母を赦すこと、愛すること、敬うこと。
「母の日」にSNSを見てると、お母さん大好きな人ってこんなに居るんだ〜と思わされる。
私は小学3年生頃まではベッタリだったけど、兄の死前から色々あり過ぎて...(noteにはよく書いてる)現在進行形でもあり、常時両親を愛し敬うのは決して容易な事じゃない。
聖書には
とある。
毎年5月は様々な思いに駆られながら、母の日と近い日の誕生日を兼ねてプレゼントは欠かさず送ってる。
血縁は酷い仕打ちを受けたからと言って簡単に切り離せるようなものではないと私は思う。例え言葉や行動で縁を切ったとしても、魂はきっとそうじゃない。
どんなに離れていても、長い間連絡を取っていなくても、心の中にある痛みとわだかまりが無くなる訳じゃない。記憶喪失になったとしても魂は覚えてるんじゃないかな、なんて思うくらい。
逃げても楽にはならない上、神様は聖書の中で繰り返し「赦しなさい。」「愛しなさい。」「敬いなさい。」と言ってる。
「あなたにとって良い人なら赦して愛して敬いなさい。」ではない。無条件になのだ。難題すぎる。母においては一番難しい。
俯瞰して一人の女性として見たら理解してあげられそうなことも、親子であり自分が直に受け止めたこととなると、止め処のない感情が湧き上がってくる。
「無理だよ、あの人を赦して愛して敬うなんて...!」と。涙が溢れてくる。
そんな時に、イエスキリストの十字架を想う。
私だって30年以上生きてきて、自覚してる範囲でも複数、無自覚にだって人々を随分傷付けてきたはずだ。そこには両親だって含まれる。私は反抗しやり返したことも山ほどあるのだ。
あらゆる場合に、自分の受けてきた痛みを思う時。自分は被害者である等という方向から考えてしまいがちだけど、聖書を読むと根本的な問題はそこではないことに気付く。
どんなに「自分が先に傷付けたのではない。」「自覚的に人を傷付けたのは子供の頃だけだよ。」等と弁明しても、神様の前では義人とはならない。
仕返しをしなくてもそのような考えが少しでも浮かぶこと、子供の頃に人を傷付けたり嘘をついたりしたこと。神様の前では「誰にでもあることだから。」等と言い逃れはできない。
それは原罪によるもの。認めたくなくても私は罪人なのだ。
こんなどうしようもない私だから、イエスキリストが十字架に付けられる必要があった。そしてそのことによって私の罪が赦された。
...その事実を知ったら自分を棚に上げて両親を責めることなど、本当なら出来ないはずだろう。
私は神様の「赦しなさい。」「愛しなさい。」「敬いなさい。」という言葉に従いたい。でもこの世で肉体を持っている間、実行するのはとても簡単なことじゃない。
ある一定期間出来ていると思っても、また憤り、実行出来なくなる...ということが繰り返される。
だからその度自分の心も気遣い休息を取りつつ、自分の中から湧き上がってくる記憶や感情に負けないように、「力を下さい。」と祈る。
「どんなに愛が返ってこなかったとしても、愛に剣で返されるようなことがあっても、継続的に、心から赦し、愛し、敬い続けられる私に変えて下さい。」
と。
まだまだだけど昔に比べれば出来るようになってきたし、いつか神様はきっとこの祈りに応えられる。母が生きている間に乗り越えよう、私よ。
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