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優しい女性って幸せになれないんだってよ

世の女性に言いたい、
優しい女性って結局幸せになれないのではないか。

幸せになりたいから、優しくあることを保っているのに、いや、自分が優しくあることで幸せであればよいと願っているのに、その優しさは不幸せの境地にどんどん引き寄せられていくのではないか。

***

そもそも「優しい」とは?

まずはじめに、ここでいう「優しい」とは何か定義をしておく。

「優しい」という言葉は普段多様に使われている言葉であり、人それぞれ抱いている意味に若干ずれがあると思うが、私がここに定義する「優しい (人) 」とは、
・外見 : 穏やかでやわらかい雰囲気を持っている (人)
・内面 : 周囲に気を遣えて従順であり情深い (人)
である。

もっと細かく定義する必要もあるのかもしれないが、敢えてこの程度にしておこうと思う。

私は「優しい」と言われることが好きではない

私は自分のことを優しい人だと思う。そして、人からも「優しいね」と言われることが非常に多い。友人からも「今まで会った人の中で一番優しい」と言われたことが何度もあるし、歴代お付き合いをした人からも「ほんと優しいね」と言われ続けた。そのため、自称優しい人ではないはずだ。私自身は普通に生きているだけなのだから、優しいことはある意味才能なのかもしれない。

ただ、社会人になった頃だっただろうか、「優しい」と言われることが好きではない自分に気付いたのだ。私のイメージする「優しい」は、「自己犠牲」「気弱」「従順」であるからだ。

どうも「優しい」と言われ続けてしまう私だが、理想の女性はというと、タフで芯がしっかりとあり自分を大事にしている人だ。外見はスラっとしていて、物事をハキハキと伝え、自分の意思を尊重していて、キラキラとしている、そんな人に憧れを抱いているし、そういう女性になりたいと思っている。芸能人でいうと、米倉涼子さんや菜々緒さんが私の理想像に近い。

スキなファッションに関しても、この理想像が深く関連している。私が持っている優しそうな外見や雰囲気からかけ離れていることを自覚しているが、ピンヒールや黒いレザージャケットが好きだ。スタッズが付いているハンドバッグなんかも購入するかは別にしていつも心が奪われる。

自分と自分の理想の女性が180度対極のところにいる気がしてならず、もがくにもがき切れていないのだが、人から「優しいね」と言われるよりも、「強いね」とか「我儘だな」とか言われた方が何十倍も嬉しいのだ。

優しい人って損をしている

私自身、優しいことにより損をしていることが多く、例は挙げれば限りがないがたとえば、

・ 友人とのランチのお会計時。一人1500円ずつの合計3000円を一旦私が支払った。友人は小銭がなかったため、「じゃぁ500円は今度で良いよー」と笑顔で伝えて1000円を貰った。その後500円は帰って来ていない。その友人に会っても何となく言いづらい。
→ 500円って30歳をむかえようとしている大人にとっては大した額でないといえばそうなのかもしれないが、なんだかモヤモヤする。こういうことが実に多く、塵も積もれば山となるため、金銭面でも損をする傾向にある。

・ 私は定期的にジムに通っているのだが、個人の感覚だとわりと強めにスタッフの人がそのお店の健康食品等の商品の勧誘をしてくる時がある。全く興味がないのに邪険にできず話を聞いてしまう。
→ 私にとってとにかく時間と労力の無駄だということは分かっているのだが、なかなか話を聞くこと自体の断り方が分からない。そして、おそらく声を掛ける側も声を掛けやすい優しそうな人に絞って勧誘をしていると思われる。

・ 職場では困っている人を放っておけず、タスクを自分一人で抱え込んでしまう傾向がある。お子さんが熱が出たと言って早退することになったママさん、残業が続いていて疲れていそうな後輩や突発的に入った荷が重そうな仕事を引き受けた同期などを、たとえ私自身に余裕がない状態だとしても周囲を助けようと努めてしまう。自分がキャパオーバーになったとしても、仕事を引き受け、彼ら彼女らの困っている人たちに感謝をされると嬉しいと感じてしまう自分がいる。
→ 結局は自己犠牲が美徳だと思っているのだ。かつ、昔から、周囲に迷惑をかけまいと思っている。人に助けを求めることが苦手で、キャパオーバーになったりストレスをため込んだりで体調を崩すこともある。

などなど。

多分、私の優しさが原因で不幸の境地へと気づかぬうちにもはや引き寄せられている。

優しくない自分になれるのか

では、優しくない自分へと変身なのか進化なのかすることはできるのか。

先に書いたように、ピンヒールを履いて、黒いレジャーのジャケットを羽織り、スタッズが付いたジャラジャラのいかつめのバッグを持てばよいのか。髪の毛を金髪にカラーリングし、バサバサな付けまつ毛をすれば良いのか。生まれ持った柔らかいか細い声を、大きく太い低めの声になるよう意識して喋ればよいのか。

外見をただイケイケで派手にして、我儘に傲慢に自分のことだけを考えて生きていくこともまた違うと思うけど (そもそも私にはこの生き方は性質上難しいかもしれないと思うけど)、私のこの優しさをどうすれば良いのかについては正直なところお手上げ状態だ。

「優しい」について考えたきっかけ

このようなことを考えたきっかけは、最近『優しいあなたが不幸になりやすいのは世界が悪いのではなく自業自得なのだよ』(藤本かよこさん著)を読んだことだ。

なんともキャッチ―なタイトルに惹かれ購入したのだが、本を買ってすぐに一気に読んだ。私にはとてもヒットした一冊で、自分と優しさとそして幸せの関係について考えてみることができた。

著者である藤本かよこさんも20代半ばに、自分の優しさが不幸になりやすい原因だと理解して自身の気質を矯正したとのことだ。

私は、すでに子供の頃に自分の気質がけっこう優しいことに気がついていた。だから、クズ人間を呼び寄せやすいことにも気がついていた。自分の気質が無駄に負担を引き受けやすいものだとも気がついていた。その問題について、私は私なりにずっと考えてきた。そして、それはこの世界の理不尽さやクズ人間の多さのせいではなく、自分自身の内面の問題なのだと二十代の半ばにやっと理解した。で、長い時間をかけて、私は私自身を矯正してきた。(引用:藤本かよこ P15)

藤本さんの言葉は私の心に刺さるものが多かった。そして、藤本さんと同じように、自分自身の気質である優しさを矯正したいと強く思った。それは、この本を読んで初めてそう思ったのではなく、薄々私は変わらないといけないと分かっていたところ、この本が背中を後押ししてくれたというのがピタリとくる表現である。

優しさをリセットすることにした

「自己犠牲」「気弱」「従順」
そんな優しさは辞めることにした。今までの優しい私を手放し、新しい優しい私を迎えたい。自分のことをもっと大切にしたいし、もっとハキハキと自分を魅せたいし、自分の意思をもっと尊重したい。何より、優しいことが原因で不幸になるなんて、そんなのはごめんだ。

結論、優しいは悪ではないと思う。私は優しい人間なのだから、それをすべてガラッと変える必要はなく、残しておく価値のある優しさの一部は持っておきつつ、徐々に新しい優しさへシフトしていけば良いのだとなんだか一人で腑に落ちた。

自分の人生なのだから自分を一番に大切にしてよいはず。そして、幸せになっていいはずである。



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