エゴは、「Edge god out」が語源だと思っていましたが違いました。調べてみると、ギリシャ語で「私」の意味だそう。めっちゃ普通やん。 語源はともかくとして、現代の日本で使われている自我意識という意の「エゴ」。宗教にとどまらず一般的にも、排除すべきものとして捉えられている向きがありますが、果たしてエゴは悪なのか。 エゴと聞いて最初に思いつくのが、禅ですね。瞑想は自我を無くすためにする行為で、最近流行りのヨガもその亜流だと、僕は浅く認識しています。 その目的が、目的を見
人は、発光体ではありません。 「光という恵み」にあやかっているに過ぎない存在である事実を忘れたときに、背後から忍び寄る「高慢という闇」。 それは、アダムとイブから受け継がれ続けている「原罪」の根源的な原因であり、サタンの反逆の原因でもあります。 自分が光っているからといって、自分が発光体だと勘違いしてしまうと、神に背を向けて敵対することになってしまうので、常日頃から自戒の祈りを持ち続けられますように。 では、発光できない生物、人間がすべきことは何か。 一つは、愛という光
世界のベストセラーである聖書は、キリストの十字架の死と復活、この土台に寄らずして、その権威を保つことはできません。 つまり、イエスキリストの生き様こそが、聖書の言葉の価値の証明です。 一見矛盾に思える記述箇所も、議論と思索の対象にはなるが、疑念を誘発しないという不思議。 正直、「神の言葉だから、人間が矛盾だと感じるかどうかはどっちでもいい。」と思ってしまう。 これは洗脳ではなく、洗礼の聖霊のせいです。 実際、聖書の記述がきっかけで神を知った人は、極めて少ないのではないかと
この言葉は、聖書を読んでいるときに、ふと思い浮かんだ言葉なのですが、熟思していなかったので、この場を借りて考えてみようと思います。 ところで、どんなに聖書の言葉を吸収したつもりでも、純粋無垢な信仰には勝てないと感じることがあります。皆さんも経験がおありかと思いますが、信仰のピークは初期ではないかと。 遠い目で、自分にもそんな時期があったな、と感慨に浸るマウントおじさんになりたくない。。 しかし思えば、その初期の状態は、愛ではなく恋なのです。つまり、熱しやすく冷めやすい。で
3世紀(!)のキリスト者、アウグスティヌスの言葉の中で、心に残ったものを羅列しました。真理は不変です。 〇愛の始まりは聖の始まりである。愛の成長は聖の成長である。愛の大きさは聖の大きさである。愛の完成は聖の完成である。 〇たしかに、われわれは悪事を行わないで生きている限り、地上の生活では善いことを行っているであろう。しかしだからといって、自分はどんな罪も免れていると考えてよいのではない。そのように考える者は、罪無き生をおくるのでなく、罪の赦しにあずかることもないのである。
新しく始めた配送のバイト。 トラックの仕事は一人でできて、その点気楽そうだと思い始めた。 ところが、慣れるまでは先輩と同乗しなくちゃいけない。 同乗して教えてくれたのは、50代の男性。一日がかりのマンツーマン。 その男性とは、既に面接のときに会っていたが、とても快活で気が合いそうだと思った。 そして、不可避的に車内でいろんな話をする。 その先輩(Yさん)は2か月ほど前に高知県へ来たらしい。 その理由を最初は深く聞けなかったが、話す内に徐々にYさんの人生が見えてくる。
だからこそ、神にすがりついて、ただただ祈るしかないんです。 「生きることは愛を学ぶこと」という言葉(本?)を見かけたことがあるのですが、これは似て非なる思想です。 一見、素晴らしいことのように思えますが、真理ではないと僕は思ってます。 所詮、人間の語る愛は利害関係に基づいています。自分が愛だと思うことを客観的に、誠実に精査してみてください。少なくとも、僕がかつて思っていた愛はそうでした。 だからといって結論付けるには早すぎる気がしますが、あくまで32歳時点の仮説ですので
「始まりがあって終わりがある」という点においては、聖書を知らない人と同じですが、最大の違いは帰る場所を知っているということ。 以前、とある仏教徒の高僧が「死んだらどうなると思いますか。」という問いに「死んでみんと分かりまへん。」と応えていた映像を見たことがあります。 この素直で明快な回答は、ある種の真理でもあると思うので僕は好きですが、その領域の全権を握っている人が記されている聖書に出会うことができた自分は、なんと幸いな事かと感じずにはいられません。 クリスチャンは旅人
