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「性被害者」は進行性の病気である

料理研究家のリュウジさんが、奢る奢らない論争で炎上しているのだ。判明していることとしては下記ツイートを見たほうが早いのだが、要するにリュウジさんの酒癖と女性側の態度の悪さの悪魔合体といったところなのだ。しかし依然として情報が錯綜しているのだ。

しかしこれを、いつもの男女論に発展させる勢力がいるばかりか、「ミソジニー拗らせすぎ」と論理飛躍する勢力まで出てきたのだ。普通に考えたらそこには至らないはずなのだが、興味深いのはそれを言い出しているのが性被害者支援アカウントであることにあるのだ。なかなか闇の深い話なのだ。


発端の発言はこれなのだ。その後の情報の錯綜は各自で調べてほしいのだ。

ラディフェミたちのリュウジさん批判

まさかの斜め下からの批判なのだ。リュウジさんに非があったとしてそれのどこにミソジニー要素があるのかわからんのだが、ひとつ言えることは認知の歪みにより的外れなミソジニー批判がやめられなくなっているアカウントが集結しているのが下のまとめなのだ。

その筆頭に挙がっているのがPlumなのだ。このアカウントは男女共同参画推しを標榜しているのだが、その実態は男性へのヘイトクライムに満ちているのだ。そして固定のnoteからもおそらく性被害の原体験があったであろうことを匂わせているのだ。これはこのまとめの他の論客においても同様なのだ。
そしてPlumにおいては、リュウジさんを人格否定する言葉まで平然と言い放っているのだ。これが被害者支援を標榜しているとは呆れるのだ。

得てしてラディフェミには性被害経験があるのだが、彼らは自らの人生の責任を取ろうとしないのが共通項なのだ。痛い批判は見えないように通知を切り、「セカンドレイプ(二次加害)」や「矮小化」などの言葉ばかりか、「認知の歪み」という言葉すらもヘイトクライムの正当化に使い、自分の生きづらさの責任を全面的に男性に押しつけることによって自分の人生を他者に明け渡してしまっているのが常なのだ。

フェミニズムは時として嗜癖になる

性依存症治療のテキストにはこうあるのだ。

セックスってそれほど問題でしょうか?
 私たちはこの手の問いかけをよく耳にする。しかし、実はこの表現は性依存症者が問題のある自分を否認する際に好んで用いる言い訳のひとつだった。自分たちは、例えばワーカホリックのような他の嗜癖については、「真面目に働く行為のどこが問題だ」と反論し、強迫的な過食をしては、「だから何なのだ、生きるためには食べなければならないじゃないか」と反発した。またアルコールや薬を用いる際に「リラックスしたり、うまく乗り切ったりするためにちょっとした助けを借りて何が悪い」とうそぶいた。さらにはセックス中毒について、「セックスってそれほど問題でしょうか。だってそれは天与のものでしょう」などと、同じように言い訳をしてきた。人々はテレビや映画、音楽等の視聴についても同様の理屈を持ち出す。そして私たちは嗜癖を正当化しようとするときに、いつもこのような抗弁を思いつく。然るにこの種の言い訳がなされる時、どれほど自分で自分を欺いているか確かめるのは簡単だ。そしてセックスはおそらく最も多くの災いを引き起こす。

セックスアホーリクス・アノニマス(ホワイトブック)P39

アルコールや食べ物、性といったよく知られる依存対象に限らず、あらゆるものが嗜癖となって人々はそれを正当化するのだ。無論、性嫌悪も嗜癖になるのだ。
嗜癖とはアレルギー反応なのだ。性においては、異性や性への不信感や失望感を原体験として性的な囚われや執着が起こるのだが、性嫌悪についても同様のアレルギー反応が起こるのだ。性依存と性嫌悪の違いは、執着(依存)の方向がマンセーかアンチかの違いでしかないのだ。
そして両者は大抵の場合セットなのだ。ゆえに「女嫌いの女体好き」というスラングが生まれるのだが、これは性別を逆転してもまったく同じことが言えて、その執着の仕方が男女で違うだけの話なのだ。

依存症は進行性で死に至る病気なのだが、これは「性被害者」においてもまったく同じことが言えるのだ。孤独で居続けることによって最終的に死を選んでしまった依存症者や性被害者はたくさんいるのだが、ラディフェミ(と言う名のミサンドリスト)は「性被害者」という病気で死なないための生存戦略として男性へのヘイトクライムに依存しているのだ。
しかしこれも死に至る依存行為であるゆえに、それ自体で死なないまでも続ければ確実に身を滅ぼすことは、Colaboの不正会計疑惑から様々な批判が噴出してもなお男性へのヘイトクライムを続け、東京都から制裁を受けた仁藤夢乃氏の例に明らかなのだ。

