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ミツバチと私🐝


年明けの1月、2024年の初映画として『ミツバチと私』を見に行きました🐝



1. 私なりの映画解釈&メッセージ


フランスに住む、幼い主人公のルシアは、新居探しをする父を除く、母、姉、兄の3人と家族旅行で、祖母や叔母がいるスペインのバスク地方でバカンスを過ごすことになりました

ルシアは、自分の両親から与えられたアイトールという男性の名前も、バスク地方では少年に対して使われるココという愛称も、親類含む周囲の全てから呼ばれたくはありませんでした。

名前とは、私たちがヒト社会で生きる上での単なる記号に過ぎませんが、私たちを特定•固有化する大きな要素です。
私たちは古くから、単純かつ形而下的な身体的特徴により誤認されがちの生物学を元にした男女二元論のジェンダー観によって、思考し、行動しています。
トランスジェンダーの方のみならず、ノンバイナリー、ジェンダークィア、あるいはジェンダー•ノンコーフォーミングの方々にとっても、自分自身を自覚する以前より与えられた名前(デットネーミング)は、呪いと言っても過言ではありません

さて、自然豊かなバスク地方の静寂な田園生活の中、ルシアは、唯一の理解者であり、暖かい陽射しのような養蜂家の叔母ルルデスの仕事を手伝ったりして、ミツバチの生態に関して学んでいきます🍯

女王蜂や給餌係などミツバチには役割がハッキリと決まっていたり、主の存亡に関わる疫病を持つ蜂が一匹でもいるものなら、その該当コロニーを消去しなくてはならないという厳しい生態環境を識っていきます。
ミツバチの絶滅は、環境学においても、農作物の種類激減、経済破綻、食糧危機からヒト社会の終焉も言われてますよね…
末っ子のルシアは、女王蜂の様に家族に護られていたいのに、自分が病気を招く不穏分子の蜂の子であるかのように、その悲しみを噛み締めるかの様に叔母に語ります

また、叔母と、彼女の夫(叔父)?と一緒に、小さな木製の小舟に3人で乗って川をゆったりと渡っているシーンでは、多様な宗教はあれど、信じることの重要性を描いてました。
日本人の大半は、神道者や無神論者、あるいは、科学が宗教みたいなものですが、私個人は無神論寄りの不可知論者な見方かもと思ってます。
それよりも、ここで大事なことは、人は視覚など感覚フィルターを通しただけの形而下的なモノ•コトのみに囚われ過ぎず、心が信じることを護って生きることが、大事というメッセージに思いました。
ルシアは、信仰の源流的解釈を、幼いその頭と心で直観的に捉えることができたのではないかと思います

また、いくつかのシーンで、ルシアは人魚に執着したり、自身を人魚に例えている描写がありました🧜‍♀️
彫刻家である母アネが、生活のため芸術学校の教員試験用の自作を作っている最中、子どもたちに木彫りを教えてました。
アネは、子どもの自主性を重んじている献身的な母親像に映画前半は思えました。
しかしながら、ジェンダーの価値観において、人は性別に囚われて生きていく必要はない…だからこそ、男の子(そのまま)でいて欲しいと願ってます。
しかしながら、それはルシアのそのままではなく、ルシア自体を深くは捉えられていませんでした。
その母の意に反し、ルシアは、自分自身の信じる形として、人魚を木彫りで彫ります。
あるシーンでは、人魚の尾びれの様な水着に喜んでいるルシアの姿もありました。
19世紀のデンマークの童話作家アンデルセンの人魚姫の最期は、泡となり消えゆく運命です🫧
ルシアがルシアであることが、まるで幻であるかの様なメタファーに思いました

家族など理解や尊重を必要とする近しい人ほど、そのサインを深く捉えず置き去りにして、一方的に良かれと思う育て方をしたり、そのサインが自分たちにとって不本意なものなら、育て方を間違ってしまったという勝手な自己欺瞞と罪悪感に陥りがちなことがあります。
当然、ルシアはその現実に泣き、怒ります。
彼女は、彼らと同じ世界を生きてるわけではないんです

母は、かつて自分の将来の進路に関して気持ちを汲まずに対話をしてなかった自身の母(祖母のリタ)と同じ様に、ルシアの小さな抵抗を真剣に聞こうとしてませんでした。
リタは典型的な保守派のジェンダー観の持ち主で、ルシアが自分の口紅などを使ってメイクをした一連の行動に目を尖らせ、アネに厳しく躾けるように強く言います。
また、フランスでの経済的生活のことで頭が一杯で、普段からルシアと距離感のある父ゴルカもルシアの悩みを見過ごし、ルシアたちとの合流後はルシアの思いに難色を示してますし、姉ネレアは自分の興味だけで頭がいっぱいで、ルシアの核心には当たらず触らずな態度…
兄エネコだけは、もしかしたら、ルシアの本当のジェンダーに関して、性の奥深さにはまだ幼いため、無知で無邪気かもしれませんが、将来はきっとルシアの良き理解者になるのかもしれない(私の淡い期待含めて)…
そんなありきたりな、ありふれた家族構成です👨‍👩‍👧‍👦

女性のペニス、男性のヴァギナ」と、寛大で博識なメンターな叔母と、男女の水着をお互いに交換した、幼いながらも視野の広い友人ニコと過ごすことで、ルシアは時折り、自然のあるがままを受け入れられ、傷ついた心を復活させる