信じることは、感じること。 思い込みと信仰の違いは、感じられるかどうかにある。 ここで言う感じるとは、漠然とした感覚ではなく、実際的な体験を指します。 30代になって感じるのは、ある面における感性が麻痺、硬化し始めてしまっていたということ。 まだ自覚できるだけ傷は浅いと言えるが、これから歳をとるに連れて、さらに症状は悪化してしまうのでしょうか。 そもそも年を重ねるとはどういうことか。 一例として、聖書の極めて秀逸な記述をご紹介したい。 聖書を知らない人に是非とも読んでほし
誰かの幸福は、知らない他の誰かの犠牲によって成り立っているのかもしれない。 親子関係で考えると分かりやすい。 子供が何不自由なく暮らせている場合、親の労力によって成り立っている。 あなたが境遇に恵まれていると感じているならば、その恵まれた境遇に与れなかった人がいる。 道端のホームレスは、僕やあなたと無関係ではない。 勝者がいれば敗者がいるという、当たり前の話をあえて述べたい。 逆に、あなたが不幸であるならば、そのお陰で幸せな人がいるのかもしれない。 そもそも、幸福なる価
クリスチャンになる特典は何でしょうか。 神様に頼れること(祈り)。 神様に愛されている実感からくる安心感(救い)。 恵みを知って幸福感に満たされること(感謝)。 それもそうですが、一番の恵みは葛藤ではないか、という考察です。 忍耐や試練と言うと、その原因は主に外部にありますが、葛藤は、もっと深い意味での精神的、霊的な闘いを意味します。 僕が罪を犯したとき、具体的に言えば、性的な思いや憎悪に囚われた時、噓をついた時、人を愛せなかった時、自堕落に陥った時など、自分の中で強
イエスキリストを信じるということは、それだけで大変な事なんです。 クリスチャンにとっては当たり前の事実ですが、「名前は知っているけど出会ったことのない人」が存在しているかどうかなんて、普通は興味ないですよね。 興味がないというより、自分とは関係がないと感じる方も多いと思います。 でも、そんな知りもしない人が、実は自分を愛してくれていて、自分のために死んでくれていた、という事実を知ったらどう感じますか。 たとえるなら、自分が今生きているのは、幼い頃に亡くなった自分の父親が
キリスト信仰の根幹は、神の愛です。 この土台無くして、何も積み上げることはできません。 もし、神の愛を知らない人がいれば、あらゆる手段を尽くして伝えていきたいですね。 「あなたは愛されている。」この言葉には、人生をかける価値があると思います。もし、それを一人でも多くの人に届けることができるなら、それ以上に豊かな人生はないでしょう。
一般的に、クリスチャンとはキリスト教徒の俗称だが、信仰の定義の曖昧さにおいて、他の宗教に追随を許さないが、赦し赦されるための御言葉、それが福音である。 しかし、改めて、 イエスキリストが今も生きていることを信じているか? あなたは救われていて、天の国に属しているか? あなたの中に聖霊が宿っていて、神を愛し、隣人を愛せているか? と問われると、僕は不安になってしまう。 イエスキリストと出会って早7年が過ぎようとしているが、成長しているどころか、むしろ信仰が後退してしまったの
皆さんご承知の通り、世の中はバケモノに溢れています。そして、かくいう僕もその一人。しかし、最近になって、ごみ屋敷のような精神がゆっくり分解されている気がする。 どうして、人間は生きながらにして腐敗していってしまうのだろうか。どんな分野であれ、最終的には悪がのさばるという法則。どう考えても、人間のベースは悪である。 朱に交われば赤くなる。目に見える存在に、完璧な白は存在し得ない。だから、赤ければ赤いほど良いとして、いいものだろうか。 大きい敵に勝つには相手よりも大きくなれば
新約聖書の「マタイによる福音書」における、イエスキリストが語られた御言葉だけを列挙していきます。(1~5章) 引用は全て、新共同訳聖書を用いています。 今は止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。 『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。 あなたの神である主を試してはならない。 退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に使えよ』と書いてある。 悔い改めよ。天の国は近づいた。 私