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聖書が重いのは、愛が軽いから【きまぐれエッセイ】

たとえば、イエズスさまが愛を説いたということは、人びとに愛などなかったからである。
そして、イエズスさまの教えが、今でも輝きを失わないのは、人びとに愛などないからである。今でも。
人びとに愛と優しさ感謝思いやりがあれば、ぶ厚い聖書は必要ない。
ぶ厚い聖書が今でも人びとに読まれているということは、今でも人びとに愛などないからである。
道(タオ)に根ざした生き方をして、愛と優しさ感謝思いやりの心があれば、仁義だの孝慈だの忠臣だの宗教だの誰某の教えだの、そんなものは必要ないのである。
だから、道(タオ)を体得した者は教義、経典など必要としない。


イエスさまが愛を説いたのは、まさに人々の心に愛が欠けていたからこそ。あたしは、この逆説に不思議と魅了される。だって、愛があるなら、なぜその教えが今でも大事なのか。そう、今も昔も、愛というものは人々の心から逃げ回っているらしい。

イエスさまの教えが現代でも輝きを放つのは、その教えが今も必要とされている証拠である。つまり、現代人の心にも愛が欠けている。愛と優しさ、感謝と思いやりがあれば、分厚い聖書なんて読む必要がない。けれども、その聖書が今でも読み続けられているという事実が、愛が欠如している現実を物語っているのだ。

思えば、道(タオ)に根ざした生き方は、この問題を解決するかもしれない。道を体得すれば、愛と優しさ、感謝と思いやりの心が自然に宿る。そんな心があれば、仁義や孝慈、忠臣や宗教の教義など、何も必要としないはずだ。あたしは、こんな生き方を夢見る。

考えてみると、道を歩む者は教義や経典を必要としないという。そんな生き方ができるなら、それこそが真の自由なのかもしれない。社会の束縛や、他人の期待に縛られることなく、自らの心の声に従って生きることができる。まさに、道を極める者の境地。

それでも、世の中は相変わらず愛を求めて、聖書や経典を手にする。これもまた人間らしさの表れなのかもしれない。愛があるべきなのに、ないと感じるからこそ、人は愛を追い求める。そんな矛盾を抱えながら生きることこそが、あたしたちの宿命なのかもしれない。

[老子第18章:大道廃れて仁義有り]


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