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クリスチャンはこの世を旅する巡礼者
「始まりがあって終わりがある」という点においては、聖書を知らない人と同じですが、最大の違いは帰る場所を知っているということ。
以前、とある仏教徒の高僧が「死んだらどうなると思いますか。」という問いに「死んでみんと分かりまへん。」と応えていた映像を見たことがあります。
この素直で明快な回答は、ある種の真理でもあると思うので僕は好きですが、その領域の全権を握っている人が記されている聖書に出会うことができた自分は、なんと幸いな事かと感じずにはいられません。
クリスチャンは旅人なのです。
3か月の海外旅行へ出かけたとしましょう。
時には失敗をしながらも色んな知見を得て、そこで出会った人と親しくなったり、たまに家で待つ父に電話したり。
そして、帰るときには後ろ髪をひかれるような思いがありつつも、やっぱり家が一番落ち着く。
まさにクリスチャンとしての人生そのものだと思いませんか。
俯瞰的に世間を眺めながら、一時的な寄留先で大儲けを企む必要も、血眼になって働く必要もありません。
イエスキリストの公生涯も、こういったスタンスだったのではないかと想像しています。
逆に、ノンクリスチャンはどうでしょうか。
自分には帰る場所がないと思い込むか、あるいは知らない。
つまり、それは旅ではなく漂流です。
自分の本当の父親の電話番号も知らない。頼れるのは自分とお金だけ。
だから、漂流先でお金を稼いで、自分の存在価値を証明しなくてはいけない。
そして、やがては不法入国者として牢獄に入れられるかもしれないし、無事に帰ったとしても迎え入れてくれる人がいるかどうかも分からない。
一般的に、ノンクリスチャンの方が勤勉で人格に優れていると思われるでしょうし、事実そうかもしれません。
しかし、その動機がどこから来ているのか、は他人には見えません。
本質的には、結果ではなく動機こそが重要な意味を持ちます。
愛、真理、善を愛するが故に、愛することを欲する。
僕のバックパックには、この”動機”が溢れんばかりに詰められていることを願います。
『さあ、私の父に祝福された人たち。世界の基が据えられた時から、あなたがたのために備えられていた御国を受けつぎなさい。
あなた方は私が空腹であったときに食べ物を与え、乾いていた時に飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、私が裸の時に服を着せ、病気をしたときに見舞い、牢にいたときに尋ねてくれたからです。』
繰り返しにはなりますが、今記事の内容と合わせて「天路歴程」というジョンバニヤン著の本をおすすめいたします。
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