SNS時代の昨今、過去の性被害を明らかにしていなくてもその人の現在の言動からそれが容易に想像できることが少なくないのだ。性を解放する運動をしていたはずの人がだんだん人を批判するようになり、最終的に異性へのヘイトクライムに没頭する人たちをネットで何人も見たのだ。Colaboもそうだし、そのColaboの表現規制やAV新法に反対の立場を取っていたはずが男女論にどっぷり浸かってしまった某AV女優、あるいは子供の性被害・性加害を防ぎたいあまり善悪の区別ができない年齢の子にまで性教育を施そうとする性教育クラスタ、すべてが性の扱いに対して強迫的になっていて、自分が加害者になっていることにまったく気づいてないのだ。
また「理解ある彼くん」漫画の描き手の女性なども、その後離婚しているケースが多々あるのだ。多くの場合は生きづらさを抱えているのだが、その背景にあるのが性被害かもしれないし、性被害でなくてもいじめや虐待など何らかの被害者で居続けていることは確実なのだ。それゆえに「思い通りに生きていけなくなった(12ステッププログラムのステップ1)」のだ。

表現分野で病気の進行する「被害者」当事者

「被害者」という病気の進行は、あらゆる分野で見かけるのだ。福祉の分野では段ボール授乳室の件が記憶に新しいのだが、病気の進行している人の多さが顕著に表れているのが表現の分野なのだ。宇崎ちゃん、キズナアイ、ラブライブ!、直近では宇都宮ライトレールなど挙げればキリがないし、最近は企業だけでなく個人のイラストレーターにまで攻撃しているのだ。つまり、それほどどうでもいいことに関してキレるほど病状が進行している「被害者」という病気の当事者がたくさんいるということなのだ。

この人の言い分はもはやまったく意味がわからないのだ。性的消費ということは架空の女児の画像を見るのを楽しんだだけで女児に加害したのと同じだとでも言いたいんだろうが、ラーメンの画像を見ただけでその店のラーメンを食い逃げしたのと同じにはならないし、コナンの漫画やアニメを見ただけで他人を害したのと同じにはならないのだ。もはや被害妄想なのだ。

依存症からの回復施設では、そこに入寮するほど症状のひどい利用者が依存行為に走れないようにスマホを長期間(年単位)没収されることが多々あるらしいのだ。
今やスマホなしで生活することは考えづらいのだが、「性被害者」という病気が進行して気に入らないコンテンツを叩くのがやめられない人たちは、施設に入っている依存症者と同様にスマホを没収すべきレベルの深刻な依存症者であり、女性解放運動なんかやめて治療に専念すべきなのだ。

何度か引用しているのだが、性依存症治療のテキストにはこうあるのだ。

 AAの文献によると、恨みが第一の犯人であると言えるだろう。恨みは他の何にもまして性的強迫症者を破滅させる。なぜならば、私たちは「恨みをはらす」のにアクティングアウト(行動化)以外の方法を思いつかないからだ。アクティングアウトは解決、武器、報復手段に見え始める。そして、どれだけ私たちを傷つけたかを相手にわからせる方法に見え始める。
 意識的にあるいは無意識に、私たちはスリップを正当化する理由を捜し出す。「最近ムシャクシャする」「誰も自分を理解してくれない」「何もかもうまくいかないんだ」

性的強迫症からの回復のプログラム 第⼆版

性被害者で居続ける人は、ヘイトクライムによって「私はこんなにも傷ついているんだとわからせてやる、私を理解しろ」と主張し、それに依存しているのだ。しかし言うまでもなくそれは多くの敵を生み出しているのだ。
これが加害者側の独白やカミングアウトと決定的に違うのは、主張(とは名ばかりのヘイトクライム)に依存していることにあるのだ。恨みを第一の犯人としたその嗜癖によってゆるやかに人生を逸脱して狂っていく、そういう点で彼らは自分で自分の首を絞め、自らの意思で生きづらさを選択しているのだ。だから死に至る進行性の病気なのだ。

性暴力の話に脊髄反射してキレる人たち

得たイさんが不思議に思っているのは、日常的には普通の話をしてるような人たちの中にも、性暴力や性犯罪の話を聞くと豹変して突然キレる人たちが大多数いることなのだ。男女関係なく多くいて、当該発言の人あるいはニュースに対していきなり去勢しろだの死ねだのと言い始めるのだ。

下記のスレッドにも過去にこの人が間接的に遭遇した性暴力の話があり、被害者は自死を選んでしまったそうなのだ。しかしこの話に何も関係ない人たちが、加害を止めなかったのは性犯罪者と同罪だと言わんばかりに多く噛みついてきて罵声を浴びせ、なんなら誹謗中傷まで正当化している人までいるのだ。これもまた、被害者で居続けることによる病気の進行なのだ。

性暴力の話でキレる人たちにも様々な背景があるのだ。強い言葉を使って誹謗中傷とも言える言葉を投げる人の中には男性も多くいるのだ。おそらくこれは自動思考に近いものがあるのではないかと思うのだ。
まったく関係ない他人の話で自分が傷ついたかのように感じてしまうのも、認知の歪みのひとつなのだ。

第一の犯人は恨みだった。それは他の何にもまして、アルコホーリクを破滅させる。それは私たちをスピリチュアル(霊的)にむしばんでいくすべての原因となった。私たちは精神的、身体的に病んでいたばかりでなく、スピリチュアルな面でも病んでいたのだ。だからスピリチュアルな病気が克服された時、私たちの精神も肉体も回復した。

恨みの問題に取り組むために、私たちはその内容を紙に書き出した。自分が腹を立てている人間、しきたり、原理などを一覧表にした。そして、なぜ腹を立てているのか自分に尋ねてみた。ほとんどの場合、私たちの自己評価、 財布の中身、野心、対人関係(性も含めた)が傷つけられたり、おびやかされているのが原因であることがわかった。

アルコホーリクス・アノニマス P93

口とペンの抑制ほど大切なことはない。性急な批判や腹立ちまぎれの議論、不機嫌や無言の冷笑も避けなければならない。このような感情の仕掛け爆弾に、プライドと復讐心が追い打ちをかける。わなにはまりそうになったときには、まず一歩しりぞいて考えてみるよう自分を訓練しなければならない。自制心を無意識に働かせることが習慣としてできるようにならなければ、よい方向で考えることも行動することも、できるものではない。

12のステップと12の伝統 P119~120

普段穏やかに見えても、人生に性に関する傷つきによる恨みを溜め込んでいれば、それが強く表に出てくるのが性犯罪の話なのだ。性犯罪の話でキレることもまた、人生の答え合わせなのだ。
恨みが出てくること自体は答え合わせなので止めようがない「症状」なのだ。だから対処や治療が必要で、それについてもプログラムとして書いてあるのが上記の引用なのだ。

トラウマの観点から見ると、これは「いま、ここ」で起きていることではないと認識することが大事なのだ。そして、過去の囚われによって自分が苦しみ、そしてそれが依存症の症状と同様にアレルギー反応として他人を傷つけている、そのことを認識しなければならないのだ。

被害からの解放に必要なのは「赦し」である

被害者は、現実に被害に遭っているから被害者意識を持ってそれを振りかざすに至るのだ。その根っこにはいじめ・虐待・性被害などの原体験があるのだが、その恨みの感情を解放する方法をほとんどの人が知らないのが現状なのだ。

しかし解決はあるのだ。被害者で居続けることによる生きづらさを本当にどうにかしたいと思うなら、被害者でいることをやめられないと認めてそこから脱出するには何でもやってみようと思うなら、死にものぐるいで方法を探すのだ。性被害から立ち直るには人生を懸けて命懸けでやらなければならないのだ。

性依存症治療プログラムにはこうあるのだ。

対価
 棚卸しが絶対に必要な理由は他にもある。自分の欠点や短所を明らかにしないでおいて、どうしてそれらからの赦しや解放を経験することができようか。秘密を外に出す行為そのものが、自分を変えたい気持ちの最初の具体的な証となる。秘密の暴露によって、これからもずっと良き実を結び続けるプロセスがはじまる。第4、第5ステップをやった時から、自分自身の回復に責任を持ち、自分の問題に向き合う習慣を残りの一生身につける。私たちが、自分と他の人々との霊的なつながりによる奇跡への扉を開ける時、回復と癒しは約束される。たとえ自ら実感できなくても、それは生き方の源泉となる。自らの第4ステップを書き上げられるまでは、自分自身と相対し、本当の自分を見つめることができないのは明白だ。だとすれば棚卸しを仲間に与えれば、自分から短所や欠点を手放す気になるだろうし、間違った生き方から解放されたい気持ちにもなるはずだ。

セックスアホーリクス・アノニマス(ホワイトブック)P110

当たり前の話なのだが、自分が相手を赦さない限り自分は被害者のままなのだ。しかし被害者で居続けることは特権階級などではなく、ましてや他人を自分の言いなりにする手段でもないのだ。その根源が恨みの感情の溜め込みであることは先述の通りなのだが、恨みの感情を溜め込んだ結果、生存戦略として身体と脳に刻み込まれた行動パターンを欠点や短所というのだ。
その行動パターンを変えない限り、赦しは得られないし他人を赦すこともできないのだ。他人を赦すことは自分が持っている権利ではなく神から与えられる資格なのだ。過去の被害について相手を赦せないのは、赦す資格を与えられてないからいつまでも恨みに囚われて苦しい人生を送り、癒やしを得られないだけだと気づかなければならないのだ。自分が相手を赦さないことによって生殺与奪を握ったつもりになり、相手に一生罪を背負えと裁くことなどは甚だしい思い上がりなのだ。

依存症治療の基礎テキストは、自分の性格上の欠点などを「鉱脈」や「財産」と表現しているのだ。欠点は汚点ではないのだ。そこに向き合うとき、神は赦しによって癒やしを与えてくださると信じることこそ、「性被害者」という病気からの回復なのだ。

性被害は克服することができるのだ。その一例として、セントラルパーク・ジョガー事件の被害者、トリーシャ・メイリ氏が自身の性被害から立ち直った経験を著書に綴っているのだ。得たイさんは本書を読んでいる最中なのだが、氏は犯人のことに関して恨みや怒りを完全に手放し、それに囚われることなく生きているとのことなのだ。

「性被害者」はいっときの立場であり、それを生き方にしてはいけないのだ。その生き方によって人生がいかに思い通りにならなかったかをよく考え、そして回復行動に移していくことを考えるのが大事なことなのだ。


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