ルシアは、周囲の人々に本当の自分を許してほしい、呼んでほしい名前を呼んで欲しいと、怒りと悲しみの感情を時に抑えてはぐらかすようにして訴えながらも、やはり最後は風船の様に心が破裂してしまう😢

ラストシーンで、ルシアは、家族ぐるみのパーティーに向かう準備で、祖母や父から強要された(父は遠回し的な態度で、家族の女たちに一任させる態度でしたが)、男の子の正装服を着るように言われて、ひどく苦しみます💔
アネは、叔母ルルデスの助言もあり、ルシアの願いを聞いてあげたい気持ちでしたが、ルシアはアネの世間体やら体裁上これ以上の恥や非難を受けてもらいたくないため、男の子の服を着ます…😢

そして、パーティーでの家族との集合写真の前に、ルシアは一人忽然と姿を消します
家族やその友人たちは、森の中を、川沿いを恐怖の中、捜索します…

「アイトール!」「アイトール!」
皆んながアイトールと呼ぶ中で、兄のエネコが、本当の名前を先陣を切って呼びます…
「ルシアー!」

ルシアは、その頃、養蜂場にいました。
ルシアは蜂の巣に囁きます。
「私の名前はルシア」と…🐝

たかがジェンダー、されどジェンダー
たかが名前、されど名前
ルシアは幼いですが、年齢に関係なく、家族など大切な人々の気持ちを優先し、自己犠牲を選ぶトランスジェンダーの方々は現実にたくさんいます。
もし…、もし自己犠牲でしか成り立たない人間関係、そこから作られる集団社会、そしてそれが世界になるならば、私は家族だろうと何だろうと真っ向から否定します

いつかは話さなきゃいけない…
周りは敵ばかりでも、せめて家族や近しい人たちだけは味方になってほしい…
そんな悲しい思い出が過りながらも、未来に期待もできる暖かな映画でした🎞️

2.鑑賞後改めて…

本作監督•脚本である、エスティバリス・ウレソラ・ソラグレン氏の「ミツバチと私」は、トランスジェンダーあるあるの個人のささやかな幸せすら叶わない苦悩や葛藤描写を強弱と緩急をつけたクラシック音楽の様に描いていて、私の中の苦い記憶を呼び覚ましました…

ルシアという名は、ルシアが訪れた教会で見た聖女ルシア(ルチア)の像から由来します⛪️
聖女ルシアは、3世紀後半〜4世紀前半に殉職した敬虔なクリスチャンでした。
貧困から抜け出させるために親の勧めた異教徒である婚約者との結婚を拒み、当時キリスト教に対しては弾圧の厳しい時代で酷い拷問をされても、結婚を拒みました。
北欧では、彼女が最後の拷問に処された抉られた目玉から模したルッセカットという名前のパンもあるそうです💦👁️
周囲に抵抗し、自分の信条を貫く姿は正にこの映画の小さなルシアそのものに思えました

昨今、LGBTQ+に関連するストリーミングドラマや映画が普及して、DEI(Diversity, Equality & Inclusivity: 多様性、公平性、包括性 )を念頭に置いた社会構築、当事者の基本的人権の保護、当事者の社会参画の推進が自然となってきました。

私自身、LGBTQ+のうち、T(トランスジェンダー)にあたる当事者として、かつては、10代後半〜20代までは個としての充足感を満たすことで精一杯でした。
どうして私が私らしく生きる望みが、家族、友人、恋をした人、道ですれ違う赤の他人ですらの、他者の心や尊厳を傷つけて脅かすのか…。
もし、私の犠牲で叶うなら私自身が壊れてもいいと思うことが多々あり、私は私自身を大事にはしてませんでした。
そのせいで、自他含めて過ちもたくさんしてきました。

法的に完全に性移行する前、私自身が社会の中で女性として安全に生きていく願いや理想も、親や誰かが私を彼らの押し固めたい性とみなして生きて欲しいという望みも、それ自体に間違いとか、悪といった二分的な判断はないです。
ただ、果たして、私を含めたLGBTQ+当事者たちが自分らしく正直に生きたり、不当や差別の扱いのほか、いじめ、蔑視、ヘイト犯罪による身体的•精神的被害を受けない未来を創ることが、ヒト社会に大きな害悪となっていくのでしょうか?
もし、私やその誰かの犠牲の下に成り立つ社会となるならば、私はそれは間違いと言いたいです

私たちそれぞれ個人は、確かに、個人の意志(思)に反して、集団、組織、社会、世界と、大多数のそれに従う状況や場面もあります。
例えば、グローバルで官民両者で取組んでいるSDGs達成の社会創り(2030年目標)には、真の意味での秩序−民主主義、法令や規則−を、私たちは、新規に制定されたり改訂される法令等を立法や行政機関に丸投げにせず共に考える段階から始めることが好ましいですが、施行後はいよいよ、その公布された法に遵守する姿勢が必要となります。

私が思うLGBTQ+の昨今のこの人権改革は、社会を揺るがすカオスよりも、極めて個人的改革の所の方が大きいと思います。
ここで、誰かが国内外でもLGBTQ当事者(当事者を装う者含む)による犯罪件数のデータや、0ではない数字があると言うでしょう…
それでもやはり、私は、私たち個々人はその個らしく生きてこそ、より大きな全体を更に深く思慮することができることを前提に、これからも個人の幸せを真に害する要因とは何か、譲歩や協力していけるポイントを、当事者であるかないかは関係なく、それこそインクルーシブに共通項の目標を考えていければと思ってます✨


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