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後天的な金子光晴と私

僕のやりたいことは別にあって、その機会は永久にのがしてしまった。文学者や、芸術家でいくらえらくなってもしかたがない。政治家や、軍人でもない。商人でも、冒険家でもない。僕はただ、絶代の美貌にめぐまれて、それが衰えぬ若さのあいだに死にたかったのだ。

金子光晴『詩人』

バックパッカー気質の私にとって、金子光晴の『マレー蘭印紀行』『どくろ杯』『ねむれ巴里』『西ひがし』とつづく紀行文はとても蠱惑的だった。題名から素晴らしい。しかし、海外渡航した時期をはさんだ自伝『詩人』については知らず、読んだのはつい最近であり、つづけて『絶望の精神史』を読んだ。

金子光晴の生まれた明治28年は、日清戦争が終わった年だった。日露戦争、関東大震災、日中戦争、第二次世界大戦の時代を生き、昭和50年に亡くなった。学者による歴史考証ではなく、なまの経験をともなう観察であるがゆえに、訴える力が強く迫りくる。

僕の血縁をたずねてみると、投機的な実父の系統に、事によるとそういう血が流れているのではないかとおもうのだが、僕の兄弟達は、もっとおとなしい人間ばかりが揃っている。むしろ、後天的な、僕の育った刺激的な環境のせいではないかとおもう。明治末年から大正初頭にかけての戦争で一流国になった日本人の「虚栄」が、精神の虚弱な、感じ易い少年の僕を、異常に駆り立てて、から廻りさせた結果が、実社会の生活に適応しない、平均のとれない人間をつくりあげてしまったのではないかとおもう。

金子光晴『詩人』

上記引用の「戦争」を「経済」に置換すれば、まさに昭和後期の私を説明してはいないだろうか。金子光晴は連綿とつづく封建的風土の源流を江戸時代の武家(養母の父は讃岐藩士だった)にまで遡り、「義父も、義母も、その他の人々も、成長をゆがめられた個々の犠牲者にすぎなかった」と記す。

昭和に生まれ、平成、令和と生きてきた私にも、封建主義の連鎖が現代にまで及んでいるという実感は強く、金子光晴の率直なことばのひとつひとつが胸を突く。

私の父方の先祖は武家だったらしい。しかしその後没落して、曾祖父が丁稚奉公していた商店を買い取った。どんな手を使ったのだろうか。その財力で祖父は大学に行って会社を継いだ。経営者の息子として育った父も大学に行き、大企業に就職し、エリート意識と権力欲を高めた。自尊心が強く、「誰に養ってもらっているのか」と妻子を殴った。反共産主義、反在日コリアンを臆面もなく口にし、PTA会長に就任すると左翼の教師を追放した。「俺はもっと上に立つべき人間だ」と高校生の私に言った。

母は貧しい庶民の出身であり、祖父は両親を早くに亡くして弟たちを養った。娘である母は嫁いだ後、夫婦喧嘩で家を飛び出して実家に帰ってもその周りをうろうろするだけで、結局は父のもとに帰ったらしい。祖父があまりに厳しく、喧嘩ごときで実家の敷居をまたがせる親ではないと知っていたからだった。母は結婚相手を誤り、結婚に失敗した。3人の幼児を抱え、離婚が許される時代ではなく経済もともなわず、生きるために信仰に走り没入した。私はそう思っている。

皮肉なことに、母の信仰は父の封建主義を下支えした。教義に基づき離婚は禁止され、母と子は殴られても抵抗しない。「信仰が強まるのだから殴られてありがたいと思いなさい」。信仰などしていない私に母はそう言った。子に信仰を強いる母と、子に信仰を禁じる父。身体的虐待と心理的虐待が入り混じり、何もかもが暴力的で、とうてい自力では抜け出せなかった。

大学4年生、誰もが就職活動に励むなか、私はやり切れない思いを抱えていた。あの家庭環境を生みかつ放置した日本社会への不信と侮蔑から内定を蹴り、やがて茫漠とした海の向こうを彷徨った。

齢を重ね、暴力をともなった支配について私は父をなじり、人格を否定して席を蹴り、断絶した。死を前にして罪を認める機会を与えたが、父は正当化したまま2ヵ月後に死んだ。私は母に言った。「これでやっと自由になれるじゃないか」。しかし母は「自由なんか欲しくない」と言った。これこそ、母が子から自由を奪い続けた、封建主義とメビウスの輪で繋がる回路だった。

日本人として生まれてきたことは、はたして、祝福してよいだろうか。悲運なことなのだろうか。その答えは、だれにもできないことであろう。しかし、僕が、防波堤や、虫食った岩礁の上に立って、黒潮の渦巻くのをながめながら、「とうてい、逃げられない」と感じたことは、日本がむかしのままの鎖国状態とあまり変わりがないことへの絶望とみて、まちがいはないだろう。

金子光晴『絶望の精神史』

かつて私が住んでいた地方には「立志式」があった。会場となるホールで、小学生と教師がリハーサルしているところに偶然居合わせた。小学生は高学年、教師は30前後の女性だった。志を立て、将来について発表する儀式であるが、親への感謝のことばも述べなければならない。子どもは自由にしゃべっていいわけではなく、原稿には教師の検閲が入っている。

ホール中央の座席に陣取った女性教師が大声で喝を入れる。「声が小さい!感情を込めて、本気でやらんか!」。子どもたちは萎縮する。やりたくてやっているわけではない。そこには加害者と被害者がいて、傍観者がいて、全員が犠牲者だった。数十年前の話ではない。つい数年前のことで今もなお続いている。

こういうもののなかで、嫌悪と悲しみの限りを味わって成人しながらも、それらはしらないあいだに僕のからだの毛穴から滲み込み、肌に染まりついて、僕の生成の一部となりはてていたのであった。そのままでいけば、僕は、明治の旧時代の人とおなじ、類別のつかない人間として育ち、その社会の人達の外面のていさいをそなえ、気質をうけつぎ、彼らと同じように世間態を合わせて生活し、ルーズな性道徳を身につけて、妻をもらい、子を育てて、今日、あるいはもっと裕福な生活人となっていたことであろう。

金子光晴『詩人』

あの時、私が子どもの人権を盾に立志式のありように異を唱えていれば、保護者を含めて小さな社会のあらゆる方向から攻撃を受けていたことは想像に難くない。

大衆は、内心の苦悩をひたがくしにして、強権者の前で、自己をカムフラージュしていたにすぎない、とあとになって言うが、それは戦争がだんだん追いつめられて、不自由が如実になってきてからのことで、当時の大衆はかなり積極的な逆上した意見をもって、反対論者にかぶさりかかってきたものだった。規律がないだけ、圧力をもった大衆は、軍人より輪をかけて、いやなものになっていった。そして終戦後いまも、そのことには、すこしも変わりがないように思われてならない。

金子光晴『詩人』

衆愚というものにはたしかな手触りがある。戦争で四肢をなくして帰郷した兵士を生ける軍神として祀り上げる村民と妻の苦しみを描いた若松孝二監督の映画『キャタピラー』(2010年)を思い起こさせる。

金子光晴も私も、なぜ日本に帰ってきたのだろうか。慣れ親しんだなにかに係留されている。つきつめれば、それは日本語ではないかと思う。あらゆるものがことばの堆積なのだから。朝起きて日本語が消失していれば、帰属意識は無事に崩落するのかもしれない。

古い皮膚病が再発するように、日本はまた「やらかす」だろう。その時、徴兵を拒否し、非国民と指弾されても、もやいを解き、海の向こうに自らを放つ術を備えておかなければならない。難民、亡命、移民、流民。

はたして私は nobody になれるだろうか。

同時に、ばらばらになってゆく個人個人は、そのよそよそしさに耐えられなくなるだろう。そして、彼らは、何か信仰するもの、命令するものをさがすことによって、その孤立の苦しみから逃避しようとする。
世界的なこの傾向は、やがて、若くしてゆきくれた、日本の十代、二十代をとらえるだろう。そのとき、戦争の苦しみも、戦後の悩みも知らない、また、一度も絶望をした覚えのない彼らが、この狭い日本で、はたして何を見つけだすだろうか。それが、明治や、大正や、戦前の日本人が選んだものと、同じ血の誘引ではないと、だれが断定できよう。

金子光晴『絶望の精神史』

日本人の誇りなど、たいしたことではない。フランス人の誇りだって、中国人の誇りだって、そのとおりで、世界の国が、そんな誇りをめちゃめちゃにされたときでなければ、人間は平和を真剣に考えないのではないか。人間が国をしょってあがいているあいだ、平和などくるはずはなく、口先とはうらはらで、人間は、平和に耐えきれない動物なのではないか、とさえおもわれてくる。

金子光晴『絶望の精神史』

 

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