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私の体験。阪神淡路大震災を振り返る。

中学3年生だった14歳の冬、私は阪神淡路大震災を経験した。

1995年1月17日、午前5時46分。

下から突き上げられるような激しい縦揺れで目が覚めた。その後は大きな横揺れが続き、ぐるぐると目が回るような、車酔いをした時のような気持ち悪さを感じた。上からはガシャンガシャンとガラスが割れる音、地面からはゴーーッという地響きのような音がした。

長い揺れがおさまり目を開けてみると、私の上には本棚が乗っかっていて、部屋中にガラスの破片といろんなものが散乱していた。

1月の寒い日で、私は頭までしっかり分厚い布団をかぶって寝ていて、下敷きになったが何とか命を守ることができた。

もし冬じゃなかったら死んでいたかもしれない。

揺れがおさまった後に聞いた父の叫び声を今でも覚えている。

「みんな無事かっ!」

今まで聞いたことのない父の叫びに、大変なことが起こったのだと思った。

幸い我が家はみんな無事だった。

朝7時、だんだん空が明るくなって家の状況がわかった。

食器棚が倒れ、皿やグラスは粉々に砕け散り、足の踏み場がなく、家中がぐちゃぐちゃだった。

停電で電化製品は全く使えない。電話も通じない。水が出ない。トイレも流せない。ガスが止まり御飯も作れない。出来ないことばかりだった。

今みたいにスマホもなく、家では詳しい情報を得ることができなかった。

余震が続き、いつまた大きな地震が起こるのかと思うと本当に恐ろしかった。

お昼前、車に毛布や家にあった食料、簡単な着替えを積み込み小学校の運動場に避難した。運動場はすでに避難してきた車でいっぱいで、小学校の教室も体育館も人でいっぱいだった。

我が家の車には小さなテレビがあり、私は車のテレビで初めてこの地震の被害の大きさを知った。高速道路が倒れ、ビルが倒壊し、長田区の大規模な火災の様子が映り、死者の数がどんどん増えていく。

怖かった。

我が家は6人家族。ワゴン車だったが、寒さと狭さで全く眠れなかった。

大変なこともあったが、避難所での生活で今でも鮮明に覚えているのはトイレのことだ。

避難所ではトイレの数が足りておらず、仮設のトイレが設置されていた。トイレの行列に並びトイレに入って衝撃を受けた。断水で水が流せない便器は便や尿でいっぱいで溢れそうな状態だった。用を足した上に次の人が用を足す。嫌だったけど自分もするしかなかった。

昼間は母が片付けの為に家へ戻り、私たち子どもは学校で過ごした。私は受験生だったけど、勉強どころではなく、もちろん学校も休校になり、受験も延期になった。

家は半壊だったものの何とか住める状態になり、数日後に家に戻った。

空のペットボトルを持って給水車に水をもらいに行ったり、カセットコンロで料理をつくったり、夜はろうそくに火を灯して過ごした。当たり前のことなど何もないんだと思った。

だんだんと電気、ガス、水道が復旧して、少しずつ元の生活が送れるようになった。

電気がついた時の部屋の明るさにホッとしたこと、お風呂に入れた時に感じたお湯の温かさと気持ち良さ。当たり前だと思っていたことが全て有難かった。

災害はいつ起こるか分からない。

命を守る準備と心構えはできているだろうか。当たり前に過ごせることの有難さを忘れていないだろうか。

親になった今、改めて震災を振り返り、命を守れるように準備したいと思う。


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