震災でも大丈夫だった自分を大切にする
阪神淡路大震災のあった1995年1月17日は、29年前です。
そんなに昔だと、個人的には記憶がだいぶ薄れています。
当時の自分の状況
最初は何がなんだか分からない
通勤乗り換え駅までクルマで見に出かけて大渋滞で帰れず
親の家は避難を余儀なくされる → 自分の家で寝泊まり
自分の家は大丈夫
自分の家はライフラインはすぐに復旧したがガスが出なかった
初めて風呂に入れたのは2週間後ぐらい(親戚の家)
初めて母親が風呂に入れたときに泣いて感謝していた
宝塚の某温泉施設に行ったら入場料高くてお湯はなまぬる石鹸なし
会社の先輩に尼崎の銭湯を教えてもらって週一で通った(クルマで)
災害関連情報の収集はもっぱらテレビ・ラジオから
パソコン通信もあったが自分はそれほど役に立たなかった
最初のうちは大阪の会社までバイクで行く
国道43号は高速が倒れている間を縫って反対車線も使いながら走行
阪急梅田〜西宮北口間が復旧してから西宮北口までバイクで行って乗り換え
西宮北口の芸術文化センターのあたりは当時は空き地で、巨大駐輪場があった
近所で食べ物が買えないから大阪の会社の近くの商店街で食料調達
やがて近所でも食料が調達できるようになる
阪急神戸線が完全復旧したのは半年後
僕の暮らしが平常に戻ったのも半年後
自分も親も親戚も大丈夫だった
なぜ自分が大丈夫だったかというと、断層を境にして山側にちょっと坂を上がって行ったところに家があったため、激しく揺れたにも関わらず周辺の家屋で崩れた家はなかった。
断層より南側(海側)は壊滅的な状況だった。
親の家もそっちにあって、家の中はぐちゃぐちゃだったが、親は無傷だった。
親しい親戚は神戸の六甲山の裏に住んでいたから問題なし。
あんな状況で大丈夫だったことに改めて感謝
周囲で被害にあった人は多かったと思うけど、自分の周辺は助かっていて、そのことにまずは感謝したい。
しばらくは恐ろしい夢を見て起きたり、何かの音を聞いてドキッとしたり、余震でドキッとしたり、色々だったが、やがて収まった。
自分は仕事で忙しかったが、周囲の人の助けになるようなことを出来たのではないか?と今になってみると思うことがある。
毎日毎日、生きている実感はあって逆に気持ちはしっかりしていた。今から考えるとすごく頑張っていたと思う。
僕は数年前に自分が嫌になって病んで自暴自棄になっていたが、自暴自棄でも自然に元気になってしまうこと、震災でも大丈夫だったこと、などを考えると、無闇に自分を貶めることなく、大切にして、励まして生きていくことの方が重要だと思うに至っている。
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