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義は輪郭、愛は内実

この言葉は、聖書を読んでいるときに、ふと思い浮かんだ言葉なのですが、熟思していなかったので、この場を借りて考えてみようと思います。


ところで、どんなに聖書の言葉を吸収したつもりでも、純粋無垢な信仰には勝てないと感じることがあります。皆さんも経験がおありかと思いますが、信仰のピークは初期ではないかと。
遠い目で、自分にもそんな時期があったな、と感慨に浸るマウントおじさんになりたくない。。

しかし思えば、その初期の状態は、愛ではなく恋なのです。つまり、熱しやすく冷めやすい。であるとすれば、熟年夫婦よろしく、神様が空気のように感じる状態が、より成熟した愛の状態なのでしょうか。

皆さんは、どういったクリスチャンに対して、すごいと感じるでしょうか。

時はキリシタン迫害時代、その迫害は子供にも及んでおり、7,8歳の女の子が、大人と同じく十字架にかけられていたそうです。
しかし、彼女は誰よりも平安と喜びに満たされていて、天を仰ぎながら嬉しそうに死んでいった、という記述を見たことがあります。

僕の記憶では、その文章は当時の記録に基づいて書かれたものですので、それが事実だとすると、信仰とは何だろうかと改めて考えさせられます。


いきなり脱線しましたが、本題に戻ります。
「義は輪郭、愛は内実」

聖書の神は、「愛と義の神」と表現されることがあります。
厳しさの中に優しさがある、まさに理想的なお父さんのようです。だから、イエスキリストをはじめとして、クリスチャンは神のことを「お父さん」と呼ぶのだと、僕は思っています。

しかし、人間的な発想をすると、厳しい人は厳しいし、優しい人は優しい、つまりそれは実際には両立しないと感じませんか。

そこで、義と愛を分別して考えると、理解しやすくなります。
「義」つまり、厳しさは神の形を示す。「愛」つまり、優しさは神のご性質を指す。

例えば、宗教的な儀式において、煙を焚く行為があったとしましょう。
すると、そこに神がいた場合、神の輪郭が煙による光の反射によって見えますが、その内実は見えないため、神であるかどうかを見分けることができません。これが「義は輪郭」の意味です。

つまり、儀式や律法は、神の輪郭しか認識できないということです。
これは偶像の特徴でもあり、生きていない神なる対象には、輪郭しかありません。

また、どんな見た目の人であれ、直接会って話すまで、その人の性格は分かりません。つまり、神と直接会話しない限りその愛を知ることはできないということです。

そして、それは両者が、目に見えるかどうかではなく、生きているかどうか、が条件となります。
これが「愛は内実」の意味です。


では、逆の「義は内実、愛は輪郭」は成立しないでしょうか。
想像してみると、詐欺師やサイコパスのような人を、僕はイメージしてしまいます。
もしかすると、これは悪魔の性質ではないでしょうか。

厳しいようで優しい」のと「優しいようで厳しい」とは、似て非なるどころか真逆の性質なんですね。
「厳しいだけ」「優しいだけ」これも神のご性質ではありません。これは先ほども述べたように、人間の肉的な性質といえるでしょう。

この価値観を基準にすれば、神と悪魔、正統と異端の区別がより明確になり、信仰生活においても役に立つ気がしてきました。

「義」は威厳とも言えるでしょう。
この輪郭がないと、巷に蔓延るスピリチュアルや生ぬるい宗教と同化してしまいます。

「愛」は寛容とも言えるでしょう。
この内実がないと、地獄を強調するカルト宗教や[敬虔な]過激派組織と化してしまいます。

まとめます。

・「義は輪郭、愛は内実」は、神のご性質。
・「愛は輪郭、義は内実」は、悪魔の性質。
・「厳しい」「優しい」は、人間の肉的性質。

もしかすると、これは神が与えてくださった知恵なのかもしれません。
もしそうであるなら、ご縁があった方々の、何かしらの気づきとなりますように。

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