見出し画像

思考する至高の信仰者 アウグスティヌス

3世紀(!)のキリスト者、アウグスティヌスの言葉の中で、心に残ったものを羅列しました。真理は不変です。


愛の始まりは聖の始まりである。愛の成長は聖の成長である。愛の大きさは聖の大きさである。愛の完成は聖の完成である。

〇たしかに、われわれは悪事を行わないで生きている限り、地上の生活では善いことを行っているであろう。しかしだからといって、自分はどんな罪も免れていると考えてよいのではない。そのように考える者は、罪無き生をおくるのでなく、罪の赦しにあずかることもないのである。もしアパテイア(情念や欲情に支配されない、超然とした境地)ということが、どんな情念にも心を動かさないような状態を指すとすれば、それは他ならぬ無感覚の状態であって、悪徳の最大の者である。完全な至福が、あらゆる種類の恐れや悲しみのとげを持たないということは、むろん間違っていない。しかし、天上にはもはや愛も喜びもないと主張する人は、真理から完全に堕ちているのである。

信仰は特別の眼を持っている。そして、その眼をもって、まだ見ないものが真理であることを見、またその眼をもって、自分が信じているものをまだ見ないということを、最も確実に見るのである。

〇「預言者の書に『彼らはみな、神に教えられるだろう』と記されている。(ヨハネ伝6:45)」神の国に属する人はみな、神の教えられ、人からは聞かないであろう。たとい人から聞くにせよ彼らの知ることは、内から与えられ、内から輝き、内から啓示されるのである。それでは、福音を外から宣教する人の務めは何であろうか。それは音声を人々の耳に注ぎこみに過ぎない。内奥にい給う方が啓示しないなら、私は何を語っているというのだろうか。木を植える者は外にいる。しかし育て給う創造者は内奥にい給う。

信仰と妄想とは、次の点で異なっている。すなわち、信ずる人は自分の信ずるものを知らないということを意識している。ただし、固く信じているなら、たとえ無知であってもそのことの真理を疑わない。これに反し、妄想する人は自分の知らないことを知っていると信じているのである。

〇イエスの父は大工であった。すべての真面目な手仕事は善である。職人は真面目に無欲に働くとき、体は働くが精神は自由である。

自分が聞きたいことを神から聞こうとするよりも、神から聞くことをそのまま受けようとする人が、本当の神のしもべである。

〇我々の汚れた霊はこの世への愛着によって、我々を下方へ落とし、あなたの聖なる愛はこの世を離れて確固たるものを求める愛によって、我々を引き上げるのである。

我々の徳、不徳は、各人の知るものによってではなく、各人の愛するものによって評価される。実際、善を愛するか、悪を愛するかによってのみ、善人であるか、悪人であるかが決定されるのである。

〇人間は一般に自分自身について無知なので、自分が何を持っており、何を持っていないかをよく知っていない。そのため、持つことのできないものを持っていると思い込んだり、持つことのできる者を持たないと言って絶望したりする。

君の老年は子供のようであれ。それは、君の知恵が高慢を伴うことのないためである。

〇空虚と真理は互いに対立する。この世への愛は空虚であり、この世からの自由を得させるキリストは真理である。

言語が我々に与えられているのは、明らかに、それによって互いを欺き合うためではなく、自分の思想を他人に伝えるためである。

〇神の子と悪魔の子を分けるものは、ただ愛だけである。皆同じようにキリストの十字架のしるしを身に着け、アーメンと唱え、ハレルヤを歌い、洗礼を受け、教会で礼拝し、バシリカの建物を建てたとしても、ただ愛によってだけ、神の子と悪魔の子とが区別される。

二つの愛が二つの国を作った。すなわち、神を卑しむ自己愛が地上の国を作り、他方、自分を卑しむ神への愛が天上の国を作ったのである。こうして一方は自分自身を誇り、他方は主を誇るものとなる。なぜなら、一方は人間どもの間で誉れを求め、他方は良心の証に従って、神こそ最大の誉れとするからである。一方は自分の誉れを求めてその頭を上げ、他方は神に向かって、「わが誉れ、わが頭を高くされる方よ(詩編3:3)」と呼ばわる。

〇バビロンと呼ばれる地上の国も、それが愛するものを持っている。彼らはこの世における平和を求め、それを超えるものを何一つ望もうとしない。彼らは全ての喜びをこの世に限定し、その目的をこの世に規定する。我々は、彼らが地上の国のために大いに労苦していることを知っている。けれども、彼らが高ぶる心、愚かな慢心、憎むべき尊大さを求めず、地上のものを見て地上の国の本性を知り、彼らが示し得る真実な信仰をできるだけ多くの人々の前に表すなら、神はこれらの信仰を持って地上に生きる人々を、バビロンにおいても滅びることを赦し給わない。

信仰によって生きていない人々の家は、地上の平和を、この世の生活の財と利得から得ようと努める。これに反し、信仰によって生きる人々の家は、来るべきよに約束されたものを望み、いわば遍歴の中にあって、地上的時間的な財を用いる。だが、それに捉えられて神へ向かう道から離れることはなく、かえって力づけられて、魂を重く抑える朽ちるべき肉の重荷に容易に耐え、決してそれを喜ばない。このように、この死ぬべき制に必要なものとその使用は、二種の人間と二種の家にそれぞれ共通であるにせよ、それを用いる目的はそれぞれ区別され、大いに異なっている。

〇悪い意志の作用因をたずねても、そのようなものを見出されない。というのも、行為を悪くするものが意思であるとすれば、その意思を悪くするものは何であろうか。したがって、悪い意志が悪い行為の作用因であるが、その悪い意志の作用因は存在しないのである。


TOP画の本「世界の思想家3 アウグスティヌス(泉治典編)」は、簡潔にまとめてくださっていて読みやすい。
僭越ながら、もしご縁がありましたら、どうぞおススメです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?