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最期に気づくこと

佐々涼子著『夜明けを待つ』(集英社インターナショナル、2023年)を読んだ。

ノンフィクション作家は、新聞や雑誌の記者出身が多い印象があるなかで、彼女は異色のルートを歩んできたように見える。子どもふたりを育てる赤貧の主婦、日本語教師、レジ打ち、洋品店バイト、ライターズスクールを経てノンフィクション作家となった(本書所収エッセイ『未来は未定』より)。親近感が湧く。

私の好きなノンフィクション作家、例えば山田清機、上原善広、最相葉月といった方々の作品は、作家自身の生きざまが交錯する。書く動機が伝わってくる。佐々涼子もそう。といいながら、私はこれまで『エンド・オブ・ライフ』(集英社インターナショナル、2020年)しか読んでいない。

『エンド・オブ・ライフ』は、私の欠落した部分、潜在的に知りたいが知らなかった空隙に浸み込んで満たしてくれた、在宅医療を取材した作品である。

末期がんの女性が夫と小学生の娘と行く潮干狩りに医療チームが同行する。出発の朝から血中酸素飽和度70%、医師から「今日が最後になるかもしれない」と言われるが、女性と夫はそれでも行くと言う。覚悟はできていると。容体はどんどん悪化するにもかかわらず(飽和度50%台)、女性は水着に着替え、車いすで海に入り、娘と遊ぶ。さらに容体は悪化して車中で看取る可能性がでてくる(飽和度40%を切る)。女性は家族との約束を果たし、思い出をつくり、自宅に到着する。待機の医師が駆けつけてから数分後、旅立つ。

この壮絶な旅に同行した看護師が、末期がんを宣告される。何人もの看取りをしてきた看護師との最期の日々を、母との最期の日々を、著者は丹念に書き記す。読んでよかった。私の何かを埋めた。

そして、佐々涼子はがんになる。悪性の脳腫瘍で、平均余命は14か月。発病が2022年11月、本書のあとがきで明かされたのが2023年9月、同年11月発刊。現在、2024年3月。

本書に収められているエッセイとルポルタージュは、いずれも発病前に各紙誌で発表されており、生と死を見つめている。ずっとそうだった。自らに否応なく迫る死をあとがきに記すにあたり、彼女には達観が見られる。もちろん強がりで書くこともできるのだが、そうは見えない。取材と人生を通して、死を受容するまでの行程に接してきたからではないだろうか。

作家にとって脳を侵されるということは、強い恐怖を伴うはずである。今日書けても明日は書けない。その恐怖を前にして、彼女はあとがきを書いた。

死を前にした人が最期に気づくことに、私は大きな関心がある。さしせまる死を受け入れたとき、人は「こうしておけばよかった」「こうしておいてよかった」と思うだろう。命を代償に悟るだろう。そしてそれは、純度の高いメッセージになるだろう。

私の父は死の2か月前、「俺の人生は失敗だった」と言ったという。しかし「何が失敗だったのか」を語らぬまま、父は逝った。それこそが遺産になったかもしれなかった。

「ハングリーであれ。愚か者であれ」と訴えたスティーブ・ジョブズのスピーチ(スタンフォード大学卒業式、2005年)は、何かを成し遂げた人物であることに加えて、一度は余命宣告を受けた者が語る「生」であったため真に迫り、世界中で感動を呼んだ。

『エンド・オブ・ライフ』では、末期がんと診断された看護師が「生きたようにしか、最期は迎えられないからね」と言う。まさにその通りだろう。ならば、「死は生の一部」「死は生に属している」と言えないだろうか。

佐々涼子の近況は、うかがい知ることができない。『夜明けを待つ』のあとがきで、横浜のこどもホスピス「うみとそらのおうち」を訪れた話から、彼女はこう記している。

 先日、代表理事の田川尚登さんがこんなことを語ってくれた。「寿命の短いこどもは、大人よりはるかに、何が起きているか、ものごとがわかっています。だから、『もっとやりたい』とか、『つぎはいつ遊ぶ?』と、わがままを言ったりしないんです。ただ、その日、その瞬間のことを『ああ、楽しかった』とだけ言って別れるのです」
 ああ、「楽しかった」と……。
 取材をしていた時には、まだピンとこなかった。だが、その時わからなかったことも、今ならわかる。私たちは、その瞬間を生き、輝き、全力で愉しむのだ。そして満足をして帰っていく。
 なんと素敵な生き方だろう。私もこうだったらいい。だから、今日は私も次の約束をせず、こう言って別れることにしよう。

 「ああ、楽しかった」と。


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