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何を語るか、誰が語るか。

世界のベストセラーである聖書は、キリストの十字架の死と復活、この土台に寄らずして、その権威を保つことはできません。
つまり、イエスキリストの生き様こそが、聖書の言葉の価値の証明です。

一見矛盾に思える記述箇所も、議論と思索の対象にはなるが、疑念を誘発しないという不思議。
正直、「神の言葉だから、人間が矛盾だと感じるかどうかはどっちでもいい。」と思ってしまう。
これは洗脳ではなく、洗礼の聖霊のせいです。

実際、聖書の記述がきっかけで神を知った人は、極めて少ないのではないかと感じます。

以前に、とあるキリスト教会のイベントに参加した子供の父親(未信者)が「聖書は確かに学ぶ価値がありそうだと思った。ビジネスにも生かせそうだ。」という主旨の発言を、動画か何かで耳にしました。それが一般的な見方であることを知り、哀しかったことを覚えています。

聖霊の働きがないと、聖書は自己啓発本に成り下がってしまうようです。

では、人が人を救うことはできないのでしょうか。
僕たちにできることは、祈ることだけなのでしょうか。

以前の僕なら「イエス」と答えていましたが、今は「ノー」。
キリスト者は、聖霊(神の霊)とニコイチです。紀元後において、神は聖霊を通して人を導いておられるのですが、逆に言えば、人を介さずして、聖霊がこの世界に働きかけることはできません。できないというより、しないという契約を人類と交わしてくれた。

イエスが、わざわざこの世で十字架で苦しみを受けて死んでくださったのは、人類と新たに契約を結ぶためでした。だから、紀元後の聖書は新約聖書と呼ばれています。

旧約時代は、たった数人の預言者を通して、神がこの世に働きかけてくださっていましたが、他の民はそれを理解できず、「偶像礼拝に陥る→戦に敗れる→改心する→神が憐れむ」というサイクルを繰り返したことが、旧約聖書には繰り返し記述されています。

そもそも、旧約聖書は最終的にメシア(救世主)の誕生を指し示しているのですが、イエスキリストをメシアだと認められなかったユダヤ人が、イエスを十字架で殺してしまいました。そのため、ユダヤ教徒は今もメシアの登場を待ち望んでいるようです。

なぜ認められなかったのか。その理由は多々ありますが、その一つに「何を語っているかではなく誰が語っているか」という、人間的な価値観の呪縛があったのではないでしょうか。

そして、その性質、つまり義なる人を十字架で殺してしまう性質は、現代人にも脈々と受け継がれています。
イエスを十字架につけたのは、ユダヤ人だけではありません。僕もあなたもその一人です。

外面に囚われず、心の目で、耳で、善をなせるように、どうかわたしの目の梁を取り除いてください。イエス様の御名によってお祈り致します。

罪を行っているものはみな、罪の奴隷です。奴隷はいつまでも家にいるわけではありませんが、息子はいつまでもいます。ですから、子があなたがたを自由にするなら、あなたがたは本当に自由になるのです。

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