見出し画像

成長とは。

信じることは、感じること。
思い込みと信仰の違いは、感じられるかどうかにある。
ここで言う感じるとは、漠然とした感覚ではなく、実際的な体験を指します。

30代になって感じるのは、ある面における感性が麻痺、硬化し始めてしまっていたということ。
まだ自覚できるだけ傷は浅いと言えるが、これから歳をとるに連れて、さらに症状は悪化してしまうのでしょうか。

そもそも年を重ねるとはどういうことか。
一例として、聖書の極めて秀逸な記述をご紹介したい。
聖書を知らない人に是非とも読んでほしい箇所の一つです。

律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕えられた女を連れてきて、真ん中に立たせ、イエスに行った。
「先生、この女は姦淫の現場で捕えられました。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするよう私たちに命じています。あなたは何と言われますか。」
彼らはイエスを告発する理由を得ようと、イエスを試みてこう言ったのであった。

ヨハネによる福音書 8章 3節~

簡単に説明すると、律法学者とパリサイ人とは、偏った宗教観を持つがゆえに、イエスに敵対していた人たちです。
要するに、神よりも自らを正しいとみなす人

現代のクリスチャンにも、こういった偏りが生まれてしまう危険性が、大いにあると痛切に感じます。
人を裁く人に対して、イエスは何と答えたのでしょうか。

彼らが問い続けるので、イエスは身を起して言われた。
あなた方の中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」
彼らはそれを聞くと、年長者から始まり、一人、また一人と去っていき、真ん中にいた女と共に、イエスだけが残された。

ヨハネによる福音書 8章 7節~

これ以上ない見事な応答です。
ここには、年長者から去っていったと書かれています。
つまり、年長者ほど罪の自覚が強くあるということ。

人生の長さに比例して、罪は蓄積されていきます。
当然、僕も例外ではなく、やはり蓄積した罪が感性を麻痺させているらしい。

たったの一言で、ただの人間ではないと分からせるに充分だったはずですが、彼らは惨めに去るのみで、相も変わらずイエス様に従おうとはしませんでした。

人間とは、なんと頑ななのでしょうか。
事実、多くの男性は心当たりがあることでしょう。
僕にしても、プライドが服を着て歩いていると言っても、差し支えありません。

多くの人は、罪を重ねることが人生経験だと思っている節がありますが、イエス様の語る価値観とは真逆です。
悔い改めとは、向き直ること、つまり方向転換を意味します。
ゴールを知らないまま、どうして走ることができるでしょうか。

彼らに不足していたのは、知識ではなく、体験。
つまり、体験が伴わないあらゆる知識は、まったくの無意味であるどころか、むしろ最も重要である体験を阻害します。

幸いにして、僕には、立ち返るべき体験が与えられており、常にそこを起点にして物事を捉えるべきだと思いながらも、そうはいかないのも罪人であるが故。

さて、連れてこられて残された女性に対して、イエス様は何と言われたでしょうか。

イエスは身を起して、彼女に言われた。
「女の人よ、彼らはどこにいますか。誰もあなたに裁きをくださなかったのですか。」
彼女は言った。「はい、主よ。だれも。」
イエスは言われた。「わたしもあなたに裁きをくださない。
行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。

ヨハネによる福音書 8章 10節~

物質ならともかく、「とある概念」を必要としない人に直接押し付けることは不可能です。

神様はあなたを愛したい。あなたを赦したい。
しかし、あなたがそれを求めていないなら、与えようがありません。

いや、求めていないのではなく、気付けていないだけ。
あるいは、見て見ぬふりをしているのでしょうか。
真に助けを求めた時、それが神様と出会う瞬間です。

知識ではなく、体験を重ねること。
ではなく、恵みを感じること。

こうして、子供のように純粋さを失わない大人になりたいものです。

イエスは幼子たちを呼び寄せて、こう言われた。
「子供たちを、わたしのところにこさせなさい。邪魔をしてはいけません。神の国はこのような者たちのものなのです。
まことに、あなた方に言います。
子供のように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。」

ルカによる福音書 18章 16節~

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?