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光が増えれば、闇も増す。

人は、発光体ではありません。

「光という恵み」にあやかっているに過ぎない存在である事実を忘れたときに、背後から忍び寄る「高慢という闇」。
それは、アダムとイブから受け継がれ続けている「原罪」の根源的な原因であり、サタンの反逆の原因でもあります。

自分が光っているからといって、自分が発光体だと勘違いしてしまうと、神に背を向けて敵対することになってしまうので、常日頃から自戒の祈りを持ち続けられますように。

では、発光できない生物、人間がすべきことは何か。
一つは、愛という光を浴びて、喜びに満ちること。
もう一つは、その光を反射して、周りを照らしてあげること。

つまり、「愛し合うこと」と「憐れみ合うこと」。
これらの良い実は、神から頂いたもののおすそ分けであり、人間の肉からは出てきません。

では、神を知らない者には愛がないのか。そんなことはありません。
その人が認識しようがしまいが、太陽光は分け隔てなく地球を照らしてくれます。
「太陽はたまたま燃えているだけだ」とか何とか屁理屈をこねたところで、その恵みによって生かされているという事実は変わりません。

聖書の「悔い改め」とは、「向き直り」つまり方向転換を意味します。
「いつまであなたは太陽の光から背を向けて、偶像という影を追っかけているのか。私の光を見て、私に付き従いなさい。」と、神は仰っているわけです。

では、「光を知らない者」が死ぬとどうなるか。
「神の光に対する受容度に応じて、高低様々な世界に住むことになる」と、僕は考えています。
詳しくは、スウェーデンボルグの著書をご参考ください。

スウェーデンボルグを異端だと決めつけてしまうのは、少しもったいないです。読み手によっては好き勝手に解釈されてしまうきらいがありますが、彼の言葉に通底しているのは「イエスは主」です。その前提無くして、彼の語らんとすることを知ることは不可能であるため、その真意を悟れるのはクリスチャンだけです。

正直、彼の記述が真実かどうかは重要ではありません。いずれにしても、聖書以外は参考文献として、自分の中で咀嚼するしかありませんので。
仮に、真理ではないとしても、闇を通じて光を悟る人もいることでしょう。
罪によって、贖いと恵みを悟るように。

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