュアリに辿り着くことすらできないっていうの?
 ねえ、神さま。これが運命なのだとしたら。あまりにも残酷過ぎるんじゃあない?
 はーちゃんが唇を小さく動かした。声には出さなかったけれど、すぐにわかった。なんにもことばはなかったけれど、あたしにはわかったんだ。
 ぐったりと脱力し切ったはーちゃんを無理やり起こして、氷の上に座らせる。身体を右に二十三・四度傾けて、その状態のまま、しっかりと身体を支える。
「はーちゃん。これで……ええんやろ?」
 はーちゃんが頷いたように感じたけれど、気のせいかもしれない。ものを言わぬはーちゃんを氷がゆっくりと包み込んでゆく。マイナス七十度を優に超える聖域サンクチュアリでは、死を迎えるひとをこのようにして氷葬するのだという。聖域サンクチュアリの中心部には、このようにして傾いたひとたちを集めた氷像があるのだとか。あたしたちはまだ聖域サンクチュアリに辿り着けていないのかもしれないけれど、こんなに間近に巡礼者たちの路ヴィア・ペレグリヌスを感じられている。
 だから――いいよね。
 はーちゃんを支えながら、震える手でたばこを取り出すと火を点ける。凍りついてゆくはーちゃんの、微かに呼吸を繰り返す口元にたばこを咥えさせて吐き出させた紫煙に、あたしの吐いた紫煙を重ねてゆく。あたしたちの吐き出した紫炎が聖域サンクチュアリの周りでぐるぐると渦を巻く巡礼者ペレグリヌスたちの方へと流れてゆく。
 身体を右に二十三・四度傾けたまま、はーちゃんは氷の塊になった。
 あたしははーちゃんの傍に寄り添いながら、あたしたちの吐息が巡礼者たちの路ヴィア・ペレグリヌスになって、共に大渦ボルテックスを作り出してゆくのを眺めている。

〈了〉